439話 人
安元よりも早く真っ白い空間を突破した添島は安元と同じく、八十七階層のとある空間にいた。そこは安元とは全く違う世界が広がっており、添島が感じた事も安元とは全く異なった。だが、その世界が意味する事は安元と然程違いは無い。
「成る程な……。これは厄介だ。先程までの空間とは真逆の空間だ」
添島は白い空間では極力抑えていた感情を露わにして、次第に移り変わって行く景色を冷静に観察して次に行うべき自分の行動を考える。顎に手を当てたままピクリとも動かない添島の姿は添島の広い肩幅と全身に付いた分厚い筋肉から探偵気取りの野球選手の様にも見えない事はない。それが若干滑稽と言えば滑稽と言わんばかりに周囲は添島を景色の中に置いて行く。
しかし、添島はそんな中でも添島は自分の事よりも他人の事を心配していた。どんな状況でも自分よりも他人。無意識の内に自己犠牲の精神で生きている添島はその事に気が付いていない。それは『優しさ』と言う言葉でも表せるが時としてそれは『無様』とも言い変えられる。何故、自分よりも他人の幸せを優先するのか?例え自分が傷ついたとしても、他人が助かれば良い。この考えは時に悪手になり得る。
「アイツら、今頃上手くやっているかな?特に安元の奴が心配だ。アイツは自分の感情に流されやすいからな」
逆に自分を棚に上げて常に他人を見ているからこそ自分に余裕が出来、冷静に物事を判断して他人を救う為に己を鍛えて頑張れる。それはある意味では添島の強みである。
添島の周囲の景色は移り変わり、冷たい色をした鉄筋コンクリートの壁が映し出される。その中にあるのは暖かみのある火を灯しているストーブだ。そのストーブの明るい火が消えるとそこに黒い影が現れ、灯油を入れ替える為に鉄筋コンクリートで作られた壁を伝って明るい木目が刻まれた木製の扉を開けて外に出る。だけど、その影がその場に戻る事は無い。添島がいる場所には燃え尽きて石の様になって動かなくなったストーブとただ冷たいだけのコンクリートの壁が残る。
「死か。俺には少なくともそれを感じさせるな」
抽象的な表現。人によってはこれを孤独と捉えたかも知れない。だけど、添島はこれを死と捉えた。そして、添島のポツリと呟いた言葉にはどこか哀愁が漂っており、添島の表情も何処と無く暗くなっていた。冷たい印象を齎すコンクリートの中に灯された一つの暖かい光。それが断たれた。それだけで人は悲しみを感じる物だが、添島はどこか昔の記憶を思い出す様に一歩一歩を踏みしめてゆっくりと黒い影が出て行った木製の扉の方へと足を進める。
「火は消えても、色は消えていない……か」
添島は唯一部屋に残された色である木製の扉のドアノブに手を掛け、触れた瞬間思わず背中にぞくりとした物を感じて一歩退く。添島はその一つの扉の色を他人と捉えたのだろう。その為、孤独とは取らなかった。だが、その扉にあった明るい印象とは別にその扉には意味が込められている。
「何だ……?この感触は!」
今までに感じた事がない程に冷たいドアノブの感触に添島は身体を震わせ、驚いた。普通ならばドアノブ如きの温度でビビる添島では無い。いや、それは添島に限った事では無いだろう。だが、この時の添島の様子は明らかに異なった。鉄で出来たドアノブの異常な冷たさは添島の中にあった擁護心を抑えつけ、己の部分を引き出した。異常な程に湧き上がる負の感情に冷や汗をかく添島だったが、添島は自身に幻術だと言い聞かせながらドアノブを強く握ってドアを引いた。
この添島が抱いた感情が幻術によって増幅されたのは言うまでも無く真実だ。だけど、間違っている事はある。それはこの添島の抱いた感情が幻術によって作られた感情では無く、添島の中に湧き上がって来た感情を誇張、増幅させた物であると言う事だ。
恐る恐る自分に湧き上がって来た負の感情を抑えながら添島は扉を開いて足を踏み出す。だが、そこには足場は存在しなかった。そして目の前の空間にポツリと浮かぶ非常階段に立っている先程灯油を取りに行った筈の影は笑いながら添島を見ていた。そして、その影はゆっくりと笑い、身体を倒し始める。
「っ!?」
添島が全力で身体を使って飛び込めばその影を非常階段に押し込めただろうか?たけど、飛び込めば添島が死を選ぶ事になる。幻覚だと割り切って添島がその場でその映像をゆっくりと眺めると言う事も出来ただろう。だが、添島の心はそれを許さなかった。絶対に生きて元の世界に戻らなくてはならない。その目的が今あったとしても、添島は手を影に向かって差し伸ばしてコンクリートの建物から勢いを付けて飛び出した。
「何故……?」
その瞬間非常階段は姿を消し、影も姿を消す。そして、添島の身体は動力を失って真っ直ぐ地面に向けて落下していく。いや、地面など無い。添島の身体はひたすら重力を受けて落ち続ける。どこまでも、どこまでも。本当にこれが正しい選択だったのだろうか?添島は自身を叱責する。今自分が一番に守るべき物は何なのか?目の前の物が、それなのか?いや、違うだろう。だけど、この幻術にかかった世界では思う様に身体は動かない。身体は心情に比例して動くのだ。それを添島は分かった上で、文句を言うのは野暮だと思い。真っ直ぐと目を瞑って重力に身を任せる。
この空間に重力の概念があるのかは分からない。一見してみると添島が腹を括って諦めたかの様に思えるだろう。少し前の完全に乱れ切っていたら添島の様子を見た者がいたとしたならば尚更だ。だが、添島は目を瞑って冷静に状況を分析していた。異常な程の感情の起伏に違和感を覚えた添島は即座に心のスイッチを切り替えた。普通の人間ならばそんな事はまず出来ない。勿論添島も完全に心のスイッチを切り替えた訳では無い。
添島はバクバクと大きくなっていく心臓の鼓動を自制する事を試みて、自身の沈静化作業に入った。




