38.夢
目を開けると真っ暗な世界だった。
もう何度もきた女神様の夢の世界。
暗い世界の片隅に、膝を抱えた女の子がうずくまっていた。
ここは今まで声の響かない世界だった。
どんなに走っても近づけないし、どんなに叫んでも声は届かない。
だけど今、女の子が俺に向かって語りかける。
「はじめまして、伊勢裕真様。こうしてお話しするのは初めてですね」
想像通りのかわいらしい声。
幼さを残しつつも、丁寧な口調にはどこか気高いものを感じさせるなにかがあった。
俺も声を返そうとしたが、残念ながら俺の言葉は響かなかった。
「ごめんなさい。今はまだ私にそこまでの力は戻っていないんです。あなたが顕現鍵を解放したおかげで、わずかではありますが力が戻ってきました。その力でどうにか語りかける力を取り戻しただけなのです」
なるほど。
ということはやっぱり、この女の子は女神様なのか。
それは俺の心の中で思っただけだったのだが、女の子が苦笑するように口元をゆるませた。
「私は神と呼ばれるような大それたものではありません。ただこの世界を守りたい。この世界に住むすべての人たちを守りたい。その思いが形になったものにすぎませんから」
ふむ。世界を守りたいという思いが形になったもの、か。
また俺の知らない設定が出てきたが、元々女神様というのもそういうものだった気がするな。
どの作品だって神とか女神とか出てくるが、それがどういった存在なのかを語ることはない。
死者を転生させたり、崩壊寸前の世界を救うために異世界に転移させたりする、世界の管理者的な立ち位置だ。
まあ神っていったらこの世界の創造主、みたいなイメージだよな。
女神だと世界を救うためになにか色々してくれる感じだ。それこそ魔王を倒すために勇者として転生させたり。
女性は母性的だから「なにかを守る」というイメージを持ちやすいんだろうか。
……そんな考察はどうでもいいか。
要するに、女神様という存在については俺も深くは考えていなかった。でも「世界を守る神様的な存在」という漠然としたイメージだけはあった。
それが反映されれば、女の子がいうように「この世界を守りたいという思いが形になったもの」ということになるのかもしれない。
それがつまりどういうことなのかについては一切わからないけどな。
でも、女の子は目の前にいて、こうして話しかけてきているのは間違いのない事実だ。
「今日こうして声をかけたのは、あなたにお話ししたいことがあったからです」
俺に話したいこと?
「運命は大きく変わろうとしています。滅ぶはずだった世界が変わることなく存在している。それはあなたのおかげです。あなたを呼んでよかった。本当にありがとうございます」
お礼を言われるようなことじゃないよ。
世界が滅ぶのは俺のせい……なのかどうかはちょっとわからんが、そんなのを俺も黙って見過ごすわけにはいかないからな。
それは俺の本音だったが、女の子は年相応のかわいらしい笑みを浮かべた。
「それでも、です。ありがとうございます」
それじゃあ、どういたしまして。
俺も女神様のおかげで助かったようなものだから、おあいこだな。
「ふふっ、ではそういうことにしましょうか」
ついでに聞いておきたいんだが、この世界は俺の小説が元になっているんだよな。
つまり、俺が作ったということなのか?
「それは、私にもわかりません。私はこの世界と共に生まれました。だけど今のように意志は持たず、ただ在るだけでした。それがどれくらい昔なのかもよくわからないですし、それより前がどうなっていたのかもわからないんです」
うーん、そういうものか。
ラグナも数千年生きているらしいが、俺の小説はそんな昔のことは書いたこともないし、そもそも俺が小説を書いてから世界が生まれたとしたら時間軸が矛盾しまくっている。
「しかし世界が滅びを迎えようとしたとき、私の中に『この世界を救わなければ』という意志が生まれました。それが今の私です。そして同時に、私がすべきこともすぐに理解できました。私には滅びを止める力はない。代わりに、それだけの力を持つ人が違う世界にいる。私にできるのはその力を持つ人──あなたを呼び出すことだけでした」
なるほど、それは俺に話したかったことか。
「そうです。ですが、お伝えしなければならないことがもう1つあります」
まだあるってのか?
「世界を救おうとしているのは私だけではありません。魔界の神もまた、魔界を救うために動いています」
魔界の神……?
それはひょっとして……。
「そうです。あなたがたが魔王と呼ぶあの存在。あれこそが魔界の神です」
まじかよ……。
神に等しい力を持つ存在どころか、神そのものだったのかよ。
「神というと少し違うかもしれません。私がこの世界を守ろうという意思の現れであるように、あの人もまた、魔界と呼ばれる世界を変えるための意思の現れなのです」
また出たなその設定。
世界を守る意志とか、世界そのものとか、概念存在とか、俺には理解不能な設定が多すぎなんだが。それはいったいなんなんだ?
俺の疑問に、女の子が苦笑する。
「なに、と聞かれると答えるのは難しいですね。裕真様はなんですかと聞くのと同じですから」
なるほど。それは確かに答えづらいな。
「全てのものはいずれ滅びますが、同時に滅びに対抗しようとする性質があります。それは意志の有る無しに関わりません。命あるものも、命なきものも、形あるものも、形なきものも、等しく滅びに対抗しようとする性質を持ちます。世界を守ろうとする意志、歴史の修正力、物語の抵抗。すべて同じです。存在していることが、すなわち滅びへの抵抗なのです。それが私です」
うん、やっぱりわからん。
だけどまあ、この子が味方だというのはわかった。
「ふふ、ありがとうございます」
それが伝えたいことだったのか?
「いいえ、お話しすべきことはここからです。
あなたを呼ぶために私の力のほとんどを使ったため、あなたにはとても強い力が秘められています。しかし、世界を守ろうとする意志はひとつだけではありません」
魔王も確かそうなんだったよな。
「そうです。あの人もまた勇者を召喚しました」
なんだって……?
「もう一人の勇者もまた、魔界を救うために旅をしていると思われます。私にはその存在は感じ取れないのですが……。気をつけてください。世界を救うために呼び出された『特別な転移者』は一人だけではありません」
魔王が呼んだもう一人の勇者。
そんなのがいるというのか。
俺の小説には、当たり前だが勇者は一人だけだった。それどころか魔界を救おうとするだなんて考える奴もいなかった。
俺には魔界を滅ぼすつもりなんてないが、そんなのは向こうにはわからないだろう。
場合によっては戦うことになるかもしれない。そうなれば激戦は必死だ。
転移者対転移者。
チート対チート。
すでに山ひとつ消し飛んだり、太陽風を召喚されたり、概念を逆転されたりとインフレ気味なのに、さらにその上をいく可能性があるのか。
これが物語の抵抗だというのなら、過去最大のものとなるだろう。
これはもう小説の展開を超えている、なんてレベルではない。
俺の小説は、いうまでもなく勇者の物語だ。
異世界に呼び出された勇者が、旅の中で成長し仲間を得て、やがて世界を救う話だ。
勇者がもう一人現れるということは、新たな物語がもう一つ作られることを意味する。
物語の修正ではなく、新たな物語の創造。
ルートを大きくはずれた物語の修正をあきらめ、新しい世界を構築するための勇者の召還。
俺の持つ力も相当にチートだと思うが、相手もまた同じくらいにぶっ壊れた能力を持っているんだろう。
敵対すればただではすみそうにない。
だが作者である俺以上の存在なんているのだろうか。もう一人の作者、なんてものが存在するわけがないと思いたいが。
犯人は読者でした、なんて言い出さないだろうな。
そうこうしているうちに、夢の世界が白みはじめた。
そのとき、女の子が両手をのばし、俺の頬を挟み込んだ。
そしてゆっくりと幼い顔を近づけてくる。
今更ながらに思い出した。
元々女神様は主人公にちょっとエッチなことをしてくれるサービスシーン担当だったんだ。
こうしてあらためて正面から見つめると、女神様はめちゃくちゃかわいかった。
目の前に迫る幼い顔にドキドキと心臓が高鳴る。
小さな唇からもれる吐息は、花の蜜のように甘い香りがした。
俺にはシェーラという心に決めた人がいる。
なのに、女神様の手をふりほどけない。
弱々しいその力は、その気になればいくらでも振り払えるはずなのに、俺にはそれができなかった。
これは、あれだ。しかたない。向こうから求めてきたんだし。据え膳食わぬは何とやらともいうし。女の子に恥をかかせないためにも、ここは男の俺がしっかりと覚悟を決めてあげようじゃないか。
やがて幼い顔が近づいてきて、こつん、と額を触れあわせた。
目を丸くする俺に向けて、女の子がやわらかく笑う。
「女神の祝福を貴方に。ルビーの加護はなくなってしまいましたから、代わりに私の力を少しだけあなたにお渡ししました」
あ、ああ。力ね。なるほどね。たしかにルビーは砕けちゃったからな。身を守るものはなくなってたからな。
でもそういうことはもっと早くいってほしかったな。まだ心臓がバクバクいってるよ。
白みはじめる世界の中で、女の子が俺の顔を見つめ、ふふっとイタズラっぽくほほえんだ。
「今の私は子供ですから。そういうコトは大人になってからに致しましょう」