負の渦と、杭
学院長室のドアがノックされたとき、部屋には学院長以外に3人がいた。
教官や首席研究者といった人々で、それぞれ出身は、キリハル、ルダンシャ、ユーラバである。
「おや、学院長は本日、面談のご予定があったのですかな?」
我が物顔にルダンシャの短槍教官キルネンコが言って、その扉を開くと——、
「っ!? これは……」
そこにいた人物が意外だったのか、表情が真剣なものに変わる。
「学院長に呼ばれ、参りました」
リーグ=緑鬼=ルマニアは学院長室へと入る。
キリハルとユーラバの者も驚いたようだった。
学院長はツブラ出身——連合7カ国の中でも「最弱」のツブラだ。
もちろん一学生を呼び出すことは十分にあり得る。だが、今回は相手が違う。
緑鬼氏族がルマニアでもトップ氏族であることは、連合国の政治を知る者にとっては常識中の常識だ。
いくら学院の最高権力者である学院長とはいえ、簡単に呼び出せるものではない。
「ありがとう、リーグ様。わざわざ来ていただいて」
「学院長。私はここでは学生の身分です。様などつけないでください」
「……わかりました。リーグ」
そのやりとりにますます驚くキルネンコたち3人。
いつの間にかツブラとルマニアが接近していたのか、と邪推するには十分な、気安ささえ感じさせた。
「教官たちは席を外してくださる?」
「あ、いえ、あの、しかし——」
「これは『お願い』ではなく、学院長としての『命令』です」
「……はっ」
顔に「納得できない」という言葉を貼り付けた3人が出て行く。
それを見送ってからリーグは言った。
「いいのですか? 彼らはまだ知らないのでしょう。学院長の甥御さんが回復したことを」
すでに、学院長の甥は毒素の中毒症状から解放されていた。龍腎華の葉によってである。
学院長が精神的に弱っているために、そこにつけこもうとしていたのが先ほどの3人だった。いや、3人だけでなくかなりの人数が学院長に接近していた。
「力になる」「ポーンソニアへ復讐しよう」などと無責任な言葉を囁くだけならまだいい。「早く学院長の座を降りて、看病しては?」などと臆面もなく言う者までいた。
「どのみちすぐに知れることです。——それにしても驚きました。リーグ、あなたまで龍腎華の葉を手に入れてくれたとは」
「シルベスター様がすでにお持ちのようでした。私のやったことは無駄でした」
「そんな謙遜はしなくていいのです。聞きました。あなたが冒険者を送り込んでくれて、そのおかげでシルベスター様が命を救われたと」
「シルベスター様がそうおっしゃるのなら、そうかもしれません。私は現地で見たわけではないので」
実のところ、リーグはレッサーワイバーン戦でなにがあったのかヒカルからしか聞いていない。いかにヒカルが腕利きの冒険者とはいえ、ひとりでどうこうできる相手ではない——竜種は。
だからこそシルベスターが、正直に「命を救われた」と言ったことが意外だった。
自分から弱みをさらしているようなものだ。
「リーグ。シルベスター様は……ツブラの未来を背負っていける、大きな器を持った方。ウソはつきません」
「そうですか」
「今回のことはほんとうに感謝しています。あなたにもお礼をしたいのだけれど……正直言って、あなたがなにを望んでいるのかがわからないのです。この学院長の座であればむしろ、シルベスター様に力を貸すなんてしないほうがいいでしょう? シルベスター様は『緑鬼氏族からの厚意』とおっしゃっていたけれど……」
「そんな都合のいい話は信じられない、と?」
「……残念ながら。厚意として受け止めるには私たちの歴史はあまりに険悪でした」
「いえ、私とて一朝一夕に関係性が改善するとは思っていません。それにシルベスター様を救うために彼を送ったわけではありません。もしお礼をなさるなら彼にしたほうがよろしいかと存じます」
「彼? シルベスター様を救ったという冒険者のこと? ……もしかして、私も知っている人物なのですか?」
「ええ。学院の学生ですよ」
「まあ!」
腰を浮かせて学院長がうれしそうな声を上げた。
「そんなに才能ある学生がいたなんて! いったいなんという名前です?」
「ヒカルさんです」
「————は?」
「おそらくご存じだと思いますが、最近入学したので。ヒカルさんは」
ふらりと、急にめまいでもしたかのように学院長はイスに座り込んだ。
「黒髪黒目の……?」
「ええ」
「かなり若い感じの……?」
「ええ」
「……なるほど……ミハイル教官が気に入るわけですね。教官は才能があればどんな性格かなんて気にしないから」
どんな性格か——という下りに、思いがけずリーグの口元が緩む。
「おっしゃるとおり、ヒカルさんの性格はねじ曲がっていますね」
「あなたはずいぶんと、あの学生と仲がいいのですね?」
「とんでもない。彼と話すときはまったく油断できませんよ。いつこちらが刺されるかわからない」
「そんな人物にどうして依頼したの……」
「腕は確かです」
学院長が背筋を正すと、ギィ、とイスが鳴った。
「わかりました。ヒカルには……なにかのタイミングでお礼をしましょう。でも依頼をしたのはあなたでしょうし、あなたに報いたいと思います。お金がいいかしら? この学院長の座は、渡せないけれど」
「いえ、ほんとうにこれはただの厚意です。——と言ったところで信じてもらえないでしょうね。ではこうしましょうか。私が困った立場にあったとき、助力してください。できる範囲で構いませんから」
「…………」
学院長は疑うようにリーグを見る。
「……なにか困りごとが訪れる予定でもあるのかしら?」
「参りましたね。疑いから入られるとまともに会話もできない」
「言ったでしょう。私たちの歴史は、簡単ではないのよ。詳しく話しましょうか? 260年前にツブラを騙してルマニアが領土を奪ったことを? 近いところでは4年前にツブラ出身の官僚を失脚させたルマニアの——」
「ええ、ええ、わかっています。私が言いたいのは、これは『負の渦』だということです」
「……『負の渦』?」
リーグはうなずいた。
「渦は回転し、その回転速度を年々増している。どんどんどんどん私たちの関係性は悪くなっていきます。ですが、この渦は誰かが止めなければならない。私は最初の杭を打ち込みたいのです」
それは、理想論とすら呼べないほどに青臭い言葉だと学院長は思った。
だがその言葉を吐いたのはルマニアの緑鬼氏族である青年。
なまなかの覚悟ではないことが伝わってきた。
「信じてみたい、とは思いますが……」
「わかっています。私の言葉にはなんの説得力もありません」
「実家の皆さんはあなたの考えをご存じなの?」
「……いえ」
そこで初めてリーグの表情に苦々しさが走った。
「協力者はいますが、大勢は、学院長の知っているルマニアと変わっていません」
「そうですか——」
それから二言三言かわしてから、リーグは去っていった。
結局、目に見える形での「礼」は受け取ろうとしなかった。
「『負の渦』に打ち込む杭……」
彼の言葉をもう一度、学院長はつぶやいた。
学院長室を出たリーグは、屋外へと出て行く。グラウンドの前を通りがかって——彼らに気がついた。
「?」
ミハイル教官が腕を組んで大笑いしている。「だらしねえ」とか「もっと気合い入れろ」とか言っている。
その後ろのほうでは木陰でミレイ教官がうたた寝している。
問題は——ミハイル教官の足下に寝そべっている学生たちだ。
模擬剣が放り出されていて、大の字になって大きく息を吐いている。
その中にはリーグの仲間であるローイエもいるし、大剣講義では随一の腕前というジャラザックの学生もいた。
そして、
「……ヒカル?」
へろへろと、両足に力を込めて立ち上がったのは黒髪黒目の少年、ヒカルだった。
「なんだなんだ、立ち上がったのはヒカルだけか!? というかヒカル、お前も体力がなさすぎるぞ!」
「ば、バカ言うんじゃない……僕だけ、ずっと連戦だったんだぞ……」
「その割には一撃も食らわなかったじゃねえか!」
「そういう立ち回りなんだよ……ていうかこいつら頑丈過ぎるだろ……僕が何回蹴り飛ばしたと思ってるんだよ……」
「最後は俺とやるか!?」
「やらない。帰る……もうさすがに、限界だ」
へろへろと、歩き出すヒカル。
「いったい、なにがあったんですか?」
そのヒカルに追いすがってリーグは声をかけた。
「……今、話しかけんな。吐きそう」
「ヒカルさんにもそういう状態があるんですね」
「…………」
「結構楽しそうに見えますが?」
「どこが……汗みずくに泥まみれ……最悪の気分だよ」
「清々しい顔をされていますよ」
「黙れ」
「ヒカルさんにも暑苦しい友情みたいなものがあったんですねえ」
「ない」
「ローイエも喜んでいたんじゃありませんか? ヒカルさんに構ってもらえて」
「……リーグ。これはなにかの仕返しか?」
「気のせいでしょう。そうそう——」
結局リーグはヒカルにくっついて家までやってきた。
からかっているようにも見えたが、実のところ心配もあった。ヒカルがどれほどの実力者なのかリーグには測りきれない部分がある。だが体力面では年相応のようだった。だから家まで送り届けてやろうと思ったのだ。
家が、あまりに近かったので拍子抜けしたが。
「……リーグ、僕は送ってくれと頼んだわけじゃないからな……」
ヒカルにもその気遣いは伝わっていたらしい。
「ええ。これは私の純粋な厚意です」
「……ああ、そう。じゃあ、なんとも思わないことにする」
ヒカルはそう言うと家へと入っていった。
「『なんとも思わないことにする』——そう思ってもらうことの、難しさ、か」
リーグもまた、きびすを返した。
7カ国の対立は根が深いです。共通の敵がいるときはいいのですが。