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02

その瞬間、数多の想像が山中の脳内を目まぐるしく駆け巡っていった。

しかし、まさか初対面の女性が家に上がろうとしてくる展開が待ち受けているとは夢にも思っておらず、まして女性経験のない山中としては、咄嗟に下心よりも警戒心のほうが僅かに上回ることになった。


「えっと、なんでまた僕の家に?」


杉浦のほうでは、理由を聞かれることを想定していなかったようで、大きな目をあちこちにくるくるさせた。


「その、暑いから、少し休みたくて」

「大丈夫ですか?それなら、とりあえずネットカフェに入りましょうか」

「いえ、その……本が、読みたくて」

「本?」

「山中さん、本をたくさん持ってるんですよね?

私、山中さんの研究に興味があって」

「僕の、研究?」


杉浦が、はっとしたような顔で手を口元に翳す。

会話では大学院での専攻について少し触れた程度で、研究内容までは話していなかったはずだが。


「あ、あの、私、化学に興味があって。今は法学部ですけど、実は高校まで理系だったんです」

「そ、そうなんですか」


暑さのせいだけではない顔汗を、手の甲で拭う。

これは人生最大のチャンスなのか、ひょっとして何かの罠なのか。

「端からガツガツするなよ」という田中の声が脳内で再生され、さらに朝、家を出た時の室内の様子がとても女性を呼べるものではないことを思い出すと、躊躇う気持ちも生まれてきた。

とはいえ、せっかくのお誘いを断るのも気が引ける。

山中は大きく息を吸い込み、呼吸を整えた。


「じゃあ、今から家に来ますか」

「はい!」


可愛らしい笑顔で、杉浦が頷く。

その瞬間、山中は初対面時の「既視感」の正体に思い当たった。

彼女は、どこか似ているのだ――かつて山中が、密かに好意を抱いていた女性に。

研究室の先輩だったその女性は、性格こそ異なるが、笑った時の雰囲気や、整った目鼻立ちが、杉浦に少し似ていた。

高嶺の花だった先輩を杉浦に重ね、ついに伝えられぬまま胸の奥に仕舞われてしぼんでいった仄かな恋心を久しぶりに思い起こした山中は、なんとなく後ろめたいような気持ちを隠すように笑顔をみせて「こっちです」と杉浦を促した。


駅から歩くこと、約五分。

家賃の予算範囲内で立地を最優先したため、設備は古い。

おそらくは築五十年以上、雑居ビルの隙間にひっそりと建つ、エレベーターもオートロックもないボロアパートだ。

玄関を抜け、階段で三階まで上がってすぐの角部屋の前で、山中は立ち止まった。


「片づけるので、すみませんが少しだけ待っていてください」

「よかったら、お手伝いしますけど」

「い、いや、大丈夫です」


ドアを開けて素早く身を滑り込ませ、室内を見られる前に急いで閉めた。

そして数分後。


「失礼します……」


よく言えば遠慮がちに、悪く言えば恐る恐る入ってきた彼女を、最後に洗濯したのは何年前だろうかという座布団に座らせ、ローテーブルに作り置きの冷えた麦茶を出す。


「すみません、急にお邪魔してしまって」

「いえ。汚くて申し訳ないですが」


物珍しいのか、杉浦はきょろきょろと辺りを見回した。

怪しいものは隠したはずだが――ちょうど彼女が座っていた辺りに五分前まで散乱していた成人向けの漫画雑誌も、アダルトビデオのパッケージも、今は押し入れの奥底にワープしている――やり残しがないか少し不安になって、山中もそっと部屋を見回す。

もともと所有物は少ないので、それらを適当に収納してしまえば、ぱっと見は片付いたように見えるものだ。

しかし、いざ部屋に二人きりになると、途端に何を話していいのか分からなくなる。

クーラーは付けたばかりで、排出される風はまだ生ぬるい。

窓を閉め切ってさえけたたましく響く蝉の鳴き声と、テレビのワイドショーが垂れ流す騒がしい音声のなかで、先に口を開いたのは杉浦だった。


「あれは、大学の参考書ですか?」


杉浦が指さした先には、山中が集めた参考書や学術書を並べた本棚があった。


「そうです。今は、調べ物でたまに引っ張り出す程度ですけどね」

「少し、見させてもらってもいいですか」

「いいですけど、専門書ですから内容は難しいですよ」


杉浦は構わず本棚に近寄り、いくつかの本を選んで机に置いた。

しかし中身をぱらぱらとめくってみてもやはり内容はちんぷんかんぷんだったようで、結局、小首を傾げて本を閉じた。


「山中さんって、大学院で何を研究されているんですか?」

「……何を、と言われると一概には説明しにくいんですが」


全く知識のない人間にも分かりやすいよう専門の話をするというのは案外、難しいものなのだが、大学見学の高校生に説明するように、専門用語を排除しなるべくかみ砕いて丁寧に説明した。


「……というわけで、ものすごくざっくり言うと、新素材の開発や研究をしてます、ということになります」

「あのう、その新素材の開発というのは」

「はい?」

「気体も含まれているんですか」

「気体」

「ガス、とか」


その瞬間、時間が止まったような気がした。

杉浦の顔を、穴があくほどまじまじと見つめる。

そして彼女もまた、負けじと山中を見返していた。


「……ガス、ですか」


ようやく発した声は、少し掠れていた。


「はい。山中さん――私は詳しくはわかりませんが、あなたは新しい気体の研究をされていましたよね」

「……なぜ、それを」


心臓が、嫌な速さでどくどくと脈打っている。

あの研究は、誰にも話していなかったはずなのに。

なぜ目の前の彼女が、それを知っているのだろう。


「あなたは、研究内容の入った記録媒体を、失くしたことがありますよね」

「……」

「去年の五月――金曜日の深夜、あなたは飲み会か何かの帰りで、酔ってタクシーに乗り込んだ。

その時に、記録媒体をタクシー内に忘れてしまった」

「それは……しかし、あれは、ちゃんと戻ってきた」

「でも、タクシー会社の人が発見して、中身を確認したから、持ち主が分かって戻ってきたのですよね」

「……何が言いたいのですか。杉浦さん、あなたがどうしてそれを」

「その時流出したデータが、ある人々の手に渡って、悪用されているんです!」


山中は、言葉を失った。

あまりにも急で、突拍子もない話ではあったが、杉浦の泣きそうな顔を見ると頭ごなしに「嘘だ」とは言えなかった。

昨年、タクシー内で記録媒体を紛失したことは事実で、タクシー会社がその中身を確認し、データの最初にあった山中の名前と所属を見て、大学院に送ってくれたのだ。

大学院の事務室はそれを忘れ物としてそのまま山中に渡し、その時は特に大ごとにもならなかったのだが。


「……どういうことなんですか。杉浦さん、あなたは一体」

「私は、その悪用を防ぎたいと思っています!

このままだと……人がたくさん亡くなってしまいます。

開発者であるあなたの力を、お借りしたいのです」


杉浦がまっすぐに山中を見る。

山中は首を振って「ちょっと待ってください」と言うのが精いっぱいだった。


「話が見えませんが――確かに、あの時、記録媒体をタクシーで紛失したのは事実です。

タクシー会社がその中身を確認して、僕に返してくれたことも。

何度も聞きますが、なぜあなたがそれを知っているのですか。

僕は誰にも、そのことを言っていない」


クーラーがようやく本領を発揮しはじめ、嫌な汗が体温を奪っていく。

少しの沈黙のあと、杉浦が「私が、それをコピーしたからです」とか細い声で言った。


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