第四話『塾』
入り組んだ町に案内板。
液晶タッチパネル地図の横には緑のスポンジクロスを張りつけた掲示スペースがあり、手づくりお菓子教室の電話番号や事故物件を売りたいという不動産屋の悲痛な願いが画鋲で止めてある。
タダユキが行くべき場所は古い屋敷のようだった。
ハッカーが戦争反対の〈拳マーク〉のミニ動画をその場所にかぶせていたからだ。
――†――†――†――
戦争が始まると、タダユキは地元を出て、トラックに乗り、最前線へと連れて――いかれなかった。
彼は相変わらず実家にいて、というより、実家にいるよう軍から通達があった。
というのも、軍はひとり暮らしする軍人の住宅手当を払いたくなく、そして、軍の寮は空いていなかった。
「いずれ通達がありますよ」
メガネの男が言った。
ワイシャツにネクタイで軍人らしい様子がない痩せた男だったが、彼は旅団付き参謀将校の房飾りを紳士服店の安売りで買ったらしい背広に縫いつけていた。
「はあ」
「情勢は大変いいのです」
旅団付き参謀将校は言った。
「敵は〇三=〇四ラインで押し戻され、393要塞を放棄し、頼みのゲリラたちはあっけなく降伏しています。心配なのはあっさり勝ち過ぎて、息子さんの活躍の場をご用意できなくなるかもしれないってことですよ」
お茶のおかわりを持ってきた母親に旅団付き参謀将校が言った。
「でも、それでも戦争でしたら、やっぱり危ないんでしょう?」
「道を歩いていて交通事故に遭う確率ですよ」
母親が、ひぁっ、と息を吸った。
タダユキの父は交通事故で死んだのだ。
しばらく戦争らしいことは何もせず、アルバイトを始めようかと思ったところで、ついに召集がかかった。
それで、タダユキはこの古い住宅街にある古い家を目指している。
ぼうっと歩いていると、一戸建てや小さなアパートに混じって、資材を置いた工務店や月極駐車場に行き当たる。
ただ、コンビニや本屋に行き当たることは絶対にない。
緑色の光の空の下、携帯端末のマップを眺めて到着したのは二十年前の復刻ブームに建てられたらしい武家屋敷のような家だった。
開けっぱなしの門を通ると、小さな庭に囲まれた母屋があり、その母屋はガラス戸と縁側に縁取られている。
玄関のブザーを押すと、四十代の主婦らしい人があらわれて、
「あら、待ってましたよ。タダユキくん」
とニコニコ笑って、奥へと案内した。
屋敷は中心に小さな玉砂利の庭があり、そのまわりをまた縁側が囲っていた。
部屋はみな襖で閉じられているが、ひと部屋だけ障子で閉じられている部屋があり、そこを開けると、畳の部屋で十一人の年齢性別さまざまな人が座布団に正座していて、その前には古い書見台がある。本は置いてない。
彼ら彼女らは横三人縦四人の形で座っていて、タダユキが座るのは一番後ろの障子から離れた奥の席だった。
彼の前に座るのは小学生の女の子で、彼の隣に座るのはオレンジ色の髪をしたパンクロッカー風の若者、他にも白髪のサラリーマンや買い物帰りの主婦、オタク風の太った男と共通項のない人たちが何も言わず、手を腿の上に置いて、黙って座っていた。
沈黙――そのせいでタダユキはここが何なのか、何が行われるのか、これが戦争とどう関係があるのかたずねるのがはばかられた。
書見台は時代劇に出てくるようなもので、使い込んだらしい穏やかな色合いを帯びている。
本を置くための斜めの板があって、それは一本の脚で立つのだが、基部は平らな引き出しになっている。
これに何か入っているのか調べることはもちろん誰もできない。
誰もぴくりとも動かないからだ。
五分くらい、現代の若者の足がいかに正座に向いていないかを思い知らされたころになって、最初に見かけた四十代の女性が本、というよりは書物と呼んだほうがよい、和綴じの古そうな本を配り始めた。
女性はひとりずつにその本を配り始め、タダユキは一番最後になった。
本を置くとき、
「初めてで戸惑うかもしれないけど、大丈夫よ」
と、言ってくれたのが素直に嬉しい。
本はただ置いてある。誰も開いたりはしない。
表紙は緑の和紙だが、模様はない。ただ、質のよくない和紙なのか、それともそういう作りなのか、引っ掻き傷みたいなものがうっすら浮かんでいる。
それから引っ掻き傷の数を七百九十まで数えたところで〈先生〉があらわれた。
誰かが先生と呼んだわけではなく、自分でそう名乗ったわけではないのだが、長い白髪と顎ヒゲ、和服、厳めしい表情で、それが床の間を背に、タダユキたちと向かい合うように座ったので、そう勝手に名づけただけだ。
〈先生〉が障子を開けてあらわれると、まずそこにいる十一人がさっと深々とお辞儀をしたので、タダユキも慌ててそれを真似した。先生が座るまで、みなそうしていたので、それも真似る。
座った先生には書見台も本もない。
これからどうなるのかと思ったら、先生は突然、
「では、本を開いてください」
と、見かけによらない高い声で言った。
喉になにか詰まったようにもきこえる声だ。
何ページを開くのだろうと思っていると、他の十一人は表紙を摘まんで、最初のページを開いた。
それを真似すると、最初のページには『百』と書いてある。
そして、まわりの人間はそのページをどんどんめくっていく。
次のページには『九十九』とあり、次のページは『九十八』。
九十七、九十六、九十五――八十八、八十七、八十六――五十、四十九、四十八――
――†――†――†――
五感がぼんやりとしていて、光るものや大きな音に注意が向くが、それだけで、またぼんやりとした寝ているのか起きているのか分からないところに落ちようとする……。
いきなり冷水をかけたれたと思ったら、それまでいいかげんにぼやけていたものが一辺に感覚を支配してきた。
焼かれたコンクリートのにおいが襲いかかったと思ったら、タダユキは火がくすぶる瓦礫と向かい合っていた。
見えたのは銃を持った男でタダユキを撃とうとしたので、咄嗟に腕を振ると、
ドドドドドドドッ!
と、自分の拳が何度も何度も伸びて相手にぶつかるような感覚。
銃を持った男は赤い煙を一瞬弾けさせたと思ったら、コンクリートにシミが残って、他は消えてしまった。
――新入り! ぐずぐずすんな!
そう話しかけてきたのはオレンジ色の髪をしたパンクな若者だった。
正確に言うと、パンクロッカーの顔の映像が上に添付されている人型二足歩行兵器だった。紫に塗装された機体にレーザー兵器やらロケット連装砲やらを装備した巨大な武器。
――え? え? え?
――戦場でぼさっとしてると死ぬよ?
そう言ってきたのは赤い機体で小学生の女の子の顔が添付されている戦闘ロボ。
そのアームが装甲車を引き裂き、そのなかからは火だるまになった戦車兵たちが転がり落ちている。
タダユキはこうして戦場の童貞を卒業した。
――†――†――†――
「つまり、空間と意識をこうねじるわけです」
旅団付き参謀将校――今では名前を教えてくれたタカハシ大尉は縁日で売っていそうなプラスチックの蛇みたいなものをねじって、それぞれの両端をくっつけようとするが、そういう設計ではなかったのだろう、ミシッと音を立てて、おもちゃは割れた。
タダユキと母親の手元にはタダユキがあの書見台の部屋で操縦している〈カンダ重工製ライト・キャバリーM34・改〉のパンフレットがあった。
青い機体で右腕には機関砲、左腕には粒子加速砲、肩にはミサイル搭載の武器ポッドがあり、他にもレーダーやジャミング・デバイスなどが積み上げてあるらしい。
「じゃあ、危険はまったくないの?」
「はい。タダユキくんは戦場から離れた場所で、戦闘ロボを操縦し、戦争に参加するわけです」
タダユキはあの機関砲のことを思い出した。
あれで撃たれた男は姿を消したが、うまく逃げたのではないのは赤い煙で明らかだ。
ただ、自分はサイコパスなのかと思うのだが、あのとき一番頭に残っているのは人を殺したことでもなく、いまもアニメで根強い人気を誇る戦闘ロボのパイロットになったことでもない。
空だ。青くて、まばゆい。
それからタダユキは〈先生〉の屋敷に通い、書見台を開いて、四十五か六のページをめくったあたりで、意識が戦場に飛んだ。
戦場は破壊された市街地だったこともあれば、砂漠だったこともあるし、雪山だったこともある。
敵は実は生身の人間を相手にすることはほとんどなく、自分と同じ戦闘ロボか戦車、装甲車の類だった。
レールガンが敵を真っ二つにしたり、膝をついて倒れるまでロケット弾を撃ち続けたりしているのは月並みだがゲームのようだった。
これで死人が出るのが嘘みたいなのだ。
そのうち、青い空のカルチャーショックが薄れると、戦闘ロボを操る感覚が心地よくなってきた。
戦闘が終わると、意識は戦場から引き離され、武家屋敷に戻ってくる。
そこに置いてある書見台はだいたい『七』から『九』あたりのページをめくっていた。
そして、全員が戦場から戻ってくると、先生が今日はここまで、とちょっと笑える声で言い、先生が立ち去るまでお辞儀をする。
あの部屋にいるまではしゃべらないが、外に出ると、口をきくこともある。
割合年齢が近いオレンジ髪のパンクロッカー、モリジマさんといろいろ話すようになった。
「おれがここにいるのは音楽性の違いからだ」
「よくききますね」
「まあ、バンドがこの理由を持ち出すときはだいだいオンナが原因だ」
「女の人が音楽性の源になっているってことですか?」
「お前、ここに配属されてよかったな。戦場だったら絶対に死んでたぜ」
「えーと」
「まあ、二股三股当たり前だからよ」
「あ、そういう」
「当たり前だろ。バンドマンの何が目的ってファンの子食いたい放題なとこだ。お前は何で入隊した?」
「よく分からない。ただ、なんていうか、家業を継ぐか、入隊するかだと思ってて、家業を継ぐのは無理だなって」
「おれもぜってえ酒屋なんて嫌だ」
「おれは嫌ってワケじゃないけど、よく分からないし、絶対に自分にはできっこないと思って」
「じゃあ、進学でも就職でも選べただろ?」
「それなら家業を継げって話になるんです」
「へー。大変だな、オメーも」
――†――†――†――
武家屋敷で戦闘を何度かやって、ふと気になったことがある。
つながっている戦闘ロボが撃破されたら、どうなるのか?
ある日、いつものように書見台の前に集まって、ページをめくり、戦闘ロボにつながっているとき、一度、際どい戦闘があった。
中年のサラリーマンのロボが集中攻撃を受けていて、手持ちの武器を使い果たしてしまったのだ。
しかし、当のサラリーマンは慌てた様子もない。
それはそうか。
彼らはロボに乗っているのではなく、あくまで遠隔操作をしているだけである。
攻撃されたからといって痛みがないのはもちろん死ぬこともない。
ボロボロになりながら、サラリーマンはちょっとため息をした後、その画像が消えた。
そして、その日も何とか戦闘任務を終わらせて、意識を戻すと、サラリーマンの座っているはずの席に誰もいなかった。
「戦闘をやめさせられるの」
小学生の女の子が言った。
「だって、戦闘ロボはとても値段が高いから。壊したら、外されるんだ」
確かに次の日、サラリーマンのかわりに作業服を着た工務店の経理係みたいな男がやってきて、そこに座った。
ある日、09戦区と呼ばれる田舎でタダユキたちの小隊は敵の装甲部隊に奇襲を仕掛けた。
敵もどうやらタダユキたちと同じようにつながった戦闘ロボでタダユキは二体を撃破した。
そこで突然、どこかのハッカーの仕業か、〈声〉がきこえてきた。
――おーい。誰かいないのかな?
――誰だ?
――ああ、いたんだね。そっちは何人だい?
――だから、あんた、誰だよ?
――僕は通りがかりさ。そっちは何人いる?
そういうことは機密なのではないか?と思い、しばらく黙っていると、
――まさか〈本〉でつながってるわけじゃないよね?
――悪いけど、その質問にはこたえられない。軍事機密だ。
――軍事機密とは恐れ入ったよ。で、きみ、このつながりが終わった後、本の数字は? 十三くらいかい? とにかく〇になる前にやめるんだ。
そこでつながりが切れて、部屋に戻ってきた。
あれは何だったのか?
機械がハッキングされたというより、意識がハッキングされたような奇妙な感覚。
それはこの本で繋がったからかもしれない。
(そうだ。本の数字……)
数字は『四』だった。
(あの声は十三くらいかってきいてたけど、そもそも、最初の日でも『九』だった)
ん?と前を見ると、小学校の女の子がいなかった。
どうやら撃破されたようだ。
すぐ前の席だから、ページを見ることができた。
女の子の本は最後のページを開いていて、そこにはきれいな丸が書いてあった。
〇
住宅街の迷路を慣れた足取りで右へ左へ曲がる帰り道、モリジマさんとそのことを話した。
「本当にそれだけで済んでるんですかね?」
「何が?」
「撃破ですよ。兵器を壊したことで異動させられてるって」
「ハッカーか?」
「知ってるんですか?」
「もう三回くらい、〇になる前に逃げろって。あれは敵ハッカーの攪乱作戦らしい」
「どうして、政府はこんな方法で戦闘ロボを動かすんでしょう?」
「ロボットが三体同士、五百キロ離れてても、パイロットを移動させずにひとりのパイロットで三体を運用できる」
「なるほど」
「それ以外に利点なんてないだろ」
いや、ひとつある。
死なないと分かっていれば、文字通り死を恐れない兵士になれる。
「そんな美味しい話、あるかなあ?」
と、母親のメバルの煮つけを食べながら、タダユキはたずねる。
「母さんはあんたが無事なら、何でもいいよ」
「その安全性がどうなるか分からないんだ」
「空間と意識をねじって結びつける。って、ことは時間と空間もねじって結びつけられるってことでしょ?」
「そうなのかな?」
「そうなの。きっと」
「うーん。あ、そう言えば、父さんの家業ききたいんだけど」
「なに?」
「あれ、本当なの?」
「本当みたいよ」
「変な家業だよね。そうなると、おれ、やっぱり軍人しかないみたいだ」
――†――†――†――
モリジマさんが消えた。
ロケット弾と二十ミリ機関砲の集中砲火で、その機体をボコボコとえぐり取られて崩れたのだ。
ページは〇。
いままで一番話していた人だから、いなくなると不安が強くなる。
「住所でもきいておけばよかったな」
その席を埋めるようにやってきたのは若い男だった。
気のよさそうな優男で、少し華奢な気がするが、それだから、前線向きとならず、ここに配属されたのかもしれない。
ただ、この青年はみなと違っていた。
あの部屋で書見台を前に正座して、〈先生〉を待っているあいだ、タダユキにあれこれ話しかけてきたのだ。
「ここ、どんなことをするのかな?」
「戦闘ロボを遠隔操作するんですよ」
この部屋でしゃべりたくないな、と思うほどタダユキはこの部隊の空気に慣れてしまっていた。
しかし、この男は気にしないらしい。
「書見台で遠隔? 脳波スキャンとかなしで? それはすごい」
話していると不思議と悪い印象を受けない。
タダユキは最初に自分がここに来たことを思い出し、〈先生〉が入ってきたらお辞儀をすることや、エザワさん――ここに来たとき最初にあった主婦らしい人の名だ――から本を受け取ること、〈先生〉がページを開くよう言ったら、どんどんページをめくっていくことを教えた。
「百から〇まであるけど、五十あたりをめくったところで戦場のロボットにつながります。いや、はっきりそうと分かるわけではなくて、なんていうか、寝ることに似てるんですよ。自分がいつ寝たか、厳密に覚えてる人はいない感じ。あれが来るんです」
「遠隔操作は夢みたいなものですね。この本、最後は〇なんですか?」
「はい」
「〇って見たことはありますか?」
「他の人の本でなら」
「なら、タダユキさんの本にもあるんでしょうか?」
「どうでしょう。見たことはないです」
「見てみたいですか? 〇を――」
そこで先生があらわれた。
――†――†――†――
これまでで最悪の戦いだった。
市街地のほとんどが敵軍の占領下にあり、味方は次々と倒れて、つながりを切った。
あとはもう自分だけだが、とりあえず撃破されることは間違いないから、あとは少しでも多く敵に損害を与えることに専念する。
ギギギ。
敵のロボがあらわれ、そのレーダー部分に機関砲を三発撃ち込む。
左腕が振り回されながら飛んでいく。
脚が吹き飛び、視界が転がる。
タダユキは機能が停止するまで機関砲を撃ち続ける。
裂けた敵が火を噴きながら歩いてくる。
レールガンがその極を真っ直ぐタダユキの額を狙い、エネルギーが集まるのが見える。
「これで終わりか」
そのとき、誰かがタダユキの襟をつかんで引き上げた。
タダユキの意識は宙にあって、自分の操縦していた戦闘ロボが五体の敵の集中射撃で跡形なく吹き飛ばされる画がどんどん遠ざかり、誰が自分を引き上げているのか知ろうとして、ふり返ると――
――†――†――†――
パチン!
――†――†――†――
ページは『一』を開いている。
それが閉じられる。
本は指の細い手につかまって、そのまま紙袋に入れられる。
地方の百貨店〈堂丸堂デパート〉でもらえる紙袋。青い地に白い〇、そのなかに堂の字。
「やあ」
隣の男が笑いかけてきた。
「え?」
「ちょっと失礼」
隣人はポカンとしているタダユキに構わず、書見台の基にある引き出しを開けると、そこに入っていた紫の紐で結ばれた桐の小箱を手に取り、ちらりとタダユキを見た。
「見ます?」
「え? ……いえ」
部屋にはふたりの他には誰もいない。
〈先生〉もいなかった。
「あの、みんなはどこへ?」
だが、隣の男は優しく笑って、
「帰ってもいいですよ。と、いうか、もう、ここには来ないほうがいいです」
と、言った。
――†――†――†――
「困るな。こんな外法を甦らせて」
ふたつの紙袋には三十七冊の本が入っている。
シノビは首をふる。
「これ。僕ひとりで持ち帰るのか……まったく、嫌になる」
庭の端にある井戸にはすだれのようなもので蓋がしてある。
蓋を取り、覗く。
縛られて猿ぐつわを噛まされた〈先生〉とエザワさんが一本のロープでぶら下がり、シノビを必死の形相で見上げていた。
「助けてほしいんですか?」
「ンーッ! ンーッ!」
井戸の底からは彼らがこれまでに捨てた人びとの赤黒い斑紋だらけの腕が伸びている。
シノビは、ふふ、と笑って、
「だーめ」
苦無でロープを切る……。