プロローグ
汗が頬を伝い、携帯電話の画面に水滴を落とす。
滲んだ液晶を指で拭い、そういえばタオルハンカチを家に忘れてきたことを思い出した。
地下鉄を名乗っているくせにちっとも地中に潜っていない駅のホームは、浴衣姿の親子連れやカップルで埋め尽くされている。
お盆の入り、八月十三日。
彼らがこれから沿線の花火大会に向かう電車で、山中修一は一人寂しくワンルームの下宿先に帰る途中だった。
「まもなく、電車が参ります……」
ホームに電車が滑り込み、開いた扉から冷気が吐き出される。
乗り込んだ車内は寒いくらいだったが、なだれ込んだ乗客同士が密着してすぐに暑苦しくなった。
痴漢に間違われないよう、両手で携帯電話を握りしめる――柔らかい感触に振り返ると、ちょうど真後ろの女の子の胸元が目に入って、山中は慌てて首を戻した。
こんなところで勃起でもしようものなら、不審者として通報されかねない。
気を紛らわせるべく携帯電話に目をやると、友人の田中からメッセージが届いていた。
――明日、恋活パーティに行かないか?
一瞬、馬鹿にされているのかと思った。
これまで女性との交際経験ゼロ、という自分がいきなり恋活だなんて、野球経験もないのにプロ野球のマウンドに立たされるようなものではないか。
その旨を田中に送ると、すぐに返事が返ってきた。
――普通に出会うより確率高いって。お前、データ的なスペックだけはいいんだから。
どういう意味だよ、と尋ねると「国立大学院の理系院生なんて、今は就職も死ぬほどいいし、出会いの機会さえあれば引く手あまただって」と表示され、山中は少し好奇心をそそられた。
理系大学院所属、部活もサークルもなし、アルバイトは登録型の日払い派遣のみ――現状のそんな日々では、確かに女性との接点なんてコンビニでおつりを手渡されるときくらいしかない。
「自分から行動しなきゃ何も始まらないんだぞ」という田中の言葉はもっともで、山中はほんの少しの期待に胸を躍らされて「分かった、行く」と返信していたのだった。
そして翌日の朝。
昨日の電車内でさっそく恋活パーティのネット予約を済ませた山中は、田中と梅田駅のビックマン前で待ち合わせて会場へと向かった。
駅から徒歩十分程度、小奇麗な高層ビルのワンフロアで受付をすませて中を覗くと、ブースに仕切られた席のひとつひとつに既に女性が座っていた。
今回はいわゆる「回転寿司」に例えられるようなシステムで、男性は着席している女性のもとを五分ずつ回って会話をし、最終的にいいなと思った女性に投票する。
同じく女性も好印象の男性に投票をし、合致すれば晴れてマッチング成立というわけだ。
待合室にて、いつもは口数の多い田中も緊張の面持ちで唇を結んでいる――山中と同じく地方から上京してきて昨年、同じ大学・学部を卒業し、既に一足早く社会人として働いている彼も、そこまで女性経験が豊富というわけではない。
「それでは、これから開始いたします……」
結局、話すべき内容もまとまらないまま、戦いの火ぶたは切られたのだった。
一人目の女性は三つ年上の会社員で、そもそもまだ学生である山中は相手にもされず、まったく話が盛り上がらないまま終了した。
しかし落胆する暇もなく次々と女性と引き合わされ、同じ自己紹介を繰り返しているうちに、会話も少しずつ上達していくのが自分でも分かった。
今回は収穫がなくても、この経験を活かして次回も参加すれば何か得るものがあるかもしれない。
そう思って肩の力が抜けたところで、ついに最後の女性となった。
「初めまして、山中と申します」
この僅かな時間ですっかり板についた、なるべく爽やかな笑顔と高めトーンの声で初対面を演出する。
女性は山中を見るなり、ぱっと表情を明るくさせた。
「こんんちは、杉浦美晴と申します!」
その嬉しそうな、どこかほっとしたような笑顔に、何となく既視感を覚えたが、どこかで会ったかどうかも定かではなく、山中も「こんにちは」と挨拶を返した。
出身地、身分、趣味などの通り一遍の自己紹介をする間も、杉浦は前のめりになってにこやかにうんうんと頷いていた。
女性参加者のなかでは唯一の学生で――つまり最も若く、愛嬌があり、さらに男であれば誰しも目がいってしまうであろうたわわな胸も相まって、彼女はとても魅力的に見えた。
しかしその分、彼女がおそらく一番人気で倍率が高くなるのは明白で、山中も「これだけ可愛い女の子と話せる機会があるだけで良かった」と思うことにして、ほんの短い時間の他愛ない会話を楽しんだのだった。
そして参加者全員との面談が終了し、投票の時間となった。
一番いいなと思った女性を選べと言われれば、最後の杉浦以外に選択肢はなく、マッチングしないのは分かり切っていたが、山中は手元の投票用タブレット端末で杉浦をタッチした。
少し時間を置いて、タブレット端末の画面が徐々に切り替わっていく。
そして「マッチング成立」の文言が、大きなハートマークとともに表れたのだった。