14.おっぱい
俺の頼みを聞いたシェーラは目を丸くし、ぽかんとして固まっていた。
「……えっと。ごめん。たぶん聞き間違いに決まってると思うけど念のためにもう一度聞くわ。今なんていったの?」
う……。もう一度いうのか。ちょっと恥ずかしいな。
ごほんと咳払いをすると、改めて告げた。
「シェーラのおっぱいを揉ませてほしい」
その言葉は静かな室内になぜだか響き渡った。
シェーラはなにも言わない。
たっぷり十秒は黙ったあと、ようやく我に返った。
「………………は? はあああああああああああ!?」
大声が響く。
「なんでよ! いいわけないでしょ!? どうしてそんなことになるのよ!」
「えっ? どうして?」
疑問がそのまま俺の口からこぼれた。
どうして? どうしてだと? それを聞くのか?
ならば答えてやろう。
「そんなの……シェーラがかわいいからに決まってるだろう!!」
「ふぇっ!?」
いきなり真っ赤になって驚くシェーラに詰め寄ると、俺は言い聞かせてやった。
「こんなにかわいい女の子と一緒の部屋で寝てたらそんなのムラムラするに決まってるだろ! 思春期の男子なめんな! だいたい前から疑問だったんだよ。どうして世の中の主人公たちはあんな美少女に囲まれながら理性を保っていられるんだ? 無理だろ? アスナに手を出したキリトさんこそ俺のジャスティスッ!!」
なぜか呆然として固まっているシェーラの両肩に手をおいた。
「なぜかって聞いたよな。教えてやるよ。それは、シェーラが世界一かわいいからだ」
「な、な、な、な」
暗い部屋の中でもわかるほど真っ赤になっている。
俺はそんなシェーラに向けて、真剣な声音で告げた。
「だからおっぱいを揉ませてほしい」
「い……いいわけないでしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
部屋の中に赤い閃光が発生する。
と思った次の瞬間には爆発音が響き、俺の体は壁にたたきつけられていた。
いつつ……。
どうやら攻撃魔法を使われたらしいな。
冒険者カードを見ると、取得可能スキルに【火炎魔法 スパークLv.1】が追加されていた。
一応手加減はしてくれたらしい。
「おい、うるせーぞ! 何時だと思ってんだ!」
お隣さんから壁ドンされる。
そりゃ夜中に攻撃魔法ぶっ放せばうるさくて目も覚めるか。
シェーラを見ると、自分の体を守るように抱きしめながら、半眼のジト目を向けてきていた。
「いっとくけど、ユーマが悪いんだからね」
どうやら怒っているらしい。
そりゃまあそうだよな。いきなりあんなこといわれて怒らないわけがない。
しかしここで引き下がったら結局は小説通りになってしまう。
だから俺はわざとらしく痛そうな仕草をした。
「あーいててーこれじゃあ床の上で寝るのは辛いなー夜は眠れなくて明日は寝不足かもなー」
「そ、そんなの、ユーマが悪いんじゃない……」
「いくら昼は普通でも、夜はやっぱ寒いんだよなー。あーあ、シェーラは助けてくれた恩人に攻撃魔法を撃ち込んだ上に床の上で寝させてもなにも思わないような女の子だったのかー」
「でっ、でも……」
まだ警戒した目を向けてくる。
とはいえだいぶゆるくなっていた。もう一押しだな。
「あーこれは明日も寝不足決定だなー魔王幹部退治というSSSランククエストがあるというのに体調が悪いまま向かったら死んじゃうかもしれないなー」
「ううう-! ずるいわよ!」
「ずるいって、なにがかなー? 俺はただやわらかいベッドの上で疲れを取りたいだけなんだけどなー」
「ううう……わかった! わかったわよ! ユーマもベッドの上で寝ればいいじゃない!」
ついにシェーラが折れた。
くくく。これぞ悪徳セールスマン御用達のテクニック「ドアインザフェイス」だ。
大きな頼みごとをして断られた後に小さな頼みごとをすると、相手は罪悪感から断りにくくなるもんなんだよ。
現代じゃよく知られた知識だが、こっちの世界じゃ心理学なんてそうそう知られてないだろう。
現代心理学の知識を持つ俺にかなうはずもなかったな。
「で、でも、同じベッドの上に寝るだけだからね! ヘンなことしようとしたら次は上級魔法をぶっ放すからね!」
そんなもん撃ったら俺どころか、この宿屋がなくなっちまうよ。
シェーラがベッドの端に移動してスペースを作ってくれる。
そのままシェーラは背中を向けると、ぎゅっと体を縮こまらせるように丸まった。
さっそく俺も空いたスペースにお邪魔させてもらう。その際、丸くなった背中に手が当たると、ビクン! と震えた。
「さ、さ、さわらないって約束でしょ!」
「狭いし暗いんだからしかたないだろ」
「そうかも、しれないけど……」
さすがにそれ以上何もいわなくなった。
実際、この狭いベッドの上でまったく触れずに横になるのは無理がある。
美しい緋色の髪がベッドの上に広がり、さらさらとした手触りを残す。
さすがにシャンプーの香りはしないが、それでもなにか甘い香りが漂ってきた。
きっとこれが「女の子のにおい」ってやつなんだろう。
もちろん俺はそんなものかいだ経験なんてないし、小説内でも描写した記憶はない。
それでもシェーラは確かに甘い香りをただよわせ、首もとまで真っ赤になった顔を必死に隠している。
背中ごしにふれる体は熱かった。
それは恥ずかしさのためなのか、それとも火の魔法を操るためなのか。
理由はわからないけど、手のひらに伝わる熱とともに、鼓動も響いていた。
「シェーラも、生きてるんだな」
「なに当たり前のこといってるのよ」
まだ固さが残っているものの、呆れた声が返ってくる。
そうだよな。当たり前だよな。
こうして目の前にいて、ふれることも話すこともできるんだから。
でも今このときまで俺はわかっていなかった。
シェーラをどこか「俺が作ったキャラクター」みたいに思っていた。
キャラクターは細部に宿るという。
小説の書き方をかじったことのある奴なら一度くらいは「キャラクターは小説に出てこないところでも生きている」みたいな文章を読んだことがあるだろう。
その見えない部分が見えてくるときこそ「キャラクターが生きている」ということなのだと。
その通りだった。
俺はなにもわかっていなかった。
だからこんな「実験」をしようだなんて思ってしまったんだ。
シェーラは生きている。
命を持ち、鼓動を鳴らし、感情と共にこの世界で暮らしている。
そのことに気づいてしまった。
「ごめん」
思わず小さなつぶやきがもれた。
「ごめんって、なにがよ……?」
疑問に思った声が聞き返してくるが、俺は答えられなかった。
理由もわからない涙があふれてくる。
あたたかな背中に額を押し当て、声を押し殺して涙を流した。
「ちょ、ちょっと、どうしたのよ……っ」
あわてた声が響くが、俺はなにもいえなかった。
シェーラは生きている。
ダインも、受付のお姉さんも、この世界にいるすべての人はみんな生きている。
「みんな生きている……生きているってのに、俺は……っ」
声が震え、手も震え、固く閉じているはずのまぶたから幾筋も涙が流れる。
この世界は人間と魔族が争っている。
それは俺がこの世界を、そういうものとして書いたからだ。
今この瞬間にも両世界の境界線では人間軍と魔族軍がにらみ合っているんだろう。
今はまだ衝突はない。
二つの世界の境界線には結界が張られ、お互い侵攻できないようになっているからだ。
それがこの世界にかりそめの平和を与えていた。
だけど今から半年後、結界は破壊される。
壁を失った両軍は真正面から正面衝突することになる。
その戦いは熾烈を極めるものになった。
といっても俺に大軍同士の戦争を描写する力はない。
それでも確かに俺は書いたんだ。
なにも考えずに。
たった一行だけ。
戦争のすごさを伝えようとして大げさに。
──その戦いで百万人が死んだ、と。
背中からシェーラに抱きついた。
「ひゃあぁっ! ちょっと!?」
「頼む、少しでいい、このままでいさせてくれ……」
体が震えている。
百万?
百万人だと?
それっていったい何人なんだ?
いったいどれだけの人生が、俺のたったの一行で消えてしまったのだろう。
それだけじゃない。
この先もシェーラには苦難の道が待ちかまえている。
何度も傷つき、何度も仲間を失い、助けられなかったたくさんの命を目の当たりにする。
だってそのほうが盛り上がるから。
仲間が命を捨てて主人公を守れば、そのぶんだけ読んでくれるみんなも喜んでくれると思っていた。
もしも結末が変えられないのなら、シェーラは同じ運命を辿るだろう。
それはつまり、俺が──
震える俺の体を、あたたかな腕が抱きしめた。
驚いて顔を上げる。
いつのまにかシェーラの顔が目の前にあった。
鼻と鼻が触れそうなほどの距離なのに、恥ずかしがることも怒ることもなく、静かに俺を見つめていた。
言葉もなく、黙ったまま俺を抱きしめてくれている。
このときほど俺の描写力のなさを悔やんだことはない。
こんなにもシェーラの顔が美しいのに。
こんなにも暗闇の中で輝いているのに。
こんなにも俺の心を溶かしてくれるのに。
なのに。
俺はそれを「優しくほほえんでいた」としか表現できないなんて。
シェーラが抱きしめてくれる。
やわらかなあたたかさに包まれながら、静かな声が聞こえた。
大丈夫。あたしがいるから。
その言葉を聞いた俺は、声を上げて泣きだした。