第19章 永遠(とわ)の祈り(6)
「俺には男兄弟がほかにふたりいる。優しくて誠実な兄貴と、快活で思いやりのある弟と。どっちも、これ以上ないってくらいによくできた優秀な人間だ。俺の、自慢の兄弟だった。当然、俺は兄貴が家を継いで弟がその補佐をする、それがごく順当なことだと考えてた。だが、親父や先代――つまり前当主だった祖父さんの考えは違ってた。ふたりが次期当主にと考えてたのは、ほかでもねえ、この俺だったんだ。笑っちまうだろ? とても俺なんかに務まるわけがねえ。俺は、どうしても嫌だと祖父さんたちに訴えた。ふたりの勝手な言い分に納得ができないと抗議し、思いつくかぎりの罵言を並べ立てて、心ない祖父さんたちの仕打ちを非難してやった。だが、俺がどんなに喰ってかかろうと、ふたりはまるでとりあおうとはしなかった。あまり我意をとおしてはいけない。このことでいちばんつらい思いをしただろう兄貴にさえ、そう窘められたよ」
床に視線を落とし、ぽつりぽつりと語っていた男は、そこで青年を見て苦笑した。
「俺は、妾の子なんだ」
打ち明けられた事実に、青年は得心の色を滲ませた。
「売れない女優だった俺のおふくろは、俺が5つのころに死んじまった。その生い立ちもなにもかも、すべての幸運から見放されたような哀れな女だった。それで俺は、本家に引き取られて正妻の許で育てられることになったんだ。正妻、つまり俺の育ての母親は、じつにできた女で、夫の愛人の子である俺を、実の子供と分け隔てなく、おなじように愛情をもって育ててくれた。俺は、彼女を喜ばせたい一心で、ガキのころからひたすらいい子であろうと努力しつづけてきた。まさかこんなかたちで、裏目に出ようなぞ予想だにせずに。
家督継承の話が出たとき、内心、彼女は裏切られた思いがしたに違いない。だが、それでもそんなことは表面、おくびにも出さず、彼女は俺が次期当主候補に抜擢されたことを喜んでくれた。兄貴も弟も、そろって祝福してくれた。俺は、いたたまれない思いでいっぱいだった。俺の存在が、大切に思ってる家族を傷つける。その事実が苦しくて、どうしていいかわからなかったんだ。
可笑しいだろうが、こんな俺にだって弱みのひとつぐらいある。冗談抜きで、当時は胃に穴が開くほど悩み倒した。絶えず生死の瀬戸際を彷徨ってたあのころのおまえさんに比べりゃ、間抜けで他愛のねえ話かもしれねえ。だが、それでも俺には、心底切実な問題だったんだ。『事故』の話を俺が耳にしたのは、そんなさなかのことだった」
真摯な眼差しが男をまっすぐにとらえている。相槌ひとつ返ってくることはなかったが、それでも青年が、男の話に聞き入っていることは瞭らかであった。
「6年ぶりにおまえと再会できたとき、俺は本当に嬉しかった。おまえの存在があって、俺ははじめて『家』を捨てる勇気と引き換えに、いまの自由を手に入れることが叶った。そのことをどんなふうに伝えようか。とにかくそんな喜びでいっぱいだった。おまえもまた自由を得て、充たされた日々を過ごしていると、俺は信じて疑いもしなかった。身勝手は充分承知している。俺には俺の6年があったように、おまえにも違った重みの歳月が流れたんだろう。だが、願いつづけた邂逅を果たしたその瞬間に、俺がどれほどの幻滅を味わったか、おまえにわかるか?」
勁い瞳で見据えられ、青年は目を伏せた。勝手すぎる相手の言い分を、けれども彼は、怒る気になれなかった。
時折、ひどく苛立った調子で執拗に自分を挑発してきた煩わしい存在。その、怒りを含んだ視線の意味が、そこにこめられていた。
「おまえは幸福でもなけりゃ、自由ですらなかった。過去から解放されることなく、いっそ昔よりも濃い絶望に彩られて、いまにも窒息しそうになっているように俺には見えた。
おまえにしつこくつきまとうようになってまもないころ、いつも影のようにおまえに付き従ってた例の兄ちゃんに、えらい剣幕で恫喝されたことがある。これ以上ちょっかいを出すようなら、こっちにも考えがあるとな。だから俺は言ってやった。なにもかも、おまえが悪いと。最初、奴はひどく不本意そうな様子で余計なお世話だという顔をしたが、自分なりに思いあたるふしもいろいろとあったんだろう。ひと言も言い返すことなく、苦い表情を浮かべて引き下がっていった。自分たちの関係が、不健康で非建設的だと、奴なりに気づいていたんだ。それでもなお、おまえのことが心配で、奴はおまえから離れることができなかった」
「それは違います。私が──私のほうこそが彼の自由を奪って、縛りつけていたんです」
「逆だな」
青年の言葉を、男は言下に否定した。
「俺が見るかぎり、束縛されていたのはおまえのほうだ。奴の存在そのものが、おまえを過去から解き放つ術を奪っていた。だが、仮におまえの言い分のほうが正しかったとしても、奴はそれで、充分に満足だったはずだ。そしておまえは、不幸だった」
男の言葉に、形のいい口唇がわずかに戦慄いた。
永い沈黙を経て、苦悩の末に吐き出された真実。
「──それでも私には、彼が必要だったんです……」
苦しみの果ての──告白。それは、たしかに偽りのない想いだったのだろう。
「恋をしろよ、エリス」
やがて、男は低く、慈しむように言った。
「ごつくて可愛げのない男に護られるんじゃなしに、小鳥みてえに可愛い女と恋をして、護ってやる立場になれ。そうして惚れた女と結婚して家庭を築いて、ガキをボロボロこさえてよ、いつのまにか丸太みてえに太っちまった口うるせえ女房と小生意気なクソガキどものために馬車馬のように働くんだ。そのうち、一人前になった子供や孫たちからも厄介者扱いされる偏屈な頑固ジジイになって、老いた女房や子供たちの何人かが死んだあともしぶとく生き残って周りをうんざりさせながら長生きする。そういう人生を送れよ」
「言っていることがメチャクチャですよ、軍曹」
「いんだよ、メチャクチャで。そういうのが男のロマンだろ」
男は、声をたてずに笑った。
「危なっかしくって見ちゃいられねえ。奴がおまえから目を離せなかった理由は、俺にもよくわかる。可愛い可愛い箱入りの妹を見守る兄貴みてえな気分にさせられる」
「その『妹』が、丸太のような女と次々に子供を作って、嫌われ者の偏屈な老人になるんですか?」
けぶるような眼差しの中に、かすかな諧謔を含んで青年は口許に微笑を湛えた。男もまた、愉しげにそれに応えた。
「そうだよ、最高にシャレた人生だろ?」
小さな子供にするように、男は手を伸ばして艶やかなプラチナ・ブロンドをくしゃっと掻き混ぜた。青年は、おとなしくその行為を受け容れた。
「──あなたの、ファースト・ネームを教えてください」
ひそやかな問いかけに、男は短く応えた。
「ラルフ」
翌未明、ウィンストン・グレンフォードの突然の悲報が全世界を駆けめぐる。
フィリス・マリンの追捕の手が、不自然なほどにあっさりと引き下がった理由は、これによりあきらかとなった。
享年84歳。
死因は、心不全によるものと診断された。
世界に君臨したひとりの帝王の死は、ひとつの時代の幕が下りたことを、無言のうちに物語っていた。




