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メリケン・タトゥー

作者: くまごろー

 (一)


 一九三×年、アメリカ合衆国中西部のある都市───。


 ラウンジの壁に飾られた女たちの写真を眺めていると、奥のドアが開いて、体格のいい金髪の女が現れた。彼女は数人いた他の客の目をはばかるようにボクに近づいてきて、お願いがあるの───と低い声で言った。彼女は大事な話だと言わんばかりに口の前に人差し指を立て、ゆっくり深くうなずいた。ボクも彼女の雰囲気にのまれて、息をひそめるようにして彼女が差し出した手を取った。ボクらは一言もしゃべらずに、彼女が入って来たドアから奥の廊下に出た。

「日本人ね、うれしいわ。アタシはケイティ」

 廊下の隅で女はボクに抱きついたが、次の瞬間にはパッと身体をはなした。長びかないハグはただの挨拶だ。彼女は、タイをしていない日本人は珍しいだとか何とかわけのわからないことを言いながら、くるぶしまであるドレスをたくしあげてアゴの下にはさむと、空いた両手でふくらんだ堤灯のようなズロースをずりおろした。

「な、何だよ、こんな所で。第一、ボクはまだ君に決めちゃいないよ」

「しっ。そうじゃないの、あたし、これの本当の意味が知りたいのよ」

 彼女はヘソと陰毛の間の白い腹を指差して言った。(あい)色の〈万〉と〈力〉の二文字が縦に並んでいた。入墨だった。


 (二)


 彼女は去年まで四ブロック先の〈ライジング・サン〉で働いていたという。日本人の旦那衆は故郷を懐かしんで、日本風に「旭日楼(きよくじつろう)」と書いた金看板を店に贈ったりして粋がっていたが、職人や保線区の男たちの間では、もっぱら「旭屋(あさひや)」で通っている気軽で活気のある店だ。

 三年前にケイティはこの店に転がりこんで来た。店に日本人客の多いのに目をつけた彼女は、一人でも多くの客に馴染みになってもらおうと無い知恵をしぼって入墨を彫らせたのだと言う。〈愛の力〉を日本語でどう書くのか客に教えてもらい、そのまま入墨にしたのだと自慢そうだった。彼女の言うのが本当なら、彼女はもともと(とこ)上手な上に、入墨の〈万力〉は思った以上の宣伝になったから、旭屋に出入りする日本人で彼女を知らぬ者のない売れっ()になった。客たちはこの快活で如才ない娼婦の名をもじって〈おけい〉と呼んで親しんだ。彼女のほうも〈OK〉と呼ばれて悪い気はしなかった。ケイティには旭屋の水が合っていた。


 (三)


「日本の字には本当にすごい力があるんだってば」

 ケイティは子供だましのおまじないと思われるのは心外だといった目つきでボクを見た。

 旭屋で器量よしの朋輩(ほうばい)たちを追い越せたのも、その入墨の力だと信じている。とりわけて美人でもない彼女が勤め盛りの二十二才で店の稼ぎ頭にのし上がった。

 すると間もなく、彼女の評判を聞きつけた男が旭屋の女将を訪ねてきた。スカイスクレーパーズの主人だった。彼は渋る女将を拝み倒し、大枚をはたいて日本人に人気のケイティを譲り受けたのだった。

 ところが、店を移るとそれまでのケイティのツキがさっぱり落ちてしまった。新しい店では日本人からまったく声がかからない。彼女は理由がわからないまま、仕方なくイタリア人やアイルランド人の一見(いちげん)客の相手をして数日を過ごした。新しい店で彼女は平凡な娼婦だった。明朗・快活、客とともに楽しみ、細かい事にこだわらないのを信条としてきたケイティも、さすがに憂鬱な顔をすることが多くなった。旭屋で誇った人気が今ではすっかり嘘のようだ。


 (四)


 ……ここの日本人は何か足りなくて何かが余分だわ。これって何だろう? それも一人二人じゃない、みんなそうだ。むっつりで、だんまりで、表情がない。女を抱く大した腕っ節もなさそうだよ。そのくせ、お高くとまっているのが気に入らないね。旭屋の男たちのようにざっくばらんに行かないものかね。こんなじゃ馴染みになるのもだいぶ先になるよ。

 そんな不満と不安のうちに何日かが過ぎ、さらに何日かが過ぎても日本人からは一向に声がかからなかった。さすがのケイティにも焦りの色が見えて来た。

 ……いや、アタシだって旭屋で女郎たちのテッペンにいた〈万力(マンリキ)おけい〉だ。こんなはずあるものか……。そう息巻きたいが、あの人気が実力でなかったのは彼女自身が知っている。人気は〈万力さま〉のおかげだったのだ。

 ケイティの不人気が納得できないのは、新しい主人にはなおさらだった。下にも置かぬお客様扱いからわずか半月で、彼の態度はまるで手のひらを返したようになった。ケイティに落ち度がないのはわかていても、自分の見込みちがいがどうにも腹立たしくて、彼女にトゲのある言葉を吐いてしまう。主人にしてもケイティの他には当たる相手がいないのだった。


 (五)


 雑多な人種の娼婦がいる旭屋とちがってスカイスクレーパーズは白人女しか置いていない。主人は小柄な黄色い紳士たちが白人好きなのを知っていた。なぜそうなのかは分からなくても、それに例外がないことを知っていた。白人種の主人の目からはどうだろうと、日本人は白い女をよろこぶ。近隣の都市にも娼館はあるが、高級店は軒並み白人専用で日本人客を()れない。有色人種(カラード)を客にすると店の格が落ちて一流店とは見なされない。日本人がそこそこの白人娼婦を買えるのは、スカイスクレーパーズのような名目上の白人専用(ホワイトオンリー)、一流半の遊女屋しかなかったから、黄色い紳士たちはけっこうな遠距離からもこの店に通った。

 主人は日本人たちは女を抱きに来るのでなく、抱かせてもらいに来るのだと足元を見て、抜け目なくホワイト以外の料金を割高にしている。それでも日本人は何人かで連れ立ってやって来た。主人はグループ客を歓迎した。チップは自動的に高い方にならうからだ。日本人に買い馴染みの女が出来たりすると、主人は、白人の相方に出ているので都合がつかないといい加減を言う。温和(おとな)しい日本人は宛てがわれた女で我慢する。長居のできない遠方から来た日本人は、待ち時間を短くしようとチップを増額した。無理な注文は言わないし、()め事も起こさない。スカイスクレーパーズの日本人は白人以上の客だ。日本人のあしらいに長けたアイリッシュで金髪のケイティを連れてきた主人の狙いもそこだった。その彼の当てが外れたわけだ。


 (六)


「なァ、ケイティ。特別にお披露目をしてやったのに、どうしたってことだい? なんとか日本の旦那衆に取り入ってライジング・サンのとき以上にじゃんじゃん稼いでくれなきゃ困るじゃないか。お前にはずいぶん金が掛かったんだ」

「そおォ? アタシにはドレス一枚買えない支度金しかまわって来なかったけどォ」

 主人はむっとした。

「お前にこうもお茶を()かれたんじゃ、何でウチに来てもらったのかわかりゃしないよ」

「アタシだって好きでぶらぶらしちゃいないよ。呼ばれもしないのに押し掛けられて?」

 主人からの叱言(こごと)を待つまでもなく、日本人で稼いできたケイティだったから彼女も日本人客の取れない自分がもどかしいのだ。

「ライジング・サンとウチじゃ、どこかどう違うってんだい?」

「客のなりってもんでしょうよ。旭屋にはここの日本人みたいに威張りくさったのは一人もいなかったからね。お披露目のときのあいつらの目つきったら、まるでムジナでも見るようだったじゃないか。アタシを何だと思ってんだいっ」

「お前が客を選んでどうするよ。盗んだ金だってウチで遊んでくれりゃ立派な客だ。客なら威張って当然、お前は我慢して当然だろ。ライジング・サンはライジング・サンでウチはウチなんだ、いいなッ」

 主人は機嫌が悪い。ケイティはおもしろくない。

「アタシにはどうしても同じ日本人には思えないねえ。そりゃ外でどれほど偉いか知らないよ。でも、男なんて裸になれば誰も変わらないくらい他のだれよりアタシらが一番に知っているよ。でもさ、違うんだよ、旭屋とはさ……」

「ライジング・サンのことはもういいッ。とにかく半年のうちに日本人客を今の倍にしろよ。お前の腕なら出来んことじゃあるまい。わがままな連中だろうと何だろうと、お前の手にかかりゃジャップなんぞ子供みたいなもんじゃないか、な?」

 主人は(なだ)めるような声で言った。

「大将はさっきからライジング・サン、ライジング・サンって言ってるけど、向うじゃお客も女たちも〈あさひや〉って呼ぶのさね。それって、やっぱり誰もが店に親しみを持ってるってことじゃないのかねえ」

 ケイティの当てこすりに主人は苦い顔をした。

「女将さんだけさ、日本人が寄ってくれるのは金看板のおかげだと言って有り難がってるのは。ほら、大きな金色の漢字のやつさ……」

 ユダヤ人の主人はゆくゆくライジング・サンを吸収合併する腹だった。その手始めに引抜いた彼女が日本人客を取れないでは計画倒れだ。

 ……看板か。ライジング・サンでなく〈あさひや〉か。このさいウチも日本人好みの屋号に変えるのも手かな……。


 (七)


 主人は常連の三井という男にお伺いを立てていた。銀行の副支店長をしている日本人だ。主人はやはり、旭屋をまねて店を日本風の名前に変えてみるつもりだと持ちかけてみた。

「あさひや?」

「ほら、四丁先の、運河沿いのライジング・サンですよ、金文字の看板がかかってましょ?」

「あのギラギラしたやつか。で、お前のとこがあのせせっこましくて汚い遊女屋をまねるというのか?」

「三井様はお上がりになったことがあるんで?」

「ないっ。あんな下卑(げび)た所には入る気になれん。しかし、なんでお前のとこがあそこのまねをする?」

「それがどうも向うは繁盛でしてね、看板のせいらしいんですよ。漢字の看板で客が呼べるならと思いましてね」

「…………」

「屋号は〈摩天楼〉で、どんなもんでしょ?」

「くだらん」

「しかし、手前どもにも日本のお客さまにもっと来ていただきたいわけで……」

「お前には私らがあそこの裸男どもと同じに見えると言うのかっ、冗談じゃないぞ。我々はだな、ここには少しばかり格式ってものもあるようだから利用してる。あっちは女も客もひどいもんだ。あんな奴らをここになだれ込ませて下衆(げ す)の溜まり場にでもするつもりかッ。今のままでいいッ!」

「はァ」

 ……今のままでよけりゃ相談なんか持ちかけない。それにしても三井はなぜライジング・サンを親の仇のように嫌うんだ、同じ日本人じゃないのか? 日本人が白いとでも? たぶん同胞意識ってやつが希薄なのだろう……。

 主人はそう結論して、話題を切り換えた。彼はケイティの売り込みにかかった。

「三井様はブロンドはお嫌いで?」

「そんなことはない」

「先達ってのお披露目にお越しいただけませんでしたので、改めて上玉(じようだま)を紹介したいんですがね。ケイティ・オブライエン、アイルランド系の金髪です。どうです、相方がまだでしたら、ひとつ可愛がってやっちゃもらえませんか?」

 ケイティと聞いて三井の目がチラと動いた。

「あ、うん、まァそのうちにな」

「え、左様で? いや、とてもいい娘ですよ」

「いや、いい。いいんだ」

 主人には三井の答が意外だった。新しい女を勧めれば、いつだって二つ返事で、連れて来いという男が断った。それも顔も見ないうちにだ。

「じゃ、そのうちにきっとよろしくお願いしますよ。そりゃもう具合がいいって評判の()なんすから、ヒッヒッヒ」

 主人は引き下がった。

 ……あの三井までがその気を見せないとはな。やっぱりケイティは俺の眼鏡ちがいだったか。俺も焼きがまわったもんさな……。


 (八)

  

 まるで御触れでも回ったように、スカイスクレーパーズの日本人たちの間でまことしやかに囁かれていたことがあった。

『ライジング・サンから来たケイティという女は、卑猥な文句を入墨した莫連(ばくれん)女で、我々には相応しくない女郎(シロモノ)だ』

 すれっからしかどうかは別にして、ケイティに入墨があるのは事実だ。旭屋で彼女の人気を支えたそれが、スカイスクレーパーズで不人気の原因だというのも皮肉な話だが、面と向って言われた訳ではない主人もケイティも、そんなことは知る(よし)もなかった。

 スカイスクレーパーズの黄色い客たちは一人の例外もなくホワイトカラーの学識ある男たちで、同じ日本人でも入墨をした男たちとは交際(つきあい)がない。彼らは外で働く男たちを軽蔑していたし、炎天下に裸で働く彼らを馬鹿にした。そうした男たちの多くが入墨をしていたが、女だてらに入墨をしているとなれば、好印象を持つはずがない。彼らがケイティを歓迎するわけがないのだ。入墨女を遠ざける話には尾ひれがついた。

『その女に、日本人が何十人も腎虚(じんきよ)にされて寝込んだって聞いたな。なんでも(ほと)の具合がこの上なくいいんだそうで、魔法にでもかけられたように夢中で通っているうちに男のものを役立たずにされてしまうというんだ』

『なんと恐ろしい』

『人間の姿を借りた〈九尾の狐〉かな。ほら、あの女、白人には珍しく、青い目が吊り上がっていたと思わんか?』

『そう言われると、そんな気もしなくはない……。で、九尾の狐というのは?』

白面(はくめん)金毛(きんもう)九尾(きゆうび)の狐と言ってさ、体毛は金色、尻尾が九本の妖怪さ。子供の時分におやじ様から聞かされたことだが、人間の女に化けて男をたぶらかし、果ては国まで滅ぼすんだとさ。狐狸の精だな。とにかくあの女には近づかぬことだ』

『なるほど。白面も金毛も文字通り、人間に化けている間は尻尾は見せない……か。くわばら、くわばら』

『そう言えば、あの女が来てから近所の飼い犬がずいぶん吠えるようになった気がする。触らぬ神にたたりなしだな……』


 (九)


 ケイティは狐にされていていたのだった。男性としての機能を(そこ)なってまで狐の相方をたのむ者はいない。彼らがケイティに近づかないのは〈九尾の狐〉に怯えたせいではもちろんない。最新の学問を仕込んで米国までやって来た彼らはだれも、狐が人間に化ける伝説など本気にはしない。なのに、『あの女郎は狐ではない』と言う者は一人もない。〈狐〉は仲間の結束をたしかめるために利用されたので、伝説の真偽とは関係ない。おそらく下品で、貧乏で、惨じめな労働者と同じに見られるのを屈辱に思う高級日本人の思いつきだろう。信じがたい話であればあるほど、聞かされた方は真に受けた振りをする。同じメンタリティの人間だと認めてもらうためだ。『そう言えば、そうだった』と自分を譲らないと仲間外れにされる。爪弾きにあう。高級日本人たちが恐れるのは〈狐〉ではない。

 スカイスクレーパーズに集まる日本人は、無教養で粗野な旭屋の連中を毛嫌いした。そうすることは彼らの暗黙の了解で掟でもあったから、旭屋から来たケイティが〈狐〉にされて遠ざけられたのだ。高級日本人たちは自分たちが仲間でいるほうを選んだだけだ。

 事情を知らないケイティが新しい店の客たちのことを、旭屋の職人衆のように仲間でありながらも独立独歩、理解しやすい日本人に思えなかったのは当然といえば当然だった。

 上客に見放されたケイティの務めは、日本人以外を客に取っている並みの娼婦のものでしかなかった。彼女は張り合いをなくしていた。〈万力〉が自分と日本人を結びつけると信じていても、今はそれすら確かめられない。彼女が入墨の霊験が急に失せたかと心配したのも無理からぬことだった。


 (一〇)


「あっちは相変わらず元気な日本人が多いんだろうねえ。お兄さん、何か知らない?」

 明らかに旭屋に復帰したがっているケイティがボクに聞いてきた。ボクという日本人を通じて、かつての人気がまだ期待できるかどうか確かめたかったのだろう。彼女は〈万力〉を指差して念をおした。

「これってストレングス・オブ・ラブよね、そうでしょ?」

 その漢字は女性性器の圧着力の比喩だとも言えず、ボクはニタニタッと笑ってごまかした。ケイティはボクの顔を見て〈愛の力〉の健在を確信したようだ。ボクは彼女の相手だった旭屋の男たちと同じ卑猥な笑いを浮かべていたことになる。

「よかった。安心したわ」

 ボクは〈万力〉にいとも簡単に反応してしまった自分が照れくさくて、あわてて要らない説明をした。

「すごい詩人だな、それを教えた人は。愛の力も言葉の力も両方知ってるなんてさ……」

 ボクがまだ言い終わらないうちに、明るさを取り戻したケイティは、両手でボクの顔をはさんで、何度も音を立ててキスをした。

「ねえ、アタシじゃどォ?」

 正直なところケイティはボクの好みではなかった。ボクもアメリカに来て、断るときはハッキリ断らないと誤解されたり押し切られたりするのを知っていたから、何とか理由を考えなければならなかった。わずかでも親しく会話をしてしまうと断りにくくなる。ケイティは〈愛の力〉をすぐにでも試したがっているのじゃないだろうか、ボクを廊下にまで引っ張って来たのだって下心がまったくなかったわけでもないだろう。

「アイムソーリ。ボクは(あお)い目の人ってさ、溺死させられそうな気がして恐いんだ」

「まァ、あっーはっは。日本人はみんなきれいな(ブルー)だってほめてくれるのに、貴方、変わってるわ。アタシが目をつぶっててもダメなんでしょ、わかってるわよ、ははは」

 ケイティは太りぎみの身体をうれしそうに揺すりながら廊下を帰って行った。

 ……シャレを楽しむ日本人たちが、面白半分で彼女を抱いたのを人気だと思っている。ぐいぐい締まりますよってか。───人は悪くないんだろうけどな……。彼女だってそういつまでも若くない。万力様の神通力がなくなったら、次はどんな入墨をするんだろう? それにしても、思い切りがいいのか馬鹿なのか、なんで入墨なんて……。


 (十一)


 その日、ボクの相方はケイティより一ヵ月遅れてスカイスクレーパーズに入店した妹分で、茶色い髪に茶色の眼をしたアカ抜けない娘だった。

「いらっしゃい」

 ボクと目が合った彼女は緊張した様子のまま、派手なドレスからそそくさとガウンに着替えて、ボクの前の椅子に坐った。前をはだけたガウンから、当時はまだ珍しい股上の浅いショーツがのぞいた。そして偶然だが、彼女もケイティの万力と同じ位置に漢字を彫りつけていた。チラと見えた二文字の下のほうは〈愛〉だったが、上の字はコルセットの縁飾りに隠れて半分しか見えなかった。その下半分の形から「冬」だと察しをつけたけれど、ボクには冬と愛がどうつながるのかさっぱり分らなかった。

「その漢字の意味を知ってるのか?」

「ラブよ」

「インテリなんだね」

「やめて。田舎娘のなれの果てよ。これは十七才のときだから、もう昔の話……。こんな話、聞きたいの? お望みなら話さなくもないけど、済ませてからにしましょう?」

「いや、今、聞きたいな。君さえよければだけど」

「そォ? 女よりお話の方がいいだなんて、若いのにさ、あははははは」

 彼女はボクにブランデーを勧めて、昔話をし始めた。


 (十二)


「……あいつ、日本から化学肥料の買付けに来たって言ってたけどさ、私には仕事のことはわかんない。学校帰りに私たちが集まるドラッグストアに、ピカピカのサイドカーでやって来てね、女の子たちとのオシャベリが楽しいとソーダをおごってくれたり、数学の宿題をやってくれたりね、気が向けば自慢のサイドカーでその辺をひと周りしてくれる。私たちは日本人なんて見たことなかったから珍しかったのよ。だれも彼を男としてなんか見てなかったわ」

「珍種のペットだ」

「そんなところね。あるとき、ちょっとからかってやろうと思って、日本じゃ〈バーズ・アンド・ビーズ〉を学校で教えてるのって聞いたのよ」

「ペットを枝でつついたな?」

「ふふふ、そう。彼ったらそれが性教育のことだって知らなくてさ。日本人がさかんに首をひねるがおかしくて、女の子たちがクスクス、そのうちゲラゲラ笑いだしたのよ。女子高生にバカにされたと思ったんでしょ、彼がムキになって『日本だって、鳥はトリで蜂はハチに決まってるよ』ってトンチンカンを言ったもんだから、女の子たちはもうお腹かかえて大笑い。その日、サイドカーに乗れたのが私。少し遠くまで走った麦畑であっさり女にされたわ」

「ペットに咬まれたんだ。ま、微笑ましくなくもない」

「微笑ましい? 大人の目から見れば、そうでしょうね。私もバーズ・アンド・ビーズを知らない男に子供扱いされたくなくて、背伸びしたわ。こんなのたいしたことじゃないって必死で自分に言い聞かせた、ははは」

「大人に見られたいってのが子供の証拠だね」

「自分じゃ動揺しないつもりでも、ヴァージンだとそうは行かないよ。初めての男がどれほど自分を変えてしまうかなんてわかっちゃいないんだもの」

「大人の秘密を知って周りの女の子がガキに見えたろ?」

「ははは、そんな感じは確かにしたわね。ヤラ……」

 彼女は口ごもった。あからさまには言いにくい言葉が頭に浮かんだのだろう。ボクは商売女が恥じらうってのもいいもんだと思いながら、彼女の言葉を待った。彼女の白い頬がわずかに赤らんだ。

「そのゥ、ヤラれたのが自信というか自慢というか、ね?」

「はっはっは、なるほどね」

「その自慢したいような自信のなかで、女って確実に変わるのよ。好きなのが〈して欲しい男〉から、特に好きでもなかった〈してくれた男〉になっている」

「あーっはっは。ふうん、学校じゃ教えない心理学だ。ほら、何とか言ったね、億病者の亭主に美人の奥さんはいないだったっけ?」


 (十三)


「フェイント・ハート・ネア・ワン・フェアレイディ(気弱な男が美女を妻になし得た例がない)ね」

「ことわざじゃ穏やかに言ってるけどさ、結局は、早い(もん)勝ち、やった(もん)勝ちってことだからね、はっはっは」

「女にとって恐いのは、知らない間に夢中になって、自分が夢中なのに気づかないことなのよ。周囲にどれだけ騒がれても、まるで他人事……」

「夢中になったら男だって同じだろうさ」

「ううん。女はヤラれる前なら見抜けるウソが、ヤラれちゃうと見抜けなくなる。男にいいように丸めこまれているのにそれがわからなくなる。自分の変化に気づけないのよ。自分がどこかにふっ飛んでるから……」

「ウソを見抜きたくないんだろ、ラブ・イズ・ブラインドだ」

「この世に彼と私の二人っきりだなんてノロケるつもりなんて少しもないのよ、それでもそうなっているの。世の中がどうなろうと彼以外のことなんかちっともかまわないって。それはもう不思議なくらいそうなってるの」

「ぞっこんだね」

「得体の知れない他所者だから近づくんじゃないって、家族は誰ひとり彼のことを良く言わなかった。それで、家出した。街にあるの彼のアパートで暮らし始めたのよ。ハイスクールもやめちゃって、思う存分二人きりの愛の生活よ、ははは。彼の住所は家にも友達にも口止めされてたけど、それだってぜんぜんおかしいとも思わなかった」

「どのくらい……?」

「続いたか? 半年。いいように遊ばれてたのを愛されてると思ってたな。それが……」

「それが?」

「ふと街のドラッグストアにたむろしてる女子高生を見かけてさ、ああ、田舎の同級生も来年は卒業だなァって思った。そのときね、自分が戻って来たのは。それまで一度だって思い出したことなかったから」

「へえ。そんな風景みたいな瞬間をはっきり覚えているもんかな」

「今にして思えばってことよ。そしたら、それまで見えてなかったおかしなことがボロボロ出て来てさ、うろたえたわね。私はいったい何してたんだろうって……」

「やっと正気にもどったんだ」


 (十四)


「将来は結婚するなんて言われててごらんなさい、男の言うことなら全部いい方へ、いい方へ考えるじゃない。でも、やっと気づいたのよ。よくよく思い出してみると、私が田舎の友だちや家族のことを口にするたびに彼は不機嫌な顔したなァって。私だけならともかくさ、話に第三者まで出て来るようになっちゃ、とても騙しつづけられないと思ってたからなのよ、きっと」

「何か行動を起こさなかったのかい?」

「特には何も。だって出会った頃の話をしだすと、彼の気持ちが目の前でみるみる冷めていくんだもの。恐いし、情けないし、心細くてね。私ね、機嫌を損ねないように言ったつもりよ。これだけのことをしでかして来たのだから本気で二人の将来を考えましょうってね。私はこれからだってずっと貴方を愛していくわってね」

「そしたら?」

「その晩アパートに帰って来なかった」

「…………」

「何度かそんなことがあってね。会話がなくなって、彼がどんどん遠くなって、私はどんどん一人になっていった。ねえ、どうして分かってくれないの? 私は貴方を愛してるでしょう? 私には貴方しかいないのよ。もう友だちも家族もいないのよ……」

「もともと遊びのつもりだからな、そいつ」

「そうね。同じ部屋にいても、同棲を始めたころの笑顔がなくなった。あいつは前にもまして私と眼を合わせなくなった。ドラッグストアの会話なんてまるで嘘みたい。私、夢中だった頃の彼を取り戻さないことには不安でしょうがなかった……」

「何をしたんだい?」

 彼女は傍らのメモ用紙に、正しい筆順でしっかりと漢字の愛を書いてボクに寄越した。

 ……漢字が書けるのか? 驚いたな……。

「それね、あいつがドラッグストアで私の手を取って、書けるまで何度も教えてくれた字なの。それをタトゥーにしたのよ」

 彼女は下腹を指し示した。

「心まで凍えそうなとっても寒い日だったわ。街はもうクリスマス気分でね。私、お金がなくて、タトゥーショップの並びの質屋で入学祝の指輪を質入れした……」

「男に強要されたってわけじゃなかったのか」

「今から思うと、あの頃にはもう捨てられるのがうすうす分ってたのかなァ。それで、自分のなかに無くならないものが欲しかったのかもしれないね」

「別れるかもしれないのに、何でわざわざ入墨を?」

「あら、私だって十七才の普通の娘よ。自分のほうから初めての男と別れようなんて思えて?」

「でも、失恋したからって入墨は消えやしないだろ?」

「そうね、消えたらタトゥーじゃないわね」

 彼女はさびしそうに笑った。


 (十五)


「漢字って素敵だわ。何千もあるというけどさ、どの字を見ても完璧なバランスとデザイン。意味なんか知らなくてもそれくらい分る。なかでも一番好きな〈愛〉をお腹に彫ってもらうと、ここに赤ちゃんが出来るんだ、これで私は身も心も彼のものなんだって証明できる───そんな気持ちになれて落着けたの。自信がもてたせいね。私は一日に何度も何度もお腹をさすって一人でニコニコしてた。そうよ、本当に赤ちゃんが出来たみたいにね。早く〈愛〉に気づいてほめてもらいたかった。でも、もうロクに抱いちゃくれないしさ、彼ったらぜんぜん気づかなかった」

 彼女は顔の表面だけでまたさびしそうに笑った。

「鈍感なんじゃないよ。鈍いのは私のほう。私は私の愛が通じなくなるなんて思ってもみなかった。私が真剣になればなるほど、あいつには重荷だったわけね。

『バカ(あま)ッ! 何てことをしやがったッ。お前が入墨をする女だなんて思わなかったぞッ』───狂ったみたいに怒鳴られてさ、殴られた。まだ少しは自分の女だと思っていたのかしらね、抱きもしないのにさ。

 ……バラや蝶々じゃないんだよ、貴方が教えてくれた〈愛〉じゃないの……。

『入墨なんて堅気の女のすることじゃねえんだ。お前にはトコトン愛想が尽きた。さ、出て行けよッ』

「陶器みたいな無表情な顔だったな。私は着の身着のままで彼のアパートを追い出された。クリスマス・イブによ。信じられる?」

「ちッ、都合よく別れる口実にしやがって」

「田舎の娘が一人でのぼせ上がってただけよ。家族があれだけ反対したのにね、遊ばれて捨てられた。小さな町だけど世間に恥をさらしたからね、そうなってからじゃ実家に帰れないよ。もうどうでもいいって気持ちで、帰る気もなかったけどさ……」

「じゃ、見ると思い出してつらいだろ、それ?」

「そうね、皮肉なんてものじゃすまないわ。一人っきりにされて何も信じられなくなった。ヤケをおこして遊びまくってさ、悪い事も覚えただけはやったしね、自分をメチャメチャにして、気がつけばこうなってたワケだから」

「…………」

「だから、こんな商売だけど、相手が日本人だと今でも心がギクシャクしちゃう……」

「気の毒に。ボクは日本人なのが恥ずかしいよ」

「やさしいのね。でもあなたが気にすることじゃなくてよ。今日あなたのとこに来られたのも、ケイティさんが仕事を回してくれて、励ましてくれたからなの」

「何て?」

「いつまでも日本人から逃げてちゃいけない、度胸をつけなさいよって」


 (十六)


 彼女は入墨の話は終わりにしたかったのだろうけれど、ボクは半分しか見えない上の字が気になって聞いた。

「愛だけじゃないんだね、上に……」

「あ? ええ。これは後から彫ったのよ。今日は、七月の十四日よね、なら、ちょうど半年前。変ったおじさんがやって来てね。いや、もうおじいさんかな、六十才くらいだったから」

「お客?」

「そうよ、アメリカ人なのに漢字が読める人よ」

「漢字の読めるアメリカ人なんてめったにいないだろ?」

「仕事で長く日本にいたんですって。でも、商売をやってる人には見えなかったな。そのおじいさんったら、私のお腹の字が気になって仕方なかったらしいのよ、ふふふ」

「場所が場所だしな。意味が分ればよけいだろ」

「ベッドに入るとさっそく聞いてきたわ。その〈愛〉は、くださいなのか、あげるなのか、どっちだって」

「おもしろいことを言う人だ」

「そんなふうに考えたことないものね。私の愛はカラカラに涸れちゃったのに、こいつだけが退()いてくれないのよって言うと……」

「……?」

「おじいさんが言うの。『愛されることより愛することを私に望ませてください』ってお祈りを知ってるかって」

「お祈り?」

「そ、お祈り。そんなの知らないって言うとおじいさんは、幸せになれるから覚えなさいって。娼婦がお祈りなんて冗談じゃないけどさ、相手はお客さんだし、おじいさんだしね、邪慳(じやけん)にもできないでしょ?」

「何だかカトリックっぽいな、その人。まさか神父さんだったなんて落ちじゃないんだろうね?」

 ボクは軽い気持ちで笑いながら言ったのだけれど、(はな)をすすって白眼をジワッと充血させた彼女を見て、複雑な気持ちになった。……いったい何を思い出したんだろう。悪いことを言ったかな……。ボクは彼女の言葉を待った。やはり彼女は少し機嫌を悪くしたようだった。

「あなたね、カトリックだろうと何だろうと、私ら、お客が何者かなんて聞きゃしないよ。信心深い人が女を買うなら、それはそれで、よほどの事情があってのことだと思うだけ」

 ボクは湿気っぽい話は嫌いなので、少し乱暴かと思ったけれど彼女に言った。それが客の傲慢さだくらい知ってたけれど、女遊びに来て辛気くさい話なんてごめんだ。

「女を買いに来たんだからさぁ、事情もヘッタクレもないよ。この道だけは信仰とは話が別さ。男なんて誰だって死ぬまでヤリたがりなだけだよ……」

「それなら女だってそうよ。ううん、そうじゃなくって、おじいさんは私のためにやって来てくれたように思えてしょうがないの。とにかく私がすさんでヤケになって、今日明日にでも自殺しておかしくないときに現れたんだから……」

 うまく切り返されてしまった。彼女のほうがしゃべりたい話なんだろう。ボクは口をはさまないほうがいいと思った。生きるの死ぬのという話はどうも苦手だ。


 (十七)


「お前はその〈愛〉を後悔しているのだね?」

 ……大きなお世話よ。女を抱きに来たんでしょ。関わりない女の過去なんかほじくってどこがおもしろいの? お説教なら聞く耳をもった人にして……。

「でもな、それを嫌っちゃいけないぞ」

 ……事情も知らないで、なによ。思い出したくないことの一つや二つ誰だってあるわ……。

「素敵な字だな」

 おじいさんのしつこさに苛立(いらだ)って私は言った。

「いやなのよ。バラか蝶々にすればよかったわ。ときどきこれが頼りない赤ちゃんの骨みたいに見えてくる。意味をなくした漢字なんて死んだ犬の骨ほどの値打ちもないわ。大事に育てようと思ったのに死んでしまったものの骨。私に男を見る眼がなかっただけの話なの、若気の至りよ」

「間違ってもいないことをなぜそんなに嫌うんだ?」

「私を捨てた男のためにこんな傷をこさえたのが間違いじゃないですって?」

「そうさ。ワシはな、後悔するくらいなら最初から墨なんぞ入れるな、なァんて聞いたふうなことは言わんよ」

「…………?」

「人が間違いを恐れるのは後々の不都合を予測してのことだな。ただただ後悔したくないだけさ。間違いのせいでずっと世間から白い眼で見られちゃ大損だ、ウァッハッハ」

 ……当り前じゃない、そんなこと……。

「それで人は間違いをひた隠しに隠す。ついには最初っから無かったことにしてしまう。自分に嘘をついているくらい分かりそうなもんだが、いつの間にかそれも忘れて、ケロッと生きてやがる。面の皮の厚いもんさな、ウァッハッハ」

 ……笑う事ではないわ……。

「誰だって間違いの証拠をわざわざ残そうとは思わん。しかしな、間違いかどうかを他人に決めてもらうのか? 間違ってもかまわない、後悔も覚悟の上で、自分の信念を証拠に残そうとしたのがお前の〈愛〉だったんだろうが。ごらん、人に見せるものじゃないが……」

 おじいさんがシャツを脱いで左手を挙げた。二の腕の裏側が私の目に飛びこんで来た。私はハッと息をのんで、目を見張った。私のより一まわり大きい〈愛〉がたるんだ皮膚に滲んでいた。

 ……何か言いたいのに、声をかけなきゃって思うのに、おじいさんを(いたわ)ってあげたいような気持ちがこみ上げて来ているのに、言葉にならなかった。おじいさんが驚いている私の顔をのぞき込むようにして言った。

「何も言わんでいい、お前の気持ちはわかるから」

 ……今の私はだれも何も信じない一人ぼっちで、ときどきこの世から消えてなくなりたい衝動に駆られる。でも、もしかしたらこんな私でも一人ではないのかもしれない。男や女という肉体を超えて呼びかけてくるものに応える何かが、私の中にまだ残っているのかも知れない。この人もきっと私と同じ思いをした人なのかも知れない───そう思うと心がジワジワ熱くなった。私はおじいさんに抱きついて、わぁーっと一泣きして、やっとおじいさんの言うことをまともに聞く気になった。

 

 (十八)


「ワシらの生活は純潔にして身を慎んでいることだった。地上の美しいものに心を奪われてはならんのだった。美人からは敢えて眼をそむけた。一生を牢屋のような冷たい日影に身をひそめて、外に出るのは死人の出た家だけだ。それでも、若い頃は朝から晩まで勉強と祈祷ばかりした。その仕事を自分から望んで、世のため人のためだと純粋に思っていたさ」

「神父さんでしたの?」

「ああ。ワシだってまさか一生の仕事がぐらつこうとは思わなかったさ。自分が女に惚れるなど思ってもみなかった。が、世の中、どうにもならんことが起きるもんだ。人間の浅知恵では測られん」

「神父さんも一人の男性だったということですか?」

「当たり前だろ。あ、ワシを神父とは呼ばんでくれ」

「……」

「ワシが女を知って分ったことはな、女を知らなければ生涯分らなかったことだ」

「何ですの?」

「実感だよ、ウァッハッハ。ワシの女好きは頭ではどうにもならなかった。先輩たちは自分から牢屋に閉じこもって内側からカギをかけたんだな。あれにやられたらどうにもならんのを知っていたからだろう。ワシだって自分を信念の堅い男と思っていたがな、女を知ったとたんに堅いはずの信念を粉みじんにされた。ワシの意志以上の力がワシに働いというしかない、そんな実感だから、とても言葉なんかじゃ説明できゃせん、ウァッハッハ」

「まァ」

「だが、お前とちがって後悔などしとらん。この一文字はそのどうにもならん力に屈服した記念でな、この字がワシが生き直そうとしたあのときの信念を呼び起こしてくれる。リンカーン大統領も言っとったが、初心忘るべからず。ん? まァ誰でもよい。この年になっても彫ったときの意気込みはありありと思い出せる。お前の言う若気の至りというやつを噛みしめてな、今日もまた少しがんばろうって気持ちにな」


 (十九)


「神父さんが恋愛をして、教会の方はどうしたのですか?」

「追い出された。いや、自分からおん出た。神父が一人の女を愛することは許されん」

「なぜ一人の女に?」

「修道会から派遣された日本での話で、もう何十年も前のことさ。あるとき、教会の前をウロウロするばかりで一向に入ろうとしない女がいたな。美しい女だった。ワシは芸者というものを初めて見た。『神父様、どうぞ(わたし)をお救いくださいまし』なァんて言われてみろ、若いワシは彼女のためにそれこそ何でもしてやる気になった、ウァッハッハ」

「何をなされたのですか?」

「おっ、ずばり聞くんだな、ウァッハッハ。そりゃ色々だよ、老若男女分け隔てなく愛するはずのワシとしたことが……。口で言えばそれだけのことだが、その苦しみときたら……」

「神父さんのお立場ではどうにもなりませんね」

「ああ、生身の自分が恨めしかった。神父や牧師は商売柄、口さえ開けば魂の救済なんぞと言うがな、魂ってのは身体に包まれておろう? なんで口先だけで魂が救えるものか。ワシはわずかな時間を盗んでは予備校で英語を教え、工事現場でツルハシを振るった。若かったのさな。ミサの最中に居眠りをしたのはワシくらいのもんだ、ウァッハッハ」

「まァ、羨ましい。しあわせな芸者さんね」

「芸者は涙ながらに言ったな。『心苦しゅうございます。後生ですから(わたし)のために働くのはもうお()しになって。こんな身の上も運命とあきらめて、妾さえ(こら)えればそれですむこと……』

 ワシには堪えている女がさらに美しく見えた。情にほだされたってわけだ。まァそんなこんなでワシらは(わり)ない仲になったのだが、どうしても彼女を身請(みうけ)できるまでの金額は稼げなかった」

「どなたか理解のある信者さんからお借りになるとか……」

「馬鹿いうな。教会に居れんような神父の色事に金を出すやつがどこにいるか。熱心な信者たちはおろか顔さえ知らない人たちまでそっくり敵にまわしてしまったよ、ウァッハッハ」

「芸者さんとはどうなりましたの?」

「終わったな、当然だが。世間知らずのワシの目には東洋の国の奥ゆかしい健気(けなげ)な女にしか見えなかったが、この芸者がとんだくわせ者だった、ウァッハッハ」

「…………?」

「芸者のセリフも、なァに、旦那が役立たずになったもんで情夫が欲しかった、それだけのことさ。それをあの女ときたら、魂を救ってくれなどと大芝居を打ちおって。ああ、ワシは目の前がまっ暗で、この世の終りかと思った、ウァッハッハ」

「まあ、神父さんをだますなんて、そんなサタンのような……」

「いやいや、あの女のおかげでワシは講釈師にならずにすんだようなものだからな、ものは考えようさ」

「コウシャクシ?」

「見て来たような嘘をつく連中のことを日本ではそう呼んでいた。千九百年も前のキリスト復活の現場に本人が立会ったように厚かましく話すんだから、そうも言われるさ、ウァッハッハ」

「でも、神父さんや牧師さんは、みんなそう……」

「言うなァ。しかし、神は実感するもので教えられるものじゃない。このワシの中だ。神様さえワシのなかにおってくれたら、外側で起きた事なんかどうでもいい。キリストの復活さえ問題ではない。や、どうもワシは嘘をつけん性分でな、ウァッハッハ」


 (二〇)


「それでは教会にはいられませんね」

「だからおん出た。お前は、男をだます女にサタンが取り()いたように言うが、それってどんなものかな。この世にはそれぞれにサタンを腹に抱えた男と女しかおりゃせん。男の中はときにサタンそのものだ。そいつが暴れ出してくれるおかげで、ワシらは一時(いつとき)神を忘れていられる。でないと男女は愛し合えん」

「…………?」

「ワシが会った仏教の坊主たちは、人の心を惑わすそいつを魔羅(ま ら)と呼んでおった。サタンだな。サタンが顔を出そうが引っ込めようが、男と女がそろっていて神が造り給うた世界だな。全き世界というのは純粋なばかりでは成り立たんぞ」

「…………?」

「きれいごとを並べるだけで問題が解決したためしが一つだってあるか? サタンを嫌っても隠してもどうにもならん。悪魔とワシらは動脈がつながっておる。息の根を止めることも出来んし、追い出すこともできんな。嫌でもいっしょに生きるしかない。男も女も自分の中のそいつを、せめて手なづけるしかない。そのためにも男女は協力せねば、つまり、愛し合わねばならんのさな」

「…………?」

「ならばワシとて、一度やそこら女に引っ掛かったくらいで引き下がるわけに行くまい、ウァッハッハ」

「…………?」

「どした? エデンのリンゴをかじりかけて止めたようなその顔は? こんな世の中はウンザリだって顔じゃないか」

「そうお見えになるのでしたら、きっとそうなのでしょう」


 私が生意気な口をきいたのは、同じ〈愛〉をその身に刻んだおじいさんでも、結局は私を救えないのだという失望だったかも知れない。しかし私の、おじいさんとはぐれたくないという気持ちはやっぱり運命的なものだろうと考え直した。今さら純粋とか完全なんて言うのも気が引けるけど、そういうのって失ってはじめて痛感するものだから、失ったことのない人は本当にはわかってない、わかっている人の手元にはもう無いものなんだから。おじいさんはきっと、純粋だとか完全だとか言いふらす人たちが嘘っぽくていやなんだろう。

 おじいさんが神様のわけはないけれど、自分の信じる神を信じて、とにかくこの年齢まで生きて来たことは確かだわ。

 私も何度か教会へ行こうと思って、一度は実際に行ってみた。でも、牧師は私が恐れていたことしか言わなかった。聞かされなくてもいいことをのこのこ聞きに行った私が馬鹿だった。商売用のドレスはたしかにまずかったけれど、私が娼婦だと見透(み す)かした牧師は待ってましたとばかり、悔い改めなさいと来た。心を癒してほしくて出かけて行って、商売を責められて帰って来た。牧師は言葉で、信者たちは目付きで慇懃(いんぎん)に軽蔑してくれた。ええ、ええ、私とちがって貴方たちはご立派ですよ……。

 でも、おじいさんには娼婦の私を見下したふうが全くない。なんで……?


「そうか、この世はウンザリか。でもな、ワシは女を知ると、身近に愛すべき存在がいかに多いかを知ったぞ。そして女と神の両方を愛せないではワシは生きて行く意味もないと考えるようになった。ただ、ワシのなかで昼の信仰と夜の愛欲とが交互にやってくるんで、これにはホトホト弱った。何とか折り合いをつけさせにゃならん」

「どう克服されました? 深いお悩みだったでしょう?」

 私は自分のなかに悪魔がいるというおじいさんに素直に同調できた。悪魔祓(あくまばらい)いはとっくに済んでいると涼しい顔の牧師より私には身近に思えた。だって、男に誘われただけでなく、私のほうから誘ったことが何度だってあるんだから……。

「お前は見た目より賢いようだな、ウァッハッハ」

「まっ、心配してあげたのに、笑うなんて失礼じゃありませんか」

「お、すまん。ワシを理解する人間はあまりおらんでな、見極めが、これでなかなかむずかしいのだよ。よし、お前にはもう少し詳しく話そう」

「はい」


 (二十一)


「どだい人間には神が何を望んでいるかなんてわかっちゃいないんだろうと思う。

 芸者の一件が表沙汰になってワシは教会の査問委員会にかけられた。事情聴取でワシはありのままを陳述した。そのときはまだ芸者とデキてはいなかったし、彼女に神の教えを説いて、ワシにとって初めての信者が誕生しかかっているときだったから、上から芸者とは今後いっさい関わるな、女といっしょにいようというなら除籍だと言われて正直たまげた。ひどい二者択一があったものさな」

「そんな……」

「ワシは教会を神の代理機関だと信じておったから、ロクな審議もせんで、ワシの証言より世間の風評の方を採ったのには呆れてしまった」

「まァ」

「人間のやることなんて、所詮、ちっぽけなもんだ。神父のワシがいかがわしい噂を立てられたことがすでに教会に対する裏切り行為だとさ。ワシは査問委員会のお歴々に言ってやった」

「なんて?」

「ワシを除籍にしたら、芸者のほうは洗礼してくれるのかってな」

 ……すごい啖呵(たんか)を切ったものだわ……

「彼らは渋面(じゆうめん)をつくって返答しなかった。二人まとめてトカゲの尻尾にする腹だったんだろう」

「教会が迷える子羊を見捨てることになりませんか?」

「そのようだな。ワシの疑問はそのまま不信になった。だから言ってやったさ。あんたらがワシを破門にしても、ワシと神との関係は少しもぐらつかんぞ、とな」 

「そんな言い方をしたら……」

「彼らの(かん)にさわったな。一様に苦虫を噛みつぶしたような(つら)になって、査問委員会はそのままお開きになってしまった、ウァッハッハ」

 ……馬鹿正直すぎるわ……

「はたして人間には……」

「…………?」

「人間の眼には、神の眼と同じものが見えているのか? 善悪について、人間は神と同じ判断を下せるのか? 結果が悪く出るのは信仰の足りないせいで、善なる神はいっさい関与しないのか? 真偽の判定が世間の噂と変らないなら、真実を貫く意味もないな。

 教会を出たワシは身分を失った落胆より、余分なものから解放されてむしろサバサバした気分だった。神様にはワシのための神であって欲しかったし、ワシはワシの思うように神を感じていたかった。しかし、教会と縁を切ったからといって、彼らのいう悪魔がワシからいなくなったわけではないな。自分のせいでワシが破門されたと思ってか、芸者はむりやりワシを慰めてくれおった、ウァッハッハ」

「…………」

「ワシらは親密になった。男女が愛し合っても罪にはならん。が、神は姦淫するなと言う。相手を間違えるなと言うことなんだが、誰ならふさわしくて誰とだと姦淫になるのか、正直なところワシにも分らん。ワシの魔羅(ま ら)のやつにも弱ったもんで、女と見ると見境がない。見境なしでは畜生(ちくしよう)と変わらんが、欲情を押し殺して善人ぶるのも素直じゃないな。ワシは相手のスキや弱味につけこんでのことかそうでないかが分かれ目だと思っとるが、世間とワシとでは解釈がちがうんだろうな」

「ちがうとどうなります?」


 (二十二)


 おじいさんは話しつづけた。

「教会の者たちは姦淫を許す不埒なワシの神と彼らの潔癖な神をいっしょにするのを許しはすまい。同じアダムとイブの血をひいとるくせに、自分が神でもあるかのように、許すとか許さんとか───傲慢の極みだ。それだけサタンに見込まれてるとも気づかんで。ワシのような単純な色好みよりよっぽど(たち)が悪いし罪は重い、ウァッハッハ」

「だれも自分のことになると分からないものですね」

「まァな。一切合財、何もかも煎じつめれば、人が神というておるのも、生きているという実感だろうと思う。その実感を間違いなく享受するためにも、人は謙虚で素直でいることさな」

「その意見には賛成します」

「ワシがそっと自分の心をのぞくと、決まって二人が争っておる。二人は善人と悪人のようだが、まァ相性が悪いから喧嘩になる。しかし目を凝らしてよくよく見ると、弱ったことに、どちらも見覚えがある自分なんだ。善は健気だし、悪も可愛い……」

「悪が可愛い、ですか?」

「そりゃお前、悪だとて自分であれば憎みきれんよ。悪ならばこそ愛しいという気持ちも湧いて来る。他人の悪をあれほど憎みながらな、自分には甘い。人間はそれほど自分に未練なのさな、ウァッハッハ。心のなかというのはそうしたもんだ。神への渇望もあれば、肉への欲望もある。二つの思いが一つの身体を引き裂く。現実はいつだって正反対のもののせめぎあいだ。自分の力ではどうにも折り合いがつかん」

「分る気がします、それ……」

「ワシは筋の通った解決があるはずだと思索を続けてみたが、下手な考え休むに似たりでな、やっぱり答は見つからん」

「そうでしたか……」

「そりゃあそうだ。考えて答が出るくらいなら矛盾とは言わんよ。誰かが誰かの受け売りをする。それを聞きかじったくらいで答を出そうとしたワシが無謀だった。他でもない自分が考えるのだから答が出ないはずがないという思い上がりさな。だから、答が出なかったのはワシにとって幸せだった。いい加減な結着をつけるのは傲慢だし、そんなことをしたら、ズシンと腑に落ちる、実感を伴った、本当の答が永遠に失われてしまう。そこに気づくまでワシはうんうん(うな)って考えていたわけだ。知らず()らずのうちに無理をしてたな。その無理がたたってワシは痔になった。嘘じゃないぞ、そのおかげで今のワシがある。これは因果応報と言う、ウァッハッハ」

「…………?」

「正邪・善悪・生死・聖俗───いつまでもせめぎ合いが続くのなら、そのせめぎ合いこそあるべき(すがた)と言えるだろう。同じ一つのものがワシに裏と表を見せてくるだけだ。それがこのワシが生きている現実だ。違って見えたり反対に見えたりしても結局は同じものだ。それなら、片方を認めて他方を拒んだところで(むな)しい───そう考えるようになった」

「あるがままを受け入れるしかないんですね……」

「そういうことだな。ほとんど同じ確かさで背反しあうことが起る。しかしというのか、だからというのか、神様だけをぬけぬけと自分のものにする料簡(りようけん)ってのは虫が良すぎやしないか? 悪魔を隠し通そうとするならそれでよいかも知れんが、ワシの(しよう)には合わんな。きゃつめがワシに巣食っとるのは経験済みだし、現にそれが実感だからな」

「世間の人はみんな自分を善良だと思ってますよ。私には教会に行くのもかくれみのを借りに行くような気がして来ました」

「ふむ。そう思うか? お前は相当ワシを理解するようだ」

「どうでしょうか、それは。私が頭で解ろうとしていないだけかもしれません」

「む、こしゃくな、ウァッハッハ。ま、こじつけとでも何とでも好きに呼んだらいいが、神のしもべのワシと悪魔の手先のワシ───この二つが同居しているのがワシの現実さな。ワシの生はここにしかないのだからワシはここを生きねばならん。若者のように悩みを悩む贅沢はしておれんからな、ワシは決意した。ワシはワシの実感した神を語りつづけよう、悪魔からも逃げずに逆に主人になってコキ使ってやろうとな」

「……??」

「サタンはマラだ。悪魔がいる所には神もいてくださる。悪魔さえ働かせておけば神を見失うこともない。ワシが神を実感しつづけるには、それ以外に方法はない……」

「悪魔をどう使おうというのですか?」

「そこまでワシに言わせるな、ウァッハッハ」


 (二十三)


「話がくどかったか? そうか。なァに愛ってのがもともと一つだとわかりゃそれで充分、おつりが来る。芸者はいつの間にかワシの前から姿を消していったが、ワシには次から次へと湧いて来る女たちへの思いが断てなかった。もはや断とうともしなかったな。戒めを破ったワシは改めて、この身一つで生涯、女と神の両方を愛することを自分の生き方に決めたのさ。ここの〈愛〉はそのときの決意だ」

「そうでしたの。教会の考え方とはずいぶん違ってしまいましたね」

「ああ、しかたないさ。だからと言うわけではないが、ワシは苦界に身を沈めた女だけを愛そうと誓いをたてた」

「え? 普通に結婚しようとは思わなかったのですか?」

「それなら普通の男たちがやってくれよう。ずるい、汚い、とんでもないウソで何度だまされようが、ワシは娼婦が可愛いくてならん。懸命に自分の悪魔をかばおうとするあの健気さ、ウァッハッハ。ワシとすこしも変わらん」

 ……純粋な神父さんだったのだわ……

「口先だけで魂は救えんと言ったろ? 救われぬかわいそうな魂たちに、せめて一瞬でも、天国を拝ませてやりたいのさな。ワシは自分の身体でそうしてやりたい、ウァッハッハ。性悪女とて根っからのワルじゃなかろう。娼婦にだってまことがないわけじゃない。サタンの姿にエンゼルをさ、エンゼルの姿にサタンを見抜けんようではまだまだ修行が足りんのさな、ウァッハッハ」

「まァ……」

「な。お前がそれを彫ったとき、間違いなど恐れなかったろう? ねだるのとちがって与えるのは恥ずかしいことじゃないんだ。お前が男に尽くしたのを過ちだったなどと言っちゃいかん。献身を過ちだなんて言ったら神様だって面喰らう。お前が間違っているのはだな……」

「はい?」

「愛せる力がありながら人を愛さなくなったことだ。それは神への謀反(むほん)に等しい……」

 私はおじいさんの言葉に目が(くら)んで、ふるえが止らなかった。

 ……この人は、神を突き放して教会に背を向けたのじゃなくて、本当に神を信じていたからだわ……。

「愛することができた証拠の〈愛〉を嫌うな、と言ったのはそれだ。一人を愛せたなら、二人目、三人目を愛せない道理はなかろう。ワシなどお前で何百何十何人目になるか、もう四ケタに届いたかも知れんぞ、ウァッハッハ」

 おじいさんの言葉は私をバカにしているのではなかった。所どころおかしいけれど、このおじいさんはこうやって私みたいな女を救ってきた、そう思えてしかたなかった……。


 (二十四)


「すごいな。じゃ、その日もおじいさんは君を天国に?」

「それは思い出せないってことにするけど、やることはちゃんとやって帰ったわね、ははは。それよりさ……」

「なに?」

「おじいさんが教えてくれたお祈りのつづきよ。『与えることで与えられ、己を捨てることで永遠の生命に蘇ります。そうさせてください』っていう文句よ。自分を捨てるなんて誰にも出来っこないでしょう?」

「自己保存は本能だからね、そこまで徹底できないよ」

「でしょう? で、私もおじいさんに聞いたのよ。そんなことができますかって。自殺をしようという女が聞くことじゃなかったけどね、ははは」

「で、おじいさん、何て?」

「自分が捨てられんなら大事に使いきればよかろうって」

「む、ただ者じゃない……」

「この頃になって、何となくおじいさんの言うことが分るの、感覚的によ。何もかもがひとつになって宇宙の中心へ溶けこんで行くような、その渦に乗ってどんどん進んで行くと、この世とそっくりだけど全く別の世界があるようなの……」

 そう言って彼女は編み上げの紐をゆるめだした。コルセットが外れて、やっと上の字が丸ごと見えた。

「その字は?」

「贈り物、おじいさんからの」

「贈り物?」

「そう。おじいさんから教わって彫り足したのよ。間を置いて別の所でやってもらったから少し字体が違うけど、私らしくて気に入ってるの」

「字体なんか意味に較べたら何てことないさ」

「ありがとう。おじいさんは言ったのよ。ワシらは過ちを犯さずにはおれない人間だが、さいわい自分には嘘をついたことがないねえって優しく笑ってくれてね。嘘をつけない人間の間違いは間違いじゃないからしょうがないんですって。神様はとっくに許してくださってるんですって」

「そのおじいさん、君をひっくるめて〈ワシら〉って言ったのか?」

「そうよ。ワシらのような誤解される者どうしにしかわからない大事なこともあるんだ、とかね」

「何者だろう、不思議な人だ」

「だから、お客の話は聞くけど、私たちからお客のことは詮索しないってば、ははは」

「そうだったね。ここで出会ってもお互い通り過ぎるだけだからね」

「名前を聞かれたからね、私、本名を教えたの。ジーンです、ジーン・キャラウェイ……」

「ジーンっていうのか。ああ、それでその字なんだね」

「そう。おじいさん、しばらく考えて、私が自分に自信が持てる字だから、決して忘れんようになって」

「それでタトゥーに? おじいさんを見習ったってわけか」

「そうよ。この字は何かをやり切るって意味で〈つくす〉って読むんですって」

「うん、そう読む。で、君の方からはおじいさんの名前を聞かなかったのかい?」

「私もさすがにそれだけは聞いたわ。おじいさんがこの世のどこかにいてくれると思っていたいから、名前だけは教えてくださいってね」

「何ていう人だった?」

「ううん。私の〈愛〉をツンツンと突ついて、ワシなら何時だってここに居るさって言うのよ」

「うーむ」

「名前なんてどうでもいいですって」

「ふうん。話が出来すぎてるような……」

「お願いですからイジワルしないで教えてください。私っておじいさんの名前を知る価値もない女なんですかって、少しすねてやったの」

「そしたら……?」

「おじいさんは黙って私の手に懷中時計を渡して、開けてみなさいってアゴをしゃくった。(ふた)を開けてみると裏に、〈トゥ・ジョゥブ───フロム・メアリ〉って彫ってあったわ」

「『ヨブ記』のヨブか……」

「余分なことは聞かなきゃいいのに、メアリさんってだれですか、って思わず……」

「だれ?」

「おじいさんが助祭に叙階されたときに、村の娘さんのお母さんから届けられた時計だったのよ、それ。娘さん、自殺されたそうよ。おじいさん、中学校で一番を争っていただけの子だったから、そこまで思いつめているなんて思わなかったんですって。最初の仕事がメアリさんのお葬式だったのよ。つらかったって」

「別れても、いつまでも忘れられない人っているよ」

「エシャジョーリって言ってたわ」

「…………」

「さ、自己紹介が長くなったけど、よろしくね。で、あなたを何て呼んだらいい?」

 ジーンはにっこりボクに微笑んで立ち上がった。

 ボクは娼婦の守護聖人の右腕には〈神〉と彫ってあるんだろうとぼんやりと確信して、ピカピカに磨きこまれた真鍮(しんちゆう)ベッドに横になったジーンを眺めていた。


 (二十五)


 一年半後───。

 ボクはアメリカでの研修を終えて、桑港(フリスコ)から日本に帰る太平洋航路の船に乗らなくてはならなかった。日本とアメリカの関係がいよいよ怪しくなって来ていたせいもあった。

 アメリカもこれが最後という晩、トランク二つを船会社に預けて、ボクは性懲(しようこ)りもなく売春宿に泊まった。港の近くの〈クリサンスマム〉という名のぱっとしない店だった。……ふふ、菊乃家だな……。

 ラウンジで当てにならない娼婦たちの写真を眺めた。明日はもう海の上かと思うと、旅人の感傷というやつがふつふつと湧いてきた。一年半の米国滞在の思い出に残るいい娘を探していた。ボクは一番下の(はし)っこの写真を見て、思わず声を上げそうになった。一段と太っていたが、彼女に間違いなかった。

「ケイティだ……。ここまで流れて来たのか。結局、旭屋には戻れなかったんだ……」

 彼女がボクの好みではないのは以前にも話したが、ある意味、いや、色んな意味でアメリカ的な女だった。

 ……うむ、ケイティで後悔しないだろう、航海は明日からだ……。ボクはダジャレを飛ばしながら、ワイシャツの腕をまくって大時計のゼンマイを巻いている男に声をかけた。

「その、ケイティって娘をたのめるかな」

「はァ、たってというなら、どうぞ」

「妙な勧め方じゃないか、何かあるのかい?」

「そりゃ、あの娘の方はよろこびますがね。いえ、後でゴタゴタされても何ですから、承知しといてもらいたいんですよ……」

「はっきり言えよ」

「あっちの具合はいいんですが、ちょいと腹に傷があるんです。その分と言っちゃ何ですが、半額でいいですよ……」

 ……ケイティが半額? 半額の娼婦……。

 ボクは胸がつまった。

 ……ジーン・キャラウェイはどうしたろう? 彼女のことをケイティには訊けないな。ケイティもあのおじいさんと会っていれば、もう少ししあわせだったかな……。

 ボクはキーを受け取ってケイティの部屋を訪ねた。ノックをしないでドアを開け、いきなり陽気な大声で言った。

「ハーィ、ケイティ。ロング・タイム・ノー・スィー!」

 彼女はキョトンとした顔をしたが、商売を思い出したのか、すぐに明るい笑顔で小さくボクに手を振ったけれど、やっぱり覚えていないようだった。

 小さな部屋はこぎれいにしてあったが、妙な違和感があった。一年半アメリカにいて一度も見なかったものがあったからだ。背の低い箪笥(チエスト)の上におもちゃのような白木の神棚があり、小さな鳥居の両脇に瀬戸物の白い狐がソッポを向いていた。左右が逆だ。聖母像を飾った娼婦の部屋は何度か経験したが、アメリカで神棚というのはこっけいなくらいチグハグだった。……いったいどうなってるんだろう、デコレーション・ピース? それはなさそうだ。〈万力〉を見せられたとき、素朴な信仰心の女性だと思ったが、それでも神棚とケイティの間を埋めるどんな話も想像できなかった。楽しいストーリーがあるとも思えなかった。……このことは触れないでおこう。ケイティもボクも湿気っぽいのは嫌いなはずだ……。

 ケイティは相変わらず深くて澄んだきれいなブルーの眼をしていた。

「ボクも泳げるようになったからね、もう君の青い眼も恐くないよ。今度は溺れずにすむよ」

 そう冗談を言って、しばらく待つうちに彼女の眼が大きくなった。

「OK、思い出したか?」

「あッ、ええっ! お兄さんは、あのときの?」 

 彼女は破顔一笑してボクに抱きついた。ボクらは長く抱き合って長いキスをした。体を離しながらケイティが言った。

「あれからどれくらいになるかしら。アタシ、色々あり過ぎて、もうずっと昔のような気がするわ」

「まだ一年半だよ。でも今日でアメリカは最後なんだ。それで……」

「オゥ、ワラ・シェイム(なんてことなの)!」

 ベッドに入る前、ボクは当り前のように視線を彼女の下腹に走らせたが、〈万力〉の場所にボクの目が見たのは無惨にひっつれた火傷の痕だった。ボクの視線が動かないのに気づいたケイティが言った。

「色々あったのよ。ごめんね。なにさ、こんなものッ、はっはっは!」

 彼女は手のひらでパン、パンとケロイドの腹を叩いて笑った。自分で焼ゴテを当てたのだと聞かされてボクはたまげて何も聞けなかった。

「アイリッシュはね、気だけは強いんだァ、あっはっは」

 無理に笑っているようにも思えない、とボクは妙に感心してしまった。

「お兄さん、シケた話は止しましょ。今晩だけでしょ、アタシたち?」

「そうだな、楽しくやろう」

 ボクらはバーボンやらウィスキーやらで何度も乾杯したが、いったい何に乾杯したのだったか。ボクもケイティもしこたま飲んでいるのに、なぜかなかなか寝付けなかった。天井を睨んでケイティが言った。

「ねェアタシとお兄さんは、縁があったのかしら、なかったのかしら……」

「さァどっちかな。不思議な気もするし当たり前のような気もするな……」


 翌る朝、ボクらは菊乃家の前で別れた。ケイティは港に見送れないのが残念だと言って、ボクに絹目の写真をくれた。悩み一つない笑顔の少女が斜め上を見て写っている。

「これって、ハイスクールの卒業写真だろ。大事にしなきゃだめだよ」

「お兄さんがもらってくれるなら、お嫁にやるわ。処女(ヴアージン)よ」

 写真には意外な達筆で〈トゥ・マイ・ビラヴィド・ジャップ・ガイ〉と書いてあった。(了)



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[一言] 書き方の感じとしては実話ベース・・?滞在は別にして、現地に住んでいる日本人は礼儀正しくて、万力のジョークはありえないと思うのだが・・。フィクションってことで。
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