07
八月十四日――山中の右手首に巻かれた腕時計の長針と短針が、ちょうど重なる頃合。
待ち合わせ場所のコンビニに、杉浦は姿を現した。
それを確認して山中がコンビニを出ると、杉浦もさりげなく後ろをついてくる。
今日の流れについては、昨晩、電話で打ち合わせ済みだ。
――決行予定時刻まで、あと一時間。
現場に杉浦の従姉やその「先輩」が現れるかどうかは不明だが、用心するに越したことはない。
杉浦はもちろん、山中も顔は割れている可能性が高く、一緒に行動しているところを見つかると、不審がられる可能性が高いだろう。
ゆえに杉浦とは別行動を取ることにし、連絡は電話もしくはメッセージで取り合うことにした。
それぞれが決行予定場所付近を監視し、怪しい動きがあればすぐに知らせあう手はずだ。
昨日完成した中和剤については、扱いに注意を要するため、山中が所持している。
大学院の研究室で試行錯誤を重ね、なんとか形になった頃には、もう深夜の二時を回っていた。
そのまま研究室で仮眠を取り、始発で家に帰って目が覚めたころには既に十一時半で、いつもの癖でのんびりシャワーを浴びていたら危うく遅刻しそうになったのはここだけの話だ。
一人ぶらぶらと川沿いの道を歩き、さりげなく決行予定場所を横目に通り過ぎる。
河川敷全体では、釣りに興じる年配の男性やランニングする人などでちらほら人気はあるのだが、決行予定のその高架下だけはそこを主な住処とする数名の溜まり場になっていて、臭いもあり、一般人はほとんど近寄ることはない。
今のところは、彼らがたむろするいつも通りの光景で、特に異変はなさそうだ。
連日の猛暑で、どことなくぐったりしているようにも見える。
仮にあのガスが使用され、彼らが眠るように息を引き取っても、ひょっとしたらしばらくは誰も気づかないかもしれない。
――そんな未来は、絶対に防がなければならない。
もちろん日本の外には、安楽死を合法としている国もある。
だがそれはあくまで、自分の意志で行うものだ。
何を信じるかは個人の自由だが、身勝手な教義で他者の命を奪えばそれはただの殺人でしかない。
そんな当然の事実を見失わせるのだから、幸霊教とやらの影響力は大したものだ。
しばらく歩き、あまりの暑さにスーパーへと避難する――日光で髪の毛が発火してしまいそうだ。
杉浦からも「異常なし」のメッセージが送られてくる。
彼女は今、決行現場を境に、ちょうど反対側あたりにいるらしい。
空調の効いたスーパーで少し時間を潰して体力を回復し、山中は早めに決行現場へと向かった。
三十分前、決行予定場所が見える場所で、散歩途中の老人たちに交じり、ぼんやりと川を眺めるふりをする。
少し遠くには、ウィッグを被り眼鏡をかけるという王道の変装をした杉浦が、同じくぶらついている――この暑さでウイッグでは、相当蒸れていそうだ。
二十分前、まだ何も動きはない。
眼鏡越しの杉浦に目配せする――いつもはコンタクトレンズを着用しているらしい。
十分前、じわじわと現場に近づきながら様子を窺うも、変化はない。
時間の流れが、ひどく遅く感じる。
決行予定時刻の一時を過ぎても何も起きず、杉浦から電話がかかってきた。
『山中さん……』
「予定場所に近づく人影はありませんし、彼らの様子も見たところ普通ですね」
『中止になったのでしょうか』
「その可能性もありますが……もしかしたら……」
ただ延期になっただけならまだよいが、嫌な予感が、山中の脳裏に浮かんでいた。
『もしかしたら?』
「いったん、ここを離れましょう。
駅で合流です。なるべく人気のある道を歩いて」
『えっ、でも……もし予定が遅れているだけで、これから決行されるとしたら』
「いいから」
語気を強めると、杉浦も『……分かりました』と応じたので、電話を切った。
最悪の可能性も想定しなければならない――この計画が、幸霊教サイドに漏れているかもしれない、ということを。
あのメールを見られていたことに、杉浦の従姉が感づいていたのだとしたら。
妨害を排除するために、土壇場で時間をずらしてこっそり様子を見ていたのだとしたら。
そして――山中と杉浦が決行予定場所付近で不自然に留まっていることに、彼らが気付いてしまったとしたら。
携帯電話でメッセージを打っていると、後ろから白いミニバンが追い越してきて、山中の少し前で止まった。
中から人が降りてきて、ミニバンの後部座席を開ける。
少し距離をとってその横を通り過ぎようとした瞬間、突然後ろから伸びてきた手が、山中の口に何かを押さえつけた。
しまった、と後悔したがもう遅い。
せっかく多少は人目のあるあの場所から、焦って下手に動くべきではなかった。
例えば友人や杉浦の両親など、誰か信頼できる人をこの場に呼んでから移動していれば――。
遠のく意識の中で、山中はせめて杉浦が逃げ切れることを祈った。