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読書をすると心は豊かになるのか?

作者: 大橋勇

最近、普段、本を買ってもらう機会のない子供たちのために無償で本を贈るという活動があるらしい。そのことを私はテレビで知った。そのための本として、書店には絵本がたくさん並んでいた。ある大人が、本を贈るために買おうとしていたので記者がインタビューすると、「本を読むことで豊かな心を育んで欲しい」みたいなことを言っていた。私は「?」と思った。


読書をすると心は豊かになるのか?


このように読書に心の豊かさを求めるとき、人は絵本、童話、小説などを意識するに違いない。読者の年齢に応じて心を豊かにする本のジャンルが変わる。幼い頃は絵本や童話だろうが、思春期以降になると文学(詩や小説)が中心になってくると思う。

私の場合、思春期まではマンガしか読まなかった。十四歳になって手塚治虫の『火の鳥』を読んで真理の探究みたいなのに目覚めたがしばらくは小説に手を出さなかった。初めてお小遣いで買い揃えた小説は司馬遼太郎の『竜馬がゆく』だった。その後、何を読んだか覚えていないが十六歳でサンテグジュペリの『人間の土地』を読んだことは覚えている。そのラストで、彼は列車の向かいの席に座った労働者夫婦とその子供を見て思う。生まれたばかりの子供はみんなモーツァルトだ、天才だ。しかし、教育のない親に育てられるためにモーツァルトは死んでしまう。世界中のモーツァルトが。みたいな文章だったと思う。私はこれに感動した。心が豊かになったと思った。今思えばそれは間違いだった。サンテグジュペリのこれはあきらかに労働者蔑視の思想だ。しかし、私は共感した。なぜなら中学時代の不良マンガみたいな世界観にうんざりしていて、そこから抜け出したいと思っていたからだ。『火の鳥』を読んだ頃からそうだったが、私は現実よりも夢の世界に興味を持つようになっていた。友達が少なくなった。

私は本や映画の世界を生き、現実の人間関係を軽視するようになった。太宰治の『人間失格』を読んだとき、自分のほうがより失格であろうなどと感想を持った。小学生の頃は『人間失格』など暗い文学の象徴で、それが嫌で小説を読まず、マンガばかり読んでいた節もある。しかし、高校生になり『人間の土地』や『人間失格』を読んだ私はマンガしか読まないやつを下に見るようになった。心が豊かになったのだ。マンガしか読まないやつは人間理解が乏しい。小説を読んで深い洞察力が養われるのだと信じた。大学生になって、法学部かなにか文学部以外のある女子が文学の授業を取ったらしく、その先生が太宰治の専門ということで、彼女は「『人間失格』なんて読んでたまるか、絶対に嫌だぁ!」などと叫んでいた。私はそれを見て「小学生みたいだな」と軽蔑した。彼女は友達がたくさんいたように思われる。私には友だちがほとんどいなかった。果たして、私と彼女はどちらのほうが心が豊かだったろうか?


心の豊かさとは何なのだろうか?


子供たちはすべてモーツァルトにならなければならないのだろうか?教育のない労働者の夫婦の愛と、その子への愛は読書をたくさんした人の愛に劣るのだろうか?心の豊かさとは愛の深さではないだろうか?


うん、心の豊かさは読書量では決まらない。

愛の深さで決まる。


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― 新着の感想 ―
[一言] いろいろ言いたいことはあるけど、エッセイというジャンルの作品としてはアリの感想の作品ですね。
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