3.滅亡
魔界へと足を踏み入れた俺は、その異様な光景に足を止めてしまった。
そこはまさに地獄絵図だった。
といっても、地獄と聞いてイメージするような、死後に罪人が落とされるあれのことじゃない。
世界の法則が乱れ、空間そのものが壊れようとしている、滅び行く世界の姿だったんだ。
いったい何でこんなことになったのかわからないが、とにかく当初の目的であった魔界に来るという目的は達成できた。
このあたりでいったん戻ろうか。
まだ魔界に来て一歩しか歩いていないが、今日は調査が目的だからな。
ゲートを使って魔界に来ることは可能。
それがわかっただけで十分だ。
そう思って振り返ろうとした俺の足は、いきなり力が抜けてひざを突いてしまった。
「なっ……んだ……?」
すぐに立ち上がろうとする。
が、力が入らずにそのまま倒れてしまった。
こんな世界だからな。ろくでもないものが充満してても不思議じゃないか。
などと冷静に分析している場合じゃないよこれ。
足だけでなく腕にも力が入らないため、目の前にゲートがあるというのに、そこまで這って進む力もわいてこない。
地面にゲートを生み出して逃げよう。
と思ったんだが、スキルを発動しようとしたとたんひどい頭痛におそわれて失敗してしまった。
これはガチでまずい。本当になにもできない。助けを求めようにもここには俺一人だ。
誰にもいわずに一人でこっそり来たのが徒になってしまった。
やがて呼吸すらも苦しくなってきて、目を開けているのも辛くなってきた。
まずい。このままでは本当に死ぬ。
そう思うのだがどうにもならない。
これは、本当に……意識が……薄れて……。
「まったく、さっそくこれでは先が思いやられるの」
気がつくと目の前に金髪の幼女、ラグナが立っていた。
「どうして……ここに……?」
俺が魔界に来ることは誰にもいっていなかったんだけど。
ラグナがおかしそうに破顔した。
「我は主と共にあるというたじゃろう。危機に陥ればすぐにわかる」
そういいながら俺の目の前でしゃがみ込むと、俺の顔をまじまじと見つめ、頬をぺちぺちとたたいた。
「ふむ。魔素にやられたようじゃな。やはり人の身には毒のようじゃの」
魔素? なんだそれ。
「魔界に満ちておるもののことじゃよ。魔界に住んでおる者はそう呼んでおるようじゃ。魔界がここまで荒廃した原因でもある」
魔界が荒廃した原因だって?
それはいったいなぜ……。
「それについてはまた今度話すとしよう。それより今は主じゃ。このままでは死ぬぞ」
ああ、それはなんとなくわかる。たぶんこれは本気で死ぬやつだよな。一歩入った瞬間毒になって死ぬとか魔界ハードモードすぎだろ。
俺の小説ならそんな鬼仕様なんかにしないんだけど、現実はそこまで主人公のこと気にかけてくれないからなあ。
助かるのかこれ。
「案ずるな。そのために我が来たのだからな。体内に入った魔素が原因なら、それを吸い出せばよいだけじゃ。少々手荒になるがかまわぬな?」
「死ぬよりはマシだ。やってくれ」
「うむ。では唇を借りるぞ」
え? 唇?
ラグナの細い指が俺のあごを持ち上げると、かがみ込むようにして唇を重ねてきた。
柔らかな感触がふわりとふれあい、女の子特有の甘い香りが鼻孔をくすぐると共に電流のような刺激があばばばばばばばば!
びくんびくんと俺の体がのたうつ。
ああ久しぶりだなこの感覚。前にもラグナの魔力とやらを吸い出すときにこんなことされたよな。
俺の中からなにかがラグナへと吸い込まれていくのを感じられる。
やがてラグナが唇を離す。
俺の体は未だにしびれて動けなかった。
はわわ……。ラグナたんの唇しゅごしゅぎぃ……。
ラグナが自分の唇に残ったものをぺろりと舌で舐めとった。
「ふむ。やはり主の味は甘美よの。くせになりそうじゃ」
幼い顔で妖艶に笑う。
その笑みだけで俺の脳がとろけそうになった。
これがいわゆる小悪魔というやつか。
なにしろ見た目だけは絶世の幼女だからな。
そんな幼女にこんな台詞を言われたら、このままロリコンに目覚めてしまっても不思議じゃない。
だがラグナの本体はエンシェントドラゴンであり、数千年を生きたロリババアであり、ラグナがいうには魔力そのものであるため、生物的には男か女かも怪しいという。
……うん、設定によってはロリジジイもあり得るんだよな……。なにその誰得設定……。そんなのに唇を奪われて悦んでいる俺っていったい……。
よーしいい感じに萎えてきたから今のは全部忘れるぞう。
そのほうがいい。うん。ラグナは頼りになるかわいい金髪幼女の女の子。それでいいじゃないか。
「くっくっく。命が助かって真っ先に思うことがそれとは、相変わらず主は不思議なことを気にするよの」
ラグナが可笑しそうに笑う。
そういや体を共有しているだけあって、俺の思考がダダ漏れなんだっけ。
ラグナにはわからなくても、人間にとっては相手が男か女かは人生で一番大事なことなんだよ。
「ふむ。そういうものかの。我にはわからぬが、主が望むのならこの姿のままでいるとしようか」
是非そうしてくれ。
俺のファーストキッスの相手はラグナなんだからな。
ある日いきなりおっさんになってたらゲロ吐いて死ぬぞ。
そんな軽口を叩いている間に体の痺れもとれてきた。
魔素とやらを吸い出してもらったおかげで、足にもしっかりと力が入るようになってるな。
「今は平気じゃが、ここに長くいれば再び倒れるぞ。早めに出たほうがよい」
いわれなくてもそうするよ。
俺は目の前のゲートにさっさと飛び込んだ。
暗い洞窟の中に戻ってくると、それだけでなんとなく楽になった気がする。
気のせいだとは思うけど、空気まで美味しく感じるからな。
しかし、とゲートの向こうの魔界を振り返る。
魔界にも暮らしている者たちは多い。
入るだけで魔素とやらに冒されて死にかけるくらいだ。魔界に暮らしている魔族たちは今どうなっているのだろう。
無事だといいのだが、などと考えるのは、やっぱり偽善なんだろうか。
魔界と敵対する人間がそう思うのはやはりおかしいのだろうが、それでもやっぱり無事でいてほしいと思う。
「なにもおかしなことではあるまい。主は魔王ですらも救うと豪語してみせたのじゃ。魔界の民くらい当然救ってみせるのじゃろう」
「……そうかな。ありがとう」
「うむ。礼をいわれるほどのことではないが、主に感謝されるのは悪い気分ではないの」
「ラグナにそのつもりはなくても、俺にとっては重要なことだったんだよ。それに命も救ってもらったんだからな。感謝くらいするさ」
「では頂戴しておこう。それと魔界に住んでる者はちゃんとおるぞ。皆この環境に適応しておるようじゃ」
「そうか……」
それはよかった。
「とはいえ、あの魔素ってのはなんなんだ」
俺の小説にはもちろんあんなものはなかった。
そもそも主人公たちは魔界に入っても普通にピンピンしてたからな。
ラグナが少しだけ困ったように首を傾げる。そういう仕草だけは本当に普通の女の子だから、たまにドキッとしてしまう。
「なに、といわれると説明に困るの。魔素というのは、魔界に満ちている魔力のようなものじゃ。魔界におる者はみな適応しておるから平気じゃが、人間には耐性がないからの。高濃度の魔力を直接取り込んでおるようなものじゃから、人間にとっては毒になるようじゃの」
「なんでそんなものが生まれたんだ」
「主が危惧するような特別な理由はないぞ。魔素はこの世界が生まれたと同時に現れたもの。この世界になぜ魔力があるのか、と聞くのと同じじゃ。どうしてもというのであれば、魔界の成り立ちと、そのときに起こった物理現象について詳しく説明することもできるが」
うん、そこまではいいや。
説明されても理解できない自信があるし。
「ところで、ラグナは平気なのか」
「魔素は魔力のようなものというたじゃろう。厳密には違うから取り込むことはできぬが、毒になることもない」
なるほど。そういうものか。
とにかくいったん戻ったほうがよさそうだな。
やはり事前に調査しに来てよかった。
いきなり四人でつっこんで全滅、なんてこともあり得たからな。
いまのところ攻略の目処は立っていないが、原因が分かれば対処の方法もあるだろう。
新しく手に入れたスキルもあることだし、いくつか思いついたこともある。
戻ったらさっそく試してみようか。