YES,NO枕と枕返しのお姉さん
私は妖怪枕返し。夜な夜な人の枕元に現れては、こっそりと枕を返し、絶望たる夢を見させる妖怪だ。
「うぅ……律子ぉ……」
今、私の足下で一人、どうしようも無い程に愚かな男が眠っている。妻に逃げられ新築とローンだけが残り、そして帰らぬ女の身をずっと待ち続けている哀れな者だ。
「やだぁ、プルプルしながらハンモックに乗らないでよ可愛らしい」
「ハハ、難しいねこれ」
どうやら二人はキャンプで出会い、キャンプで親交を深めたようだ。
此奴の見る夢はいつもあの女とのキャンプばかり。
常に笑っている二人。不器用な男が身の丈に合わないキャンプ道具に苦戦しながらも、何とか体裁を繕っているのが見て取れる。
「さて、そろそろ枕を返してやるか……如何なる絶望が待つことやら……」
ゆっくりと屈み、枕へ両手をかける。ゆっくりと引き抜き気付かれぬように戻すには、百年の努力が必要だった。
「…………YES?」
よく見ると、枕の表には【YES】と書かれており、裏には【NO】と大きく書かれていた。新婚生活におけるジョークアイテムだろうが、新婚二年目で妻に逃げられたこの男には、些か哀しいものがある。
特に気にも留めず、NOを上にして枕を戻した。
喜びの顔が絶望で歪む瞬間を見るのが、何よりの生き甲斐だ。
「律子!」
「あっ、輝さん!」
「えっ!? な、なんで課長がココに!?」
「律子、手作りの縄文土器でビーフストロガノフ作ったから、あっちで食べないかい?」
「やだぁ素敵ぃぃ! キャンプにまで来て缶詰開けるようなショボキャン野郎とは大違いね♪」
「待ってくれ律子! 律子ォォーー!!」
どうやらこの男、同じ職場の上司に妻を取られたらしい。あまりにも哀れすぎる。だが、それだけに絶望の顔もひとしおだ。実に美味い。
明日もまた此奴で楽しませて貰うとしよう。
「うぅ……律子ォォ……」
この男は仕事が終わると、適当に食事を済ませ、酒を飲んでさっさと寝てしまう。まるで辛い現実から逃げるように、だ。
本当はもう分かっているのではないのだろうか。妻は戻らないことを。ただ、それでも諦められないのが人間の哀しさなのだろうか。
「見て見て律子さん! こないだ買った設営まで10秒の巨大テント!」
「やだぁ凄ーい! 袋のチャック噛んで出すのに十分掛かったの、見なかった事にしちゃおーっと♪」
過去の栄光に囚われし、哀れなる者。
ただ、その栄光が如何に虚構であるか、それを知らしめ搾り取るのが我の仕事なり。
枕元に屈み、ゆっくりと枕を引き抜く。
またしてもYESの文字が目に留まった。
「何処までも哀れな男だ。ここまで来てもまだYESを表にするだけの希望があると思っているとは……」
枕を裏返し、NOで戻す。
それまで幸せそうだった男の顔が、みるみるうちに苦痛に歪み始めた。
「律子!」
「あ、輝さん!」
「律子、あっちに一ヶ月かけて設営した4LDKのコテージがあるんだ。どうだい?」
「素敵! コンビーフの缶すらちゃんと開けられないエセキャン野郎とは大違いね!」
「待ってくれ律子! 律子ォォーー!!」
嗚呼、なんと甘美なる表情だろうか。狂わしい程に甘く、そして何より愚かしい。
ククク……明日も楽しませて貰おうぞ。
「うぅ……律子ォォ……」
元妻に縛られしその人生。誠に情けない。
過去の過ちから何を学でもなく、いや、そもそも自らの失態にすら気が付いては居ないのであろうな。此奴は……。
「律子さん見て見て! 新しく作った火起こしセット! ドリルの先に木材を刺して、っと……あ、電源が。コードレスにしないとダメだったか……」
「フフ、お茶目なんだから」
背伸びした程度のキャンプ力ではいつか愛想が尽きるというもの。その女は本能的に野生児のような男を欲して居るのであろう。遺伝子的に原始人に近いのであろうな。貴様のような現代人には土台無理な話であろう。諦めるが良い。
枕元に屈み、そっと枕を引き抜く。
涙で少し濡れているYESを引っくり返し、YESを表に──
「ん? YES、だと……?」
なんとこの男、裏も表もYESの枕で寝ているではないか!! おのれぇぇ……!! 朝起きたときにNOになっている事に早くも不信感を得ていたなぁ……!?
別の枕のYESを縫い合わせ自作したのか、縫い目がかなり雑ではあるが、少なくても今すぐにどうこうできるような代物ではなさそうだ。
こうなっては仕方ない!!
裏のYESに枕を返すしかない……!!
「律子!」
「あっ、輝さん!」
「えっ!? な、なんで課長がココに!?」
「律子、野生の牛を搔っ捌いてビーフジャーキー作ったから、どうだい?」
「やだぁ素敵ぃぃ! とりあえずいつもと違う事してればいいような、にわかキャン野郎とは大違いね♪」
「待ってくれ律子! 律子ォォーー!!」
ククク……やはりYES,YES枕を自作しようが、この枕返しの前では赤子も同然よ。苦悶の表情を晒し、絶望の夢に苦しむがいい。
「あのー」
「えっ!? は、はい!」
「お一人ですか?」
「え、ええ……まあ」
ん? なんだ……何が始まった?
「もし宜しければキャンプ……ご一緒しませんか? 私初めてで勝手が分からなくて……」
「自分で良ければ」
なんだ!? 男の顔に喜びの色が差していくぞ!?
何故だっ!? 此奴は元妻一筋の筈だ……それなのに何故!?
「私、コンビーフの缶開ける前に、カギみたいなやつ無くしちゃうんですよね」
「ハハ、僕もですよ」
「着火剤とか色々あるじゃないですか? どれ選んだらいいのか分からなくて……結局レジ横でチャッ〇マン買っちゃうんですよね」
「ハハハ、僕と同じだぁ」
低級キャンパー同士が何を意気投合したかと思えば……下らぬ! 実にくだらぬ!!
だいたいこの女は何者なのだ!?
この夢には実在して認識までしている人間しか出て来ない筈なのに──……居るのか。まさかこのようなぽやっとした女キャンパーが身近に実在して──
──ギィィ
「──!?」
こんな夜も遅い時間に……玄関が開いた……だと!?
誰だ!? ま、まさか女が帰ってきたとでも言うのか!?
「主任……我慢できなくて、来ちゃいました♪」
ぽやっとした女キャンパーだとッッ!?!?
この女、何故合鍵を……!?
「ようやく奥さん出て行ったんですね。フフ、思ったより時間掛かっちゃいました。どうしてあの時私を選んでくれなかったのですか、主任?」
差し金……全てはこの女が招いた事だったのか!?
なんという、なんという恐ろしき存在よ!!
「また、二人でキャンプしましょうね? 素直に私を選ばなかった事……後悔させてあげるんだから♡」
嫌じゃ……もう見とうない……この男の夢も。理解が追い着かぬ狂ったこの女も……!!
「じゃ、今日は帰りますね。良い夢を……主任♪」
音も無く女がスッと立ち去ろうとし、ピタリと止まった。
そして振り返り、我と目が合った。
「──ヒッ……!」
「誰か居るような気がしましたけれど、気のせいですよね……」
女は来たときと同じように、合鍵を使い立ち去った。
もう止めよう……。この男の夢の続きは希望だろが絶望だろうが、終着点は同じなのだから…………。
私はキャンプしたこと無いです