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08

頭に刺すような痛みを感じ、山中ははっと目を見開いた。

薄暗いコンクリート壁が、視界に飛び込んでくる。

胴体に、手首に、足首に、縄がきつく食い込んでいるのが、すぐに分かった。

体は椅子の背に、両手は後ろで、足首は椅子の脚に、それぞれ縛り付けられているようだ。

結び目は固く、体をよじろうとしてもびくともしない。

動く範囲で頭と目をきょろきょろさせたが、それは窓一つない密室だった。

家具と言えば天井に吊り下げ式のランプがあるくらいで他には何もなく、見渡す限り山中の所持品もここにはなさそうだった。


「おはよう、山中くん」


どこかで聞き覚えのある、懐かしい女性の声。

後方から、ヒールの足音がこつこつと反響する。

――いや、忘れるわけがない。

少し高くて、はっきりと澄んだ声質。


「梅野、先輩……?」

「あ、声だけで分かるんやね!覚えててくれて嬉しいわあ」


山中の前に回り込みながら、その女性――梅野美奈子は言った。

その天真爛漫さで、山中を惹きつけてやまなかった、大学時代の先輩。

梅野の笑顔が、脳裏に蘇った杉浦のそれと重なって、山中は「ああ……」と声を漏らした。


「杉浦さんの『従姉』は、先輩だったんですか……」

不思議と、驚きはなかった。

梅野はくっきりした目鼻立ちの美人だが、もう少し印象を柔らかくすれば、確かに杉浦に似ている。

確かに、梅野は母方に年下の従妹がいると言っていた――自分が一人っ子なので、妹のように可愛がっていたとも。


「美晴、私のことは話したのに、肝心の名前は言わんかったんね。

変なの。まあいいけど」


梅野は駅で久々にすれ違ったような気軽さで、「元気にしてた?」と山中に尋ねた。

山中が黙っていると「まあ、女の子と遊んでるくらいやから元気よね」と勝手に結論付けて頷いた。


「杉浦さんは……?」

「別室で待機中。

あんたみたいに縛り上げてるわけちゃうから、安心し。

後で連れてきてあげるから」


少なくとも生きてはいるようだ。

やはり彼女を巻き込むべきではなかったと、山中は激しく後悔した。

手荒なことをされていないよう、祈るしかない。


「ここは、どこなんですか」

「察しはついとるやろ?当ててみ?」

「……幸霊教、本部とか」

「ご名答。いや、さすがに分かるわな」


この異常な状況下で、梅野はどことなく楽しそうにさえ見える――いや、異常に感じているのは山中だけで、梅野にとってはもはやこれが日常なのかもしれない。


「とにかく、拘束を解いてもらえませんか?縄が痛いです」


もちろん駄目元での発言だったが、予想通り「それは無理やなあ」とあっさり却下された。


「だって、解放したら速攻で警察駆け込むやろ?」

「……警察に通報されるようなことをしている自覚は、一応あるんですね」

「仕方ないやん。ただ、警察にもうちらの仲間はおるからね。

何とかすることもできるけど、面倒なことに変わりはないし。

警察に妨害されたら、『天界送り』もままならんくなるからな」

「『天界送り』……?」

「そう。天界で幸福を得るために、必要なことなんよ。

送った側も、送られた側も、みんな幸せになれるの。素敵やろ?」

「それは……まさか、安楽死のことを言ってるんですか」

「ただの安楽死ちゃうで。幸神様のお許しを得て、天界に送るの。

最高の名誉なんやで?穏やかな死は、最上位の幸福を手に入れる至上の手段。

それを実現できる、山中くんの論文を私が手に入れたのも、全ては幸神様のお導きなんよ」

「こうがみさま……?」

「私を救ってくれた、神様」


幸霊教の信仰対象らしい。

まさか梅野の口から神様などという台詞が飛び出す日がくるなんて、思いもしなかった。

その、恍惚とした表情を見ていると、ようやく実感がわいてきた――この人はもう、自分の知っている「梅野先輩」ではないのだと。


「あの論文を美晴からもらったときは、本当にびっくりしたんよ。

しかも山中くんの名義やったし、二倍びっくりやったわ。

佐久間さんも言うてた。

私が幸霊教に導かれたのも、この世界のみんなを幸福にするためやってね」


梅野の口からほとばしる異様な世界観についていけず、頭がくらくらしてきた。

とにかく、向こうのペースに飲まれてしまっては負けだ。


「梅野先輩……一つ、確認させてください。

去年の八月二日。

あなたたちは、あの安楽死ガス――僕の論文ではエス剤と表記していましたが、あれを使用して、淀川河川敷でホームレス三名を死亡させましたね?」

「あんな、さっきも言うたけど、『天界に送る』って言うんよ。

単に死亡させた、とは全く意味が違うんやで?

こっちも、ちゃんとした儀式を経て、彼らの幸福のために祈りを捧げて送り出してるんやから」


まるで子供を諭すかのような口調で、梅野は言った。

そのあまりにも身勝手な言い分に、山中は腹の底から怒りが込み上げてくるのを感じた。


「あなた方の理屈など知らない。

私たちにとっては――いや、亡くなった人々からすれば、単なる殺人でしかないでしょう……?

そんな当然のことさえも、あなたは分からなくなっているのか……?!」


声を荒げる山中を、梅野は哀れむような目で見下した。


「もちろん、私も昔はそう思ってたよ。

だから、今の山中くんがそう思うのも無理はないと思う。

でも、だからこそあなたにも是非知ってほしいんよ。

私は、分からなくなったんやない。逆やねん。

真理を知ったんよ――幸神様の偉大なお導きによってね」


話がまるで通じない。

梅野の言葉は、もはや山中の理解の範疇を超えていた。

つかつかと近寄ってきた梅野は、山中の顔を覗き込んだ。

聞き分けのない子供に、何度も言い聞かせるかのように。


「山中くん。あなたはとっっても恵まれてる。こんなチャンス、滅多にないよ。

あなたはこれから、今よりもっと幸福になるための切符を手に入れたの。

これも、幸神様のお導き。私たちが全部教えてあげるから、心配せんでええんよ」

「あんたたちは、狂ってる……!」

「最初は皆そう言うんよ。でも、安心して。

ここにいれば、いずれは辿り着ける。この世の真理にね。

まだまだ、私も佐久間さんと修行の身やけど。全ては、あなた自身のためなんよ?」


余計なお世話だ、と叫ぼうとしたところに、頭の片隅で働き出した理性が待ったをかけた。

この調子では、山中が反抗すればするほど、梅野は攻勢を強めてくるだろう。

向こうが警戒を解いたところで逃げ出せるよう、隙を窺うべきかもしれない。


「とにかく、僕や杉浦さんをどうするつもりなんですか。

いつまでもここに閉じ込めておくわけにもいかないでしょう」

「それは、これからのあなた達の行動次第」

「何をさせるつもりなんです……?」

「簡単よ。よく言うでしょ、習うより慣れろって。

……佐久間さん、入ってきて!」


後方から滑るような機械音が響いた――部屋の裏側に、自動ドアでもあるのかもしれない。

次いで、ゆっくりとした足音と、何かを引きずるような音が続いた。

きゅるきゅると音を立て、近づいてくる何か。

それが視界に入った時、山中は短い悲鳴をあげそうになった。


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