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地上に眠る蒼穹~Celeste blue~  作者: ZAKI
第1部 スラム編
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第17章 救命措置(3)

 幾度となく危篤に陥り、死線を彷徨さまよった翼がようやく昏睡状態を脱したのは、それから5日後のことだった。その間、ほぼ一睡もせずにただひとり、全力で治療にあたっていた元天才医学博士は、患者が完全に危機的状況を脱したことを確認するなり、その場で卒倒して深い眠りに落ちたまま、数時間、死んだようにピクリとも動かなかった。


 意識が戻ったとき、デリンジャーは相変わらず堅い床の上に倒れているにもかかわらず、自分がやわらかい枕をしていることに気がついて一瞬ギョッとした。


「あら、もう目が覚めた?」


 真上から降ってきた声に、さらに驚いて身を起こそうとした彼は、やんわりした仕種しぐさで頭を押さえられて緊張をゆるめた。


「疲れてるんだから、もうしばらくこうしてらっしゃいよ」


 女はデリンジャーの頭を優しく撫でながら、躰にかけておいたブランケットを肩まで引き上げた。デリンジャーは、おとなしく女の膝に頭を預けたまま、ふたたび目を閉じた。


「どのくらい寝てた?」

「さあ。たぶん、2、3時間てとこじゃない。様子見に来たら、あんたまで倒れてるんだもの、びっくりしたわよ」


 言って、女はかすかに笑った。


くまつくって、不精髭だらけで、ひどい顔……」

「まったくよ。あたしじゃなかったら、とっくに過労死してるとこだわ」

「患者ふたりも、いまごろ暢気のんきに寝てられないとこだったわね」

「我ながら、自分の才能が怖いわ」


 うそぶいて、デリンジャーは目を閉じたまま笑った。


「ね、あなた、ほんとはすごく偉いお医者さんなんでしょ? どうしてこんなとこにいるの?」


 女の問いに、デリンジャーはすぐには答えなかった。答えたくない質問だったのか、もしくはふたたび寝入ってしまったのか。女が諦めかけたとき、閉じていた口が、ゆっくりと開いた。

 それは、囁くような独白だった。




「──あたしの生まれ育った家は、決して裕福な家庭じゃなかったわ。平均より少し下回るぐらいの水準の、ごく平凡な、小さな雑貨屋の長男。ほんとなら家業継いで、いまごろ店番のひとつもしてなきゃいけないんでしょうけど、あたし、見てくれがこんなでしょう? 小さなころからずっと、なんとなく肩身が狭くて、家に居づらかった」


 全然似てないのよ、両親のどっちにも。そう言って、金髪の黒人は目を瞑ったまま口許だけで声もなく笑った。


「母親はまあ大柄なほうだとは思うけど、もっと恰幅がよくて派手な目鼻立ちしてるし、父親に至ってはもうまるっきり。小柄で痩せてて貌立かおだちも地味で。あたしと並んでも、ちっとも親子に見えないの。あたしと両親に共通してるのは、この肌の色だけ。ごく普通の黒人同士の夫婦で、どっちの家系にも白人の血は混じってないわ。もちろんあたしは間違いなくふたりの子供で、彼らのDNAをちゃんと受け継いでる。きちんと調べてあるのよ。この金髪は、ただの突然変異。


 父親は、このことについて、ただのひと言もなにも言わなかったし、とくに気にしてるふうでもなかった。でも母親は、親戚や近所の手前、あたしを生んだことで、あたし以上に肩身の狭い思いをしてたみたい。たくさん勉強して偉い人になりなさいって、口を開けば彼女はそれしか言わなかった。子供のころは、勉強しかさせてもらえなかったわ。貧乏なうえに、下にはまだ6人も弟妹がいたのに、月の収入のほとんどを母親はあたしの学費に充ててた。半分、意地になってたんでしょうね。あたしもそうよ。この髪が、ずっとコンプレックスだった。金髪が嫌で、自分で黒く染めてみたこともあったわ。父親は、仕事の合間を縫って本を読むのが唯一の楽しみっていう、寡黙でおとなしい人だった。口うるさく、ああしろこうしろって言われたこともなければ、怒鳴られたりひっぱたかれたりした記憶もないわ。でも、その父が、あたしが髪を染めることだけは絶対に許してくれなかった。おまえに、自分を恥じるべきどんな欠点がある。本当に恥ずべきことは、見かけばかりにこだわって、ありのままの自分を受け容れられない弱い心だ。そう言って、ものすごく怒られたわ。父に叱られたのは、あとにも先にもその1回だけ。小さくて存在感の薄い父親が、そのときはとても大きく見えた。


 そうしてあたしは、家族に負担をかけながら進学を重ねて、最終的には大学の研究室にまで籍を置くようになったの。気がついたら、博士ドクターと呼ばれる身分にまでなってた。遺伝子工学を専攻して、その道の権威と呼ばれるようになったのも、結局は幼いころから引きずってきたコンプレックスが根底にあればこそ。世間の人が称えてくれたような、そんな立派な理念に基づく研究なんかじゃなかった。


 あたしが医学博士として成功をおさめ、名声を得るほどに母親は有頂天になった。苦しかった生活も、ずっと楽になったわ。でも、父親だけはあまり嬉しそうじゃなかった。偉くなくてもいい、自分に誇りを持って生きていける人生を歩め。言葉少なに、そうぽつりと言ったことがあった。医学界の寵児と持てはやされて、あたしも多少、いい気になってたのかもしれないわね。そのときは、父の言った言葉の意味がよくわからなかった。こんなに誇らしくて満足なことはないのに、なぜ、って。でも、ある出来事をきっかけに、あたしの自信は粉々に打ち砕かれてしまったの。



 ある研究施設の視察に出向いたとき、そこで行われていた実験の無惨な犠牲者たちの姿を目の当たりにしたのよ。実験対象は人間。といっても、それらはすべて、細胞レベルでの段階の話だったから、人体実験と見做みなされてはいなかったのだけど。

 でも、ショックだったわ。自分が得意になって唱えた学説と研究成果は、末端でこんなかたちになって、さらに研究と実験が繰り返されていたのだとはじめて知ったの。もちろん研究者たちだって遊びでそんなことしてたわけじゃないわ。むしろ人類の未来のために、よかれと思って真剣に作業に取り組んでいたのよ。でもあたしは、なんだか虚しくなっちゃったの。自分がいままでしてきたことって、いったいなんだったのかしらって。父の言ったことが、そのときになって、ようやくわかった気がしたわ。そしたらなんだか、なにもかもが嫌になっちゃって、それで全部放り出して逃げてきちゃったの。それでいまのあたしが、こうしてここにいるわけ」




 いったん口を閉じてから、デリンジャーは苦笑した。「ロクでもない人生だわね、こうして話してみると」、と。

 クローディアは、デリンジャーの頭髪にそっと触れた。


「でも、そのおかげでルシイは助かったわ。あの記者さんも」

「そうね。そう考えると、碌でもない人生も、無駄じゃなかったのかもしれないわね」

「ガラにもなく感動しちゃったから言うけど、結構見直したわ」

「よしてよ、気味悪いじゃないの」


 デリンジャーは目を開けて女を見上げると、くすぐったそうに笑った。


「いまだけ、もうしばらく膝を貸してあげるわ。ゆっくり眠っていいわよ」


 女の言葉に、デリンジャーは安心したようにふたたび瞳を閉じた。



「あなたの金髪、あたし、嫌いじゃないわよ……」



 規則正しい寝息が聞こえてくるころ、女は褐色の色合いが濃く出た金髪を撫でながら、ひっそりと囁いた。

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