05
――安楽死。
それはいわば「副産物」ともいえるべき発見であって、あの論文は、本来そんなことを目的にしたものではなかったのだが。
山中は医師ではないので詳しく知っているわけではないが、人間を安楽死させることは、必要な知識と設備があればそれほど難しいことではないはずだった。
酸素濃度の低い気体を吸わせれば、濃度によっては一瞬で意識を失うというし、そもそも麻酔を打ってからであれば、どんな方法であろうと苦痛を感じることなく死ぬことができるだろう。
ただ、不特定多数を屋外でしかも痕跡が残らない形で、眠るように安らかな死に至らしめる方法は、おそらく多くはない――山中が発見した気体は、それを実現できる可能性が非常に高いと思われるものだった。
製造については専門的な知識がないと難しいだろうが、そこさえクリアできれば、少量なら本格的な設備がなくとも製造可能で、なおかつ取り扱いも簡単だ。
本来、その論文で予定していた研究テーマの実験は全く別のもので、そちらはなかなか上手くいかず、山中は悩んだ。
しかし結局、専門外であるその気体の発見を発表する気にはなれず、その論文は誰の目にも触れることなくお蔵入りとなった――はずだったのだ。
「――幸霊教では、人は死んだら『天界』に行くことになっているようですが……従姉に散々聞かされた内容によれば、『天界』での幸福は、現世での行動のほかに、死ぬ間際の幸福度にも左右されるというんです。
だから最後に幸せでいられるように日々を積み重ねようとか、苦悩の末の自殺は最悪だとか……それくらいならまだいいんですよ。
でも彼らは、それを通り越して、安楽死を『救い』だとしたんです。
苦しみの生を過ごした人々が、最後に『天界』で救われる方法が安楽死だなどと……勝手なことを……!」
どんどんエスカレートしていく自身の声の大きさに気付き、杉浦ははっとした様子で口を押さえた。
「……ごめんなさい、少し落ち着きますね……。
メールを読んでいくと、そんなことが書かれていて……従姉たちは、ホームレスなどを安楽死させることが、本当に彼らのためになると――そして、それによって自分たちも徳を積むことができると――本気で信じているようでした。
そして……正直目を覆いたくなるような、恋人同士の甘ったるいやり取りの合間に……もうひとつの『決行日』のメールを見つけたのです」
杉浦はもう一度携帯電話を操作し、別の画像を見せてくれた。
日付は、去年の八月二日――地図の決行場所を見て、ぞわりと鳥肌が立った。
山中も新大阪に住みはじめてもう五年目、さすがに周辺の土地勘はある。
その地図の場所は、当時、ホームレス「熱中症」事件のニュースで流れた映像の場所と一致していた。
「時間がなかったので、写真に撮れたメールはこれだけです。
これも今思えば、見ながらすべて動画で撮っておけばよかったのですが……その時は焦っていて、そこまで思いつきませんでした。
私は従姉の家で寝るのが急に怖くなって、適当な理由をつけて家に帰り、次の日、去年の『決行日』のニュースが載っている新聞を図書館で調べて、出てきたのがこれです」
杉浦は、さきほどの新聞紙のコピーを指し示した。
「インターネットでも調べましたが、去年のことで、記事が消えてしまっているものが多くて。
一番、確実で可能性が高い情報は、結局、この新聞記事でした。
これは集団熱中症などではなく、従姉たち幸霊教の仕業だったのではないか……。
そして今年もまた、同じ事件を起こそうとしているのではないか……。
そう思ったものの、果たしてどうすればいいのか、まるで見当もつかなかったんです。
両親に相談しようかとも思いましたが、生憎、父は出張で東京に出ていますし、母も仕事が忙しくて、こんな話を真面目に聞いてくれるかは分かりませんでした。
何より、躊躇いなく殺人を犯すような宗教団体です。
万が一、両親が幸霊教とコンタクトを取って、口封じのために危害を加えられたら、などと思うと……結局、打ち明けることができませんでした」
「警察には?」
「それも非常に迷いましたが……実は従姉が『幸霊教は警察内部にも信者がいる』のだと、自慢げに話していたことがあって。
仮に私が通報したとしても、そもそもこんな突拍子もない話、信じてもらえるでしょうか?
証拠といえば、このメール写真くらいしかありません」
「うーん……そりゃ、いきなり宗教本部の強制捜査、とまではいかないでしょうけど。
去年のホームレス死亡の件について調べなおしてもらうのも……確かに、すぐには難しいかもしれない。
それでも一応、通報があった以上、明日の決行予定現場のパトロールくらいはしてくれるのでは?
幸霊教の人間も、警察がうろついていたら、さすがにその日の決行は延期するでしょう」
「確かに、しばらくは決行はしないかもしれまんせんが……警察に情報が漏れていたと分かれば、幸霊教も警戒するでしょう?
おそらく、情報流出元を血眼になって探すのではないでしょうか。
そのなかで、もし警察内の信者を通じて、私が通報者であることが幸霊教に筒抜けになってしまったら……報復されて、私が殺されてしまうのでは……。
そんなことを考え始めると、恐怖でどうしても二の足を踏んでしまいました。
警察は……昔、高校生の時に痴漢の被害に遭った時の対応がとても悪くて……皆がみんなそうじゃないことは分かっているんですけど、あまり信用できないんです。
自分や家族が殺されるわけではないのだし、何も見なかったことにしておいたほうが私は安全なのではと――正直、そう思ったこともありました」
「でも」と、杉浦は唇を噛みしめて言った。
「……全て、私のせいなんです。
私があなたの論文を勝手にコピーして、従姉に渡したりしなければ……。
警察に言う覚悟もなかった私が、こんなことを言う資格など、ないのかもしれませんが。
せめて、何か私に出来ることはないかと考えて――思いついたのが、論文執筆者であるあなたとの接触だったのです」
「つまり……今日の出会いは、偶然ではなかったと」
返事の代わりに、杉浦は「ごめんなさい」と視線を逸らせた。