35.概念
部屋の中央に現れたラスボス──魔王ケリドウィンを前にして、俺たちは動けなかった。
魔王がなんなのかは、実は俺もよく把握していない。
魔王というのはラスボスであり、魔界を作った創造主であり、神にも等しい存在で、最後に倒されるための存在だ、くらいのふわっとしたことしか考えてなかった。
だってしょうがないじゃん。どうせ倒されるだけの存在なんだし。魔王や魔界の成り立ちを細かく考えてもしょうがないかなって。
しかしそんな俺のふわっとした設定でも、脳内にある以上はきっと反映されたんだろう。
魔王とは魔界を統べる王であり、創造主であり、神にも等しい存在だ。そんなのが俺たちの前に立ちはだかっていることになる。
……いや、勝てる訳ないだろこれ。
見た目も口調も、間違いなく俺が小説内で描いた魔王そのものだった。
しかし、ちがう。こんなに存在感の薄い存在ではなかったし、もっと人類を憎んでいた。人を見ればすぐ殺しにかかるようなやつだったんだ。
だが目の前の存在は、この世のすべてに憂いているような、そんな儚い目で俺のほうを向いている。
少なくとも、今すぐに殺しにかかろうという憎しみは感じられなかった。
「お前は、いったい誰だ……」
からからの喉からどうにか絞り出した俺の問いに答えることなく、魔王は光のない瞳で俺たちを見る。
「ここが特異点だ。ここを境に運命は変わる。だから確かめにきた」
「なにを……言っている……」
「貴様は未来をどう変える? 平和な未来を導くか? それとも新たな破滅をもたらすか?」
会話がまったくかみ合わない。
心臓をわしずかみにされるこの冷気には覚えがある。
アンデッドドラゴンの闇のブレスを浴びたときと同じだ。氷の手で心臓を鷲掴みにされたような恐怖が締め付ける。
ただし、あのときとは恐怖の比が違う。氷の手は巨人のように大きく、冷え切った温度は絶対零度のように凍てついている。
問いかけられているのに、声が出せなかった。
「運命が見えない。再生と崩壊が同時に存在している。危険だ。貴様がいなくなれば、新たな運命が見えるか?」
部屋の中央にいたはずの魔王は、いつのまにか俺の目の前にいた。
瞬間移動ですらない。まるで最初からそこにいたのかの様に、そいつは平然と俺の目の前にいた。
病的な白い腕が俺へと伸ばされる。
それを俺は見ていることしかできなかった。
触れれば命を吸われる。わかっていても動けない。
透明な指先が俺の額に触れる。なにかが頭の奥から抜けるような感覚とともに、意識が薄れていく。
魂というものがあるのなら、きっとこれがそうなんだろう。
魔王の指先に俺の魂が吸い取られ、小さな火花と共に指が離れた。
冷たい表情に初めて感情が浮かんだ。
「この力は……」
驚いてるのだろうか。
気がつくと、いつのまにか俺の足下に女の子がうずくまっていた。
大きな本を胸に抱いたまま、意志の強い目を男へと向ける。
言葉はない。
ただじっと見つめている。その視線に覚えがあった。
「君は……夢の中の……」
魔王が口を開く。
「なるほど。それがお前の選択か」
なにかを納得するようにひとりうなずく。
その目の前に、新たな存在が現れた。
「まったく、我と同じ存在に巡り会うとは、つくづくお主の周りは面白きことばかりよの」
聞き覚えのある口調とともに金髪の幼女が現れた。
ラグナだ。
俺を振り返ると、小さな手で無遠慮に俺の頬をペチペチと叩く。
「ふむ。生きておるな。やつに触れてまだ存在を保つとは。やはりお主は面白い」
「いや、よくわからないけど、そこの子が──」
守ってくれたっぽい、と言おうとして、足下にうずくまっていた女の子の姿がなくなっていることに気づいた。
「あれ? さっきまでいたんだがな」
「我にはなにも感じなかったが。なにやら異様な気配を感じて駆けつけたものの、そこの存在以外にはなにもいなかったがの」
ラグナの金色の瞳が男を見る。
「ところで主はやつの正体を知っておるのか?」
「魔王、のはずだ」
さすがに断言できなかった。
見た目はまさしく俺が小説内で描写した通りなのだが、イメージがあまりにもかけ離れている。
「ラグナは知ってるのか?」
「わからぬ。よもや我と同格の存在があるとは思いもせなんだわ」
ラグナと同格? どういう意味だ。
「我が魔力そのものだとすれば、やつは世界そのものということじゃ」
なるほど。わからん。
もっと作者にもわかるように説明してくれよ。
魔王がじっとラグナを見つめた。
「貴様はなんだ。運命が見通せない。何者だ」
「聞いておったじゃろう。我は魔力そのものじゃ。主に似た存在よ。時にお主、我が主に手を触れおったな」
ラグナの全身から俺でも感じ取れるほどの魔力が立ち上がり、長い金髪が風もないのにざわめきはじめる。
「我が主に危害を加えようというのなら、相応の覚悟をすることじゃ。この存在と引き替えにお主の存在もかき消してやるぞ」
「ラグナ、なにをいってるんだ……!」
慌てる俺に、無邪気な笑みが振り返る。
「我が身を案ずるか? くはは、それもまた面白い。なん百年ぶりかの。なあに、死にはせぬ。魔力が霧散するだけよ。再び集まるのに百年はかかるがの」
「ダメだ!」
魔王はラグナと男のあいだに割って入った。
「いっただろう。俺は誰も死なせない。そこにはもちろんラグナだって含まれてるんだ」
「我は死なぬといったじゃろう。ふふ。お主は本当に仕方のないやつよの」
ラグナが頬をゆるませる。こんな時だったが、幼い少女そのままの無邪気な笑みだった。
「案ずるな。我に生死の概念はないと言うたじゃろう。それは向こうも同じじゃがの」
そういえば、ラグナと同格の存在といっていたな。
「そんなの、勝てるのか……?」
「勝つとか負けるとかの話ではない。やつは世界の一部であり、世界そのもの。お主等の言葉でもっとも近いものをあげるのなら、時間や重力と同じ存在じゃよ」
さっぱりわからん。
生命ではない、どころか物質ですらないじゃないか。
重力と同じ存在ってつまりどういうことだってばよ。
「そうじゃの。概念存在とでもいおうか、意志ある物理法則とでもいおうか。
この世界が『そう』であるから重力が存在するように、この世界が『そう』であるからやつは存在しておる」
ダメだ、なにをいっているのかなにひとつわからない。
だんだん自信なくなってきたけど、ここは俺の書いた世界なんだろうな。
「つまりやつを倒すということは、この世界から重力をなくす、というのと同義じゃ」
「……そんなの無理に決まってるだろ」
「そうじゃ。無理じゃ。いうたじゃろう。勝つとか負けるとかの話ではないと。しかしそれでも、やるというならやらねばならぬ」
ラグナの目が魔王を見据える。
「とはいえ、我が主のいうことじゃ、無碍にはできん。引くがよい。そうすれば追わぬ」
魔王は思案するように俺たちを見る。
俺とラグナが話しているあいだ、こいつはまったく動きを見せなかった。
なにを考えているのかまったくわからない。
永遠のようにも感じられる短い時間のあと、魔王が静かに口を開いた。
「試すか。少し手を加えよう。運命を導くのも我が使命」
相変わらずよくわからないことを言い、両手を広げる。右手に火を、左手に水を生み出した。
「合成。<火><水>」
「いきなりかよ!」
相反する二つの属性を強引に合成すると、自然界には存在しない希有な物質が生まれる。
それは物質である以上防ぐことのできない魔王の最強攻撃。
生成された反物質によって、辺り一面が一瞬にして消滅した。