第19章 永遠(とわ)の祈り(5)
部屋に戻ったのは、それからいくばくの後か。
灯りを点けることなく、闇に包まれた部屋へ入室したシヴァは、直後、
「別れは、済んだのか?」
すぐ背後から声をかけられ、驚きに心臓を鷲掴まれて振り返った。
鋭い視線を向けたその先に、侵入者の影が揺らめいている。暗がりの中、その表情を見分けたはずもないだろうに、相手はおどけたように両手を挙げた。
「おいおい、そうおっかねえ顔すんなよ。なにもしやしねえって」
言いながら、片手をわきへ伸ばすと、男は慣れた仕種で部屋の灯りのスイッチを入れた。
「おまえは……っ!」
一瞬の後、明るみに現れた眼前の顔に、シヴァは思わず声をあげた。
「すまねえな。ちょいとおまえさんに話があったんで、勝手に待たせてもらったぜ」
悪びれた様子もなく、ドアのわきに佇んでいた元公安特殊部隊第13部隊長はニヤリと笑った。
「私には話すことなどなにもない。さっさとこの部屋から出ていけ」
「そうつれなくすんなよ。そんな怒ってばっかじゃ、せっかくの綺麗な貌が台なしだぜ」
刹那、青年の白晢の頬に朱がのぼった。その反応に、男が口角をわずかに引き上げた。嗤ったようにも憐れんだようにも見える、微妙な色合いの表情だった。
漂った険悪な空気を追い払うかのごとく、やがて男は首を竦めて言った。
「どうやら禁句だったらしいな。貌のことを言われるのは、そんなに嫌か?」
「……この貌は、嫌いです」
低く、青年はそれに応えた。
「百人が百人、アホ面さげて見惚れるような、欠点ひとつねえ最高級の美貌じゃねえか。どこが不満だ? もっと線の太い、厳つい貌がお好みか?」
「そんなんじゃ……」
「おまえは、あの女には似ても似つかねえよ」
首を振りかけたシヴァの顔が、男のセリフに凍りついた。信じられぬものでも目にしたかのような青年の表情に、男は苦笑を浮かべて軽く頭を振った。
「俺が知ってることに驚いたか? ああ、そうだ。少しばかりだが、俺はたしかにおまえたち母子のことを知っている。だからあえて言わせてもらうが、おまえは、あの女とは似ても似つかねえ出来すぎの息子だよ。貌の造作はたしかによく似てるかもしれねえ。だが、トータルで見りゃ、あの女はおまえさんにゃ数段、いや、それ以上に遙かに及びもつかねえ。もっと自分に自信を持つんだな。あんな女の亡霊にいつまでも取り憑かれて、自由を奪われてるなんざ、利かん気のおまえさんらしくねえじゃねえか。いいかげん、あんな女のこたキレイさっぱり忘れて、鬱陶しい過去も全部振り捨てちまえよ。
そう言いたくて待ってた──いや、おまえにずっとつきまとってたんだ、エリス」
瞠かれたプルシャン・ブルーの瞳が、穏やかに自分を瞶める男をとらえて放さない。幾度も喘いだあとで、シヴァは、ようやく慄える声を口唇から押し出した。
「……あなたは、だれなんです?」
その問いかけを可笑しそうに聞いただけで、男は答えようとはしなかった。
「質問に答えてください。あなたは、だれなんですか?」
「そんなことはたいした問題じゃねえ。大事なのは俺が『だれか』じゃなく、俺が『なにを言ったか』、だ。第一おまえはもう、俺がだれか、ちゃんと知ってるはずだ。カシム・ザイアッド。ただのチンピラまがいの軍人で、それ以上でもそれ以下でもねえ。だろ?」
言いながら近づいて、男は怪我をしている相手の足を気遣うように、そっとベッドへ腰掛けさせた。そして、自分はすぐわきのナイトテーブルに体重を預けるように立つと、静かに自分を瞶める秀麗な貌を見下ろした。
「おまえに感謝してるよ、エリス。ずっと礼が言いたかった。おまえは、俺の唯一の救いの神だ。おまえがいなきゃ、俺はいまごろこんなとこで、こんなふうに自由に生きてない。あのまま生殺しの状態で、自分が壊れるまで本音を押し殺しつづけたか、もしくはそのまえに、すべてをメチャクチャにぶち壊して破滅の道を転がり堕ちてたか……。
もっとも、そんなこたあ、おまえには少しも興味がねえだろうし、俺がなに言ってんのかも、さっぱりわかんねえだろうな。おそらく、俺の一方的な感謝にも、まったく身におぼえのねえことだと思ってるはずだ」
男は愉しげに笑った。
「おまえがどう思うかはともかく、これでも俺は、そこそこの家の出でよ。グレンフォードの一族と俺の家は、わりと旧くから親交があったらしい。
憶えちゃいまいが、俺がおまえとはじめて会ったのは、もうかれこれ、6年以上も昔のことになる。グレンフォードの創立50周年記念パーティーでの席でのことだった」
男の言葉に耳を傾けていた青年の表情に、わずかな変化が兆した。男もまた、穏やかな眼差しで頷きかけた。
「おまえはめったに公の場に姿を現さなかったし、同様に俺も、殆どの場合、そういう席に顔を出すことはなかった。おまえはともかく、俺の場合、どうにも苦手でしかたなかったんだな。肚ん中でいろんな思惑やら打算やらを蠢かせながら、表面なごやかに、美辞麗句並べ立てて見え透いた世辞を言い合ったり、中身のねえ型どおりの社交辞令でうわべ取り繕ったり。全然向いてねえんだよ。
けど、あそこまで盛大な式典に正式に招待されたとあっちゃ、さすがに出席せざるを得なくてよ。逃げきれずにイヤイヤ足を運んだその会場に、おまえもいたってわけだ」
母親に伴われ、人形のように生気に乏しい顔で、次々に挨拶に現れる招待客を相手に、儀礼的な答礼を返していた少年。
「正直、俺はそう長くは持つまいと思っておまえを見てた。もちろん、おまえの生命力が、だ。そう遠くない未来に、母親に喰い潰されるか、もしくはおまえ自身が耐えきれずに押し潰されて自滅しちまうか。いずれにせよ、異常なまでに強力な母親の支配下から脱しきれずに、砕け散るなり自我が崩壊するなりして死んじまうだろうと俺は確信してた。それほどに、あのころのおまえは危うい脆さを抱えてた。だが、俺の予想は、それからいくらもしないうちに覆された。それも、至極いい意味で」
「…………」
「事故の噂を耳にしたとき、俺にはなにが起こったのか、すぐにわかった。理屈じゃなしに、もっと深い部分で感じとることができたんだ。おまえは自力で、あの女の怪物じみた支配下から逃れた。俺には、それがどうしようもなく嬉しかった。それと同時に、厭というほど思い知らされたよ。自分自身の弱さ、臆病さ、狡さ……」
「──私の犯した罪は、そんなふうに理想化して讃えられるような英雄譚ではありません」
「いいんだよ、それでも。おまえがなにをしたか、俺にはちゃんとわかってる。それでも俺は、おまえに救われたんだ」
「なぜ……」
男はふっと憫笑を浮かべた。それは、自分自身に向けられた感情のようであった。




