第18章 敵襲(4)
「待って!」
強い口調で背後から呼び止められ、廊下を歩いていたルシファーとデリンジャーは、足を止めて振り返った。
激しい怒りを孕んだトパーズの瞳が、挑むようにこちらを見据えている。ルシファーは、謐かにそれを受け止めた。
「なんだ?」
「怪しい人間なら、あたし、あのとき見たわよ。この目でしっかり」
「それで?」
「あなたがそれを望むなら、教えてもいいわ」
「おまえが言いたくなければ、無理に言わなくてもいい」
自分を見つめる瞳と同様、平静そのものの返答が、女の激情にさらなる怒りを注いだ。
「どうして!? あたしを信じてないの? あたしの言うことが嘘だって、はじめから決めつけてるんでしょう!?」
「クローディア、そうじゃない」
「違わないわ! あなたはあたしのことなんか、最初っからこれっぽっちも信じてなかったのよ。それくらい、ちゃんとわかってるわ。そうよ、あのとき病室にいたのはあたしよ。彼が攫われたとき、あたし、あそこにいたわ。レオは庇ってくれたけど、彼女だってほんとは知ってるわ! どう? これで満足? あたしは裏切り者よ。いえ、そうじゃない。あなたを利用する目的でわざと近づいたの。はじめっからあなたなんか好きじゃなかった。あたしはスパイよ。あなたを通じて探り出した情報をすべて流してるわ。あなただってそんなこと、とっくに気がついてるくせに。裏切り者を庇う必要なんかないなんてみんなのまえで言っておきながら、どうして黙ってるの? どうしてあたしを責めないのよ! ジャスパーのときみたいに、あたしを殺せばいいでしょう? それともあたしには、その程度の価値すらもないっていうの!?」
「クローディア」
「あなたなんて大っ嫌い! なにもかも見透かしたような、悟りきった顔して、だれも信じない孤絶した世界で生きてるのよ。あなたを利用してるつもりで、本当はあたしのほうが利用されてたんだわ。黙ってるのは、まだあたしを泳がせておく必要があるから? その程度の計算、あなたには朝飯前ですものね。女の浅知恵に、自分が陥れられるはずがないって見くびってるんでしょう。お生憎だけど、あたしはそんな簡単な女じゃないわ。それでもかまわないなら、そうやって寛大なふりして、いつまでも偽善者ぶってればいいのよっ!」
言いきったところで、自分に向かって伸びてきた手に、女はビクッと身を竦ませた。が、形のいい長い指先は、女の頬と髪をそっと撫でて離れていった。
「ルシイッ!」
女は愛人を引き留めるように名を呼んだ。しかしルシファーは、その声に振り向くことなく無言で去っていった。
その場に立ち尽くす女の瞳が、ひどく傷ついた色を浮かべていつまでもその背を見送る。
「……バカね」
そのさまを静観していた金髪の黒人が、呟くように言った。前方を凝視していた女の瞳に、みるみる涙が盛り上がった。それがやがて体積を増して頬に零れ落ちたとき、女の最後のプライドを守るかのように、デリンジャーはみずからの胸の中にその躰を抱き寄せた。体躯に見合った大きな掌が、女の頭に置かれた。
「自分で自分を傷つけるようなこと、わざわざ言わなくてもいいでしょうに」
優しく響く低い声に、女は嗚咽を漏らした。
「ボスは優しいものね。それで、いたたまれなくなっちゃったんでしょう? あんたはね、悪女に徹しきれない女なんだから、いいかげん悪ぶるのはやめて、素直になんなさい」
「余計なお世話よ、バカ! ルシイなんて嫌いっ。6つも年下のくせに、いつだって大人ぶって澄ましてるんだから」
「大人ぶってるんじゃなくて、あの人はもう大人なの。しかたないでしょう、他人よりも早く精神を成長させざるを得ない環境の中で生きてきた人なんだから」
「でも、そのせいで普通の人間よりもずっと孤独だわ。完璧すぎて、だれにも頼れないのよ。悲しみも苦しみも、全部独りで抱えて生きてるわ。どんなにつらくても弱音ひとつ吐かないで、いつだってなんでもないって顔して、なにもかも自分だけで背負いこんで歯を喰いしばって耐えてるのよ。あんな大怪我しても、声ひとつあげることもしないで。
まだ、たった18だわ。そんなふうにしか生きられないんだとしたら、苦しすぎるじゃない」
「あんたがそんなふうに思ってあげてるだけでも充分よ。彼は大丈夫、強い人間だもの」
女はしばらく、デリンジャーの胸に顔を伏せてしゃくりあげていた。
「──あたしがスパイだっていうの、あれ、本当よ」
昂ぶった感情が鎮まって、しばらく経ったころ、女は低く言った。
「ジャスパーを唆して、食事に薬を混ぜたのはあたしだわ。目的は、シヴァをグループの中で孤立させること。もっとも、失敗に終わったのはさっきのひと幕で証明済みだけど」
「ただのバルビタール、ただし、かなり強力な催眠作用を引き起こす薬だったわね」
「……やっぱり、わかってたのね」
「ジャスパーは最後まで必死になってだれかを庇ってたでしょう。あの子が命懸けで護ろうとした人間ともなれば、自然に選択肢が絞られてくるわ。調べるまでもなく、わかることよ。ビッグ・サムか、あんたか」
「最初は、とても信じられなかった。あの子があそこまであたしを庇うなんて、思ってもなかったから。──ばかな子。こんな女のために自分の命張るなんて……。そんな価値、これっぽっちもないのに」
「でも、あの子はあんたが好きだったのよ」
「あたしは、鬱陶しくて、あんな子ちっとも好きじゃなかったわ。いつもわざと冷たくして、優しくなんてしてあげなかった。女神様みたいに崇拝されるなんて、うんざりだったもの。……ばかみたい。あんなにムキになって庇うことなんかなかったのに」
女は、デリンジャーの胸に躰を預けたまま目を閉じた。
「あたし、あの子を利用したの。あの子があたしに憧れてるって知ってて、わざとその気持ちにつけこんだ。はじめはそれでも嫌がってた。大切な友達にそんなことできないって。だから脅してやったのよ。ジャスパーはね、あの記者さんの通信機をこっそりいじって、どこかに繋げちゃったことがあるわ。だから、それを盾に脅して、無理やり承諾させたの」
「……それ、ほんとなの?」
「嘘じゃないわ。相手はたぶん、あの記者さんの奥さん。それであの子は、そのことにひどく罪悪感を持ってた。その弱みにつけこんだ結果があれよ」
女は目を閉じたまま、自嘲的な笑みを口許に浮かべた。デリンジャーはそれには触れず、別のことを口にした。
「女がたったひとりで躰張って敵地に潜りこむって、どんな気持ちなのかしらね」
返事を期待するでもなく呟いて、デリンジャーは女の背中を軽く叩いた。
「ボスはあんたに優しいでしょう? それはね、命懸けでひとりの男を愛してるあんたの気持ちを、大切に思ってるからだわ」
「……でも、それはルシイじゃないのよ」
「そりゃそうでしょうよ。ボスだってそんなこと、先刻承知よ。想いが自分に向いてるかどうかもわからないほど鈍い人じゃないもの。そうでしょう? ボスがなにも訊かないのは、あの人なりのあんたへの思いやりだわ。そういうとこ、冷たく見えて、案外情に脆いのよ」
顔を上げ、デリンジャーを見上げた女の両眼に、ふたたび涙が溢れた。
「もうっ、ばかみたい! あんたたちみんな、そろいもそろって大馬鹿だわ。大マヌケのすっとこどっこいのこんこんちきよっ。みんな大っ嫌い!」
言って、力まかせにドンと、厚みのあるひろい胸を叩いた。デリンジャーははいはいと笑ってそれを受け止める。女は、その躰を押しのけてデリンジャーから離れると、乱暴にぐいっと涙を拭った。
「──通信機のこと、いまさらかもしれないけど、デリンジャー、あんたからルシイに伝えて」
「いいわ、そうする。あの人のことだから、たぶんとっくに承知してるでしょうけど」
承諾して、デリンジャーは女を促した。
「いらっしゃい、あんたも治療してあげるわ。新見ちゃん護ろうとして頑張ったときの名誉の負傷、手当てがまだでしょう」
床に視線を落としていた女は、口唇を噛みしめて無言で頷いた。




