復讐の代役
**人が死ぬ表現があります**
雷混じりの雨だった。
石畳を叩きつける雨が白い飛沫を立てる。
外套も着ずに出てきてしまったヒカルは、びしょびしょになりながらも目的のモルグスタット伯爵別邸へとやってくる。
(25分)
裏口から入ることも考えたが、カギが開いていなかった。そのせいで無駄に5分ロスした。
正面から堂々と乗り込むことにする。
正面入口は、夜間の警備のために人の出入りがある。だからカギはかかっていない。
軒下で軽く裾を握って水を切る。
ドアを開く。
「――先日のお客様だけど、すごい成金でさ――」
「――俺が休み取ってた日だっけ――」
間が悪い。
使用人が2人通りがかった。
だが――通り過ぎた。
ヒカルが入ってきたというのに、通りがかった2人の使用人はまったく気づかないのだ。
信じられない。
こんなに堂々と入ってきているのに気づかれないなんて。
ヒカルは、自分の手に入れた3つのスキル、「隠密」に連なるスキルが想像以上に力を発揮しているらしいことに気がついた。
これはオン/オフが可能のようで、気合い入れて――と言うのも妙な感じだったが――いると「隠密」が発動する。
自分の身体が希薄になるような不思議な感覚。
常夜灯などはないのだろう、屋敷内は暗い。
スキルはあるが、それでも一応、物陰を選んで進む。階段を登って3階へ。
「…………」
夜間警備らしい男が2人組でこちらに歩いてくる。
腰に剣を吊っている、略装の騎士だ。
モルグスタット伯爵は国内でも権勢を誇る貴族だから、騎士を警備員代わりに使えるのだった。
「ん」
「どうした」
騎士がひとり、立ち止まる。
「……なにか違和感がある」
「なんだ? 俺にはわからないが」
「侵入者かもしれない」
「!」
もうひとりの騎士が腰の剣に手を伸ばす。
「……いや、でもどこにもいないぞ?」
「そうなんだよな……」
騎士のひとりがかがみ込んで床に手を触れる。
「……濡れているな」
「そりゃそうだ。外は雨だ」
「雨の中誰か帰ってきたっけ?」
「例の『娘』の調査のために、錬金術師ギルドへ人を使いにやっていたろう」
「ああ……そう言えば、そうだったな」
屈んでいた騎士は、苦虫をかみつぶしたような顔で立ち上がる。
「行くぞ」
「ん、いいのか?」
「気のせいだったようだ。……それよりも、あの伯爵が腹立たしくてまともに警備する気にもなれぬ」
「まあ、そう言うなよ――」
ふたりが立ち去っていく。
「……ふぅ…………」
柱の陰に立っていたヒカルは長く息を吐いた。
バレるかと思った。
だが「隠密」さんはかなりいい仕事をしてくれたらしい。「知覚遮断」は正解だった。さっきの騎士はニオイや空気、経験に頼っているふうがあった。探知系のスキルでは間違いなく、ない。
それにラッキーも1つあった。
吐き捨てるように言った騎士は、「伯爵」と言ったときにちらりと後ろを向いたのだ。
つまりそちらに伯爵の部屋がある。
(15分)
時間もある。
実は先ほど「20分」の声が聞こえてきて、心底びっくりした。騎士が近づいてきた最中だったからこの声が聞こえてしまうんじゃないかとすら思ったほどだった。
「……行こう」
歩き出す。
騎士たちは振り返りもしない。
彼らの持つ明かりが遠ざかっていくと、周囲は闇に包まれる。
一応、採光用の窓が上部に取り付けられており、雷が走ると廊下が多少明るくなる。
「暗視」などのスキルがあればいいのにとは思うが、いずれにせよ残ポイントは0だ。
暗いことが幸いだった部分もあった。
扉から漏れるかすかな光がわかりやすいのだ。
一部屋だけ、明かりが漏れていた。
ドアの前で耳を澄ます。
雨の音が邪魔で聞こえづらい――が。
「――んん? あのバカ男爵め……ごうつくばりが――」
男の声が聞こえた。
年老いた男の。
ローランドの記憶にあるモルグスタット伯爵は、総白髪の男だ。
ターゲットがここにいる。
ドアに手を伸ばしたヒカルの手が震えている。
「――ッ」
ぎゅう、と握りしめる。大丈夫。大丈夫だ。僕ならやれる。
ここまで来て怖じ気づく心がある。
やるんだろ?
殺して、生き延びるんだろ?
自分に言い聞かせる。
手を握りしめているとだんだん落ち着いてくる。
ローランドへの同情もあった。新しい世界にも興味があった。知識欲がうずいた。
でも最後、ヒカルを「殺人」の行動に動かしたのは――前世での「死」だった。
人は簡単に死ぬ。
それにこの世界は、現代日本とは違う。
殺さなければ生きられない、そういう世界でもある。
(10分)
ローランドのカウントが聞こえたとき、ヒカルはドアを開いた。
モルグスタット伯爵は部屋の入口に身体を向けていた。
執務机に座ってランプの明かりでなにかを読んでいた。
「むう?」
ドアに視線を投げる。
今、ドアが開いたような。
「誰だ。警備の騎士か?」
あるいは執事か――と思ったが、こんな時間に、こちらから呼ぶことなく来ることはない。ましてやノックをしないなんてこともあり得ない。
ドアは閉まっている。
「……気のせいか」
視線を手元に落とす。
植物紙に書かれているのはいくつもの報告書だ。
最後の1枚に目を落としたとき、
「ふむ、成功か」
隠語が使われた文書だ。表面上は「領地での火事を鎮火した」とだけ読めるがその実は――ザラシャ子爵の息子を殺したという内容だった。
「……驚かせてくれる。まさかポーンドにいたとはな……」
この町にいたというザラシャ子爵の息子。
ひょっとしたら自分を殺しに来たのかもしれない。先に居場所を確認でき、手の者を差し向けられたのは幸運だった。
「まったく、親子そろって忌々しい。だがザラシャ家はもう終わりだ。あとは私の時代――」
――違うな。
不意に、そんな声が聞こえた気がして、モルグスタット伯爵は戸惑った。
だが室内に他の人間の気配はない。
「誰だ!?」
机の引き出しを開けて、中にあるベルに手を伸ばす。
一度鳴らせば屋敷のどこにいても警備たちに知らせられるアイテムだ。
「あああああああ!?」
だがベルに触れた手は、引き出しの上で止まった。
上から手のひらを刺されたのだ。
「お、お、おお前は……!?」
痛みとともに恐怖が襲いかかってくる。
真横に、いるはずのない人物がいた。
「ローランド=ヌィ=ザラシャ……まあ、その代役だ。お前の命をもらう」
「な、なんで……」
「死ね」
引き抜かれた短刀から血が垂れる。
するりと、不自然なほど刃は肉体に滑り込んだ。
だが迷いなく、少年はモルグスタット伯爵の心臓に刃を突き立てた。
「――ぐぶっ」
ぐるっ、と刺した刃をひねるとモルグスタット伯爵は血を吐いてその場に倒れた――。
「はあ、はぁ……」
ヒカルの目の前にモルグスタット伯爵の死体が転がっている。
身体が熱い。今すぐ走り出して大声を上げたいような気分だった。
一瞬、ほんの一瞬だけ、ヒカルの身体は動かなかった。
ローランドはヒカルから身体を取り戻そうとしたからだ。
残り10分程度の時間を消費して、ローランドはヒカルの意志を封じ込めて「自分で」伯爵を殺そうとしたのだ。
(……お前というヤツは)
呆れたようなローランドの声。
「やらせないよ。……僕がやると、決めたんだからな」
生きるのだと決めた。
その条件が「殺人」であるのなら、やらねばならなかった。
思いの外、落ち着いている自分がいた。
(……ありがとう)
今まで聞いた中でいちばん温かな、ローランドの声が聞こえてきた。
心底悔やんでいるような、だけど、満足したような声だった。
(……僕はもう消える。お金も、名誉も残せないけど、その身体は君のものだから……)
身体からローランドの魂が消えていくのを感じる。
(……君の、名前は?)
ヒカル、と答えた。
(……ありがとう、ヒカル……僕の、僕らザラシャ一家の恩人……僕はずっと祈っている、君の……未来が明るいことを……)
最後のローランドの欠片が、消えた。
「……消えたか」
約束を果たした、という達成感はほとんどなかった。
人を殺したのだという重苦しい感情が圧倒的に心を占めていた。
その場に座り込みたい気分だった。
「殺したの?」
「!?」
そのとき、部屋のドアが開いていることに気がついた。
立っていたのは少女だ。
銀髪に青い目、透き通るように白い肌。
人間離れした――美しい少女だった。
見られた? 違う、気づかれたんだ。
どうする。
この状況じゃ、言い逃れできない。
「……呼び鈴が鳴った。騎士が来るよ」
「!!」
ヒカルは気づいていなかったが、モルグスタット伯爵の手から短刀を抜いたとき、指先がベルに触れていたのだ。
ベルは転がり、引き出しの中で小さく音を立てていた。
この部屋へ、足音が近づいているのが聞こえる。
どうする、どうする、どうする。
「隠密」で逃げ切れるだろうか――。
すると、少女はスッと指差した。
「バルコニーに、縄ばしごがある。そこから1階に下りられる」
「――――」
ほんとうだろうか? いや、どうしてそんなことをこの子は教えてくれる?
「急いで」
迷っている余裕はない。
ヒカルはダッシュした。
バルコニーへ出る扉を開けると、雷雲は去ったのか、強い風は吹いていたものの雨は止んでいた。
確かに、縄ばしごがある。緊急時の脱出用かもしれない。
それを外に下ろす。伝って下り始める。
手が震えているために、なかなかうまく下りられない。
閉めた扉の向こうで、騒がしい声が聞こえる。
「――ラヴィア嬢、なぜここに――」
「――伯爵がベルを鳴らしたことと関係が?――」
「――お、おい、これ! 伯爵が倒れておられる!!――」
騒ぎが大きくなる。
「暗殺だ」
という結論とともに、バルコニーの扉が開けられたころには――下ろされた縄ばしごはぶらぶらと揺れているだけだった。
「さ、さすがに、ここまで来れば……大丈夫だろ……」
疲労困憊だった。
高級ホテルに戻ることはできなかった。
理由はふたつある。ひとつは、もうホテルにはなにもないこと。金目のものは暗殺者によって持ち去られていた。犯行を強盗の仕業に見せかけるためだ。だからホテルに戻るメリットがない。
もうひとつは――顔だ。
「……これが、僕の身体」
明け方の4時くらいだろうか。
今は初夏のころで4時を過ぎると白々と明るくなってくる。
水たまりに映った顔。
濃い茶色の髪に、濃い茶色の目。
ローランドの面影はほとんどない――前世のヒカルの顔になりつつあった。
じわじわと茶色から黒に変わっていっている。
魂が身体になじんできているのだ。
「……それにしても、疲れたな」
ヒカルがいたのは街中でも人通りの少ない場所。
墓地だった。
墓地の敷地に生えていた巨木に身体をもたせてヒカルは目を閉じた。
――そう言えば……あの女の子。どうして僕を逃がしたんだろう――。
異世界で初めての眠り。
夢は、見なかった。