歯車が狂い始めたことを知る
「エミリア、恐れることはない。もうあの女はいないのだ、お前を虐げる者などいない」
「でも……」
儚げに震える少女は、誰が見ても庇護欲をかき立てられるだろう。
それは、彼女を励ます王子という立場の男であっても同様らしい。
エミリア・ベルリナ。
ふわりとした栗色の髪に、焦げ茶色の瞳。
愛らしい容姿を持つ彼女は、ベルリナ子爵が平民の女性と恋に落ちた結果生まれた娘だった。
身分差から彼女の母親は子爵の前から姿を消し、その後紆余曲折を経てその存在を知った子爵によって母娘は迎え入れられる。
しかも、エミリアには聖属性が発現しただけではなく、その魔力量たるや滅多にないほど多いと教会で太鼓判を押されたほどだ。
子爵は再会とその事実に大変喜び、今までの埋め合わせをするように厚遇し貴族の子女が通う学園にも通わせる手筈を整えた。
なんとも感動的な、絵に描いたような話である。
その影に、子爵によって離縁された女性がいるなんて殆どの人は知らない。
貴族達の間で、『子爵は妻を離縁せず、平民の女性を愛人にするべきだった』『どちらに対しても誠実さに欠ける男である』として距離を置かれていることも、気づかずにいたのだ。
「アレクシオス殿下が私の味方でいてくれるんですもの、私……頑張ります!」
「ああ、エミリア。お前はそうやって笑っていた方がいい」
周囲からの視線を気にすることもなく、二人が教室に足を踏み入れると一瞬教室内が静寂に包まれた。だがすぐに一人の女生徒が二人に歩み寄ったことで、緊張感が走る。
そんな周囲の反応をよそに、二人のところへ歩み寄った女性は優雅なお辞儀を見せた。
さすがにそれを無視できなかったのだろう、アレクシオスが小さくため息を吐いて声をかける。
「……ペリュシエ侯爵令嬢か、良い朝だな」
「はい、殿下。どうぞミリシラとお呼びくださいませ。失礼ながらお話を聞いていただきたいのですが……場所はここで結構ですので、お時間をいただけますでしょうか」
「ここは学園だ、学内は平等であると理念にあるから気にせず話しかけてくることを許そう。……だが私の横にはエミリアもいるのだが、挨拶はしないのか?」
「わたくしはベルリナ子爵令嬢と親しくありませんし、彼女から挨拶を返されたことは今まで一度もございません。ですので、必要ないかと思っただけですけれど」
「ひ、ひどい……ッ」
「あらあら」
ミリシラが小首を傾げて当たり前のように言ったその台詞に、エミリアがショックを受けたようにアレクシオス王子に縋り付く。
その様子を見てもミリシラはおかしそうに微笑んだだけだ。
「まあ、それはさておき。殿下、イザベラ=ルティエ様を婚約者から外されたそうですね。そのため、わたくしが次の婚約者となりましたの。他にも二人おりますが、彼女たちは学外のためご挨拶は後ほどということで言付けを預かっておりますわ」
「なに? 何を言っている、私はここにいるエミリアと……」
「それは無理でございましょう」
にこりとミリシラは微笑んだ。まるで聞き分けのない子供を諭すような笑みだった。
どうしてと言葉を続けようとするエミリアを遮るように彼女は言葉を続ける。
「国内の貴族派閥のバランスを保つための婚姻、そのために選ばれたのがイザベラ=ルティエ様でしたもの。あの方が外されたために、わたくしや他のご令嬢たちもそれぞれ婚約者との関係を解消せねばならなかったんですのよ?」
「なん、だと?」
「それらによって生じた問題や名誉の問題などを補える立場にベルリナ子爵令嬢はありませんもの。たとえバルトラーナ公爵がベルリナ子爵令嬢を養女にすると宣言したところで、きっとその方は王子の妻という責任の重さには耐えられませんわ」
「酷いです……! どうして、そんな……」
「どうして?」
ミリシラは、ペリュシエ侯爵家の長女である。弟と妹が一人ずついる。
青く癖のある髪を結い、その性格を表すようなつり目を細めて笑うその姿は余裕そのもので、エミリアは知らず知らずアレクシオスの腕に強くしがみついていた。
「今、どうしてと仰ったの? 礼儀作法の授業で常に最下位な上、遅刻も多ければ無断欠席もおありで、ダンスの授業はまあまあとはいえ簡単なステップしか踊れず、学業に於いては特待生として入学したにも拘らず学内順位中程度、それで王子の妻が務まると?」
ミリシラの発言に、アレクシオスの方がぎょっとした顔で隣で泣きそうな顔をしているエミリアを見下ろした。
まさかそこまでとは彼も思わなかったのだろう。
だが、すぐに彼は頭を振ってミリシラをきっと睨み付けた。
「それはイザベラ=ルティエが彼女を虐げていたからだろう。授業に出られなくしたり、出ても彼女に厳しく言われれば足が竦むのは当然だ!」
「あら、では今後に期待ですわね。彼女の努力次第では変わるかもしれませんし……まあ、無理でしょうけれど」
ミリシラはそう言うと再び深くお辞儀をしてから踵を返す。
その背をアレクシオスは憎々しげに睨み付けたが、彼自身が学内では平等であると理念を述べたのだ、王子としての権威を振るうには状況が許さない。
「ああ、そうそう」
ミリシラはそれを知ってか知らずか、くるりと彼らの方を振り向いた。
そしてにっこりと笑う。
「わたくしは、イザベラ=ルティエ様ほど甘くありませんからご注意あそばせ、ベルリナ子爵令嬢」
「えっ……」
「今まではあの方が率先して貴女の指導や注意にあたっておられましたから、わたくしたちから苦言を申し上げることはありませんでした。でも、これからは違いますのよ?」
今の婚約者筆頭は、わたくしですもの。
そう軽やかに宣言したミリシラは、それ以上彼らに興味がないのか自身の机に戻ったかと思うと友人達と談笑を再開した。
ただ、アレクシオスとエミリアはそれを呆然と見るしかできない。
(どういうことだ。イザベラを放逐すれば、すべてが思い通りになると思ったのに)
アレクシオスは周囲の視線が変わっていたことに気づいていた。
それは決して友好的ではなかったし、彼の行動を咎めるような視線が多いことに気がついて内心焦っているのも事実だ。
それでも、頼ってくれるエミリアを前に動揺する姿は見せたくなかった。
王宮では宰相達が彼の行動に対して苦言を呈していたが、イザベラ=ルティエは彼の中では悪女なのである。
悪女を王子の妻になど、できるはずがない。
頑なにそう言い続ける彼に、次第に意見を言う人はいなくなっていた。
それを彼は肯定されたとばかり思っていた。
だが、学園に来てみてこの反応はそうではないと思い知らされる。
「アレクシオス殿下……」
「……大丈夫だ、エミリア。後でマルチェロとも話し、早急に対処する。彼なら、きっと良い知恵を出してくれるに違いない」
「はい……」
不安そうに見上げてくるエミリアを安心させるように、アレクシオスはなんとか微笑みを浮かべてみせるのだった。
この次から第二章開始です!
温度差が酷いw