03
「な……」
「去年、事務のアルバイトをしていたタクシー会社で、記録媒体の忘れ物が見つかりました。
忘れ物なんて一日に何件もありますし、その記録媒体も、他の事務員が既に内容を確認していて、所有者が判明したので送る手はずになっていると聞いていました。
だから、本当にたまたまだったんです。
私は、それを大学院に郵送しておくよう先輩に頼まれて、ちょっと魔が差して……」
杉浦の声はどんどん小さくなっていき、それに伴って視線もどんどん下がっていく。
「なぜ、そんなことを……」
「……おそらく同じくらいの年齢の、男子大学院生のものだと聞いていたので、何が入ってるのかなって、ちょっと気になったんです。
本当に、ただの好奇心でした。
手持ちの記録媒体にコピーを取り、現物はあなたの大学院に送りました。
家に帰って、コピーしたものを見ましたが、何か――理系の、書きかけの論文だということは分かりましたが、内容はさっぱり理解できませんでした」
「……なら、どうしてそれが悪用されるんですか」
「私、気になりだすととことん気になってしまう性格で……書いてある内容が知りたくなったので、そういう研究に詳しそうな、メーカーで開発職に就いている従姉に聞いてみたのです。
道端で、この記録媒体を拾ったのだと嘘をついて。
そしたら、内容を見せてと言われ……私は、そのコピーしたものを渡してしまったんです」
「……それは、僕の名前も大学院名も、そのままに?」
杉浦は糸の切れた操り人形のように、こくりと首肯する。
「今思えば、それくらい消しておけばよかったのですけど……身内ですし、そこまで頭が回りませんでした。
そのあと、彼女から電話がかかってきて……『よく読んだら、これはすごい新発見が含まれてるよ』って、とても興奮した声で言っていました」
山中は苦虫を噛み潰したような顔で、押し黙っている。
「ちょうど、その頃からなんです」と杉浦は続けた。
「何が、ですか」
「従姉の様子が、目に見えておかしくなっていったのは……」
どういうことですか、と質すことさえもはや億劫で、口を閉ざしたままの山中に、杉浦は「本当に、ごめんなさい」と頭を下げた。
悲しそうに項垂れた杉浦を見ていられず、山中は「……いえ」と短く言って首を振った。
「……続けてください。とにかく最後まで聞きましょう」
杉浦は遠慮がちに頷いた。
「従姉が変わり始めたきっかけは……二年ほど、前のことです。
従姉が大学院を卒業して就職したばかりのとき、叔父と叔母が――従姉の両親が、事故で亡くなってしまったんです。
私たちも悲しみましたが、一番辛かったのは従姉だと思います。
お葬式を終えて、気丈にも出勤していた従姉を励ましていたのが、彼女の職場の先輩にあたる男性でした。
そのうち、従姉はその会社の――確か聖愛工業と言っていましたが、そこの先輩に誘われたと言って、何かの会合によく顔を出すようになったらしくて。
私もその先輩という人を紹介されたのですが、とても人当たりの良い男性でした――表面的には。
親密そうな雰囲気で……おそらく、二人は付き合っていたのだろうと思います。
当時、私はまだ高校生だったので、会合とやらに誘われることはなかったのですが、話だけは従姉から聞いていました。
それも、『世界平和』がどうとか『天界』がどうとか……高校生だった私でも不審に思うような内容で」
「はあ。何かの新興宗教、ですかね」
新興宗教であれマルチ商法であれ、精神的に参っている人間がその居心地の良さに引き込まれて深みにはまってしまうことは、残念ながらよくある話ではある。
「そうです。『幸霊教』と言っていました」
「こうれいきょう。聞いたことないですね。どんな字ですか」
「幸福の『幸』に神霊の『霊』、宗教の『教』です。
ホームページはありませんが、ネットで調べれば名前くらいは出てきます」
その場で携帯電話を取り出し、言われた文字をインターネットで検索してみる。
日本の新興宗教一覧というサイトにその名を連ねてはいたが、詳細の項目は「不明」となっていて、詳しいことは分からなかった。
「従姉の話によると、ここ十年ほどで出来た、ごく新しい宗教のようです。
私の両親は従姉の思想を元に戻そうと、必死に説得したのですが、先輩から離れたくなかった従姉は余計に反発してしまって……。
家族の思い出がある実家にいるのも辛かったのか、会社の近くで一人暮らしを始めてからは、両親を寄せ付けなくなってしまいました。
ただ、従姉は昔から私を実の妹のようにとても可愛がっていてくれて……身内のなかでも私だけは、それ以降も連絡を取ることができたんです」
「なるほど、それで」
「はい、私は家族から『従姉を元に戻してくれ』『出来るのはお前だけだ』と言われ、私自身も何とかしたい気持ちがあったので、何かと理由を付けては従姉に会いにいくようにしていました。
もちろん行くたびにその宗教に勧誘されましたが、そこは上手く受け流して、チャンスを窺いつつ、とにかく交流だけは絶たないようにと。
あの記録媒体を従姉に持っていたのも、もちろん私自身の好奇心が一番でしたが、単純に彼女に会いに行く口実のひとつでもあったのです」
そこまで一気に話し、杉浦は氷が溶けて薄くなった麦茶を一口啜る。
再び顔を上げた杉浦の表情には、彼女が元来持っているのだろう責任感がにじみ出ていた。