第17章 救命措置(2)
騒ぎの現場へ駆けつけたふたりは、視界に飛びこんできたそのあまりの光景に、一瞬言葉を失って息を呑んだ。
「ちょっ…と、なに、これ……」
予想以上に惨憺たるありさまのルシファーが、意識を失い、死人のようにぐったりとした翼を抱きかかえて立っていた。ともに血だらけのうえ、全身ずぶ濡れになったことが一見してわかる姿だった。
遠巻きにする少年たちをいっさい寄せつけず、鬼神のような形相で必死に緊張の糸を張りつめていたルシファーは、駆けつけてきたデリンジャーの顔を見るなり、ほっと安堵の色を浮かべた。
「デル、頼む、こいつを──翼を早く診てやってくれ」
言うなり倒れかけたその躰を、デリンジャーは駆け寄って翼ごと抱きとめた。途端に、かすかな潮の香りがその鼻孔を刺激した。
どちらも、かなり危険な状態であることは、ひと目見れば充分であった。緊張した面持ちで顔を上げると、様子を見守る少年たちの中に、いつのまにか狼とザイアッドの姿があった。デリンジャーの視線を受け止めたザイアッドは、すぐさま少年たちを押しのけて彼らの許へやってきた。
「ふたりとも、あたしの部屋へ運ぶわ。手伝ってちょうだい」
口早に告げると、男はルシファーの手から翼を抱きとって狼に頷きかけた。意図を察した狼が、翼を受け取ろうと腕を伸ばす。その傍らからレオが歩み出て、相棒の搬送役を引き受けた。ザイアッドは、そのままルシファーの躰を担ぎ上げると、デリンジャーに従った。
「ボスッ!」
騒擾に気づいて駆けつけてきたシヴァが、運ばれていくルシファーの姿に色を失って表情を硬張らせた。その後ろで、やはりクローディアが衝撃の色を浮かべ、両手で口許を押さえた。
「シーツの消毒処理はしてあるから、新見ちゃんは奥のベッドに寝かせて。ボスはこっちの長椅子へ」
白衣を手早く身につけ、手を洗い、戸棚から用具を取り出しながら、デリンジャーはてきぱきと指示を出す。そして、廊下から中の様子を窺う少年たちの視線を遮るようにドアを閉め、鍵をかけた。
「あなたたちも、そこの洗剤と消毒液でよく手を洗って。それが済んだら狼、この鋏で新見ちゃんの服を裂いて、そこの布で傷口以外の部分を拭いておいて」
「わかった」
緊張した面持ちで頷いて、狼はすぐに作業にとりかかった。デリンジャーはおなじ処置を施すため、長椅子に寝かされているルシファーに近づいた。
「デル、俺はいいから、翼を先に診てやってくれ」
意外にはっきりした口調で拒絶し、ルシファーはデリンジャーの手を押しのけた。
「そうね、新見ちゃんの治療もあとでちゃんとするわ。でも、そのまえにあなたの傷の具合も診ておかなきゃ──」
「俺はいいと言ってるっ! こんなのはたいした傷じゃねえっ。いいから早く翼を診てやれっ!!」
「いやよっ!!」
怒声を放ったルシファーに向かって、デリンジャーも負けじと怒鳴り返した。
「あの子なんかより、あたしたちにはボスのほうが大事よっ! あなたが言うことを聞かないというのなら、あたしはあの子の治療をしないわっ!!」
言下に命令を峻拒されて、いくぶん理性が戻ったのか、ルシファーは息をつくと全身から力を抜いた。貧血がひどく、その頬はすでに蒼白を通り越しつつあった。
「……わかった、言うとおりにする。だから、頼むから翼の治療を優先してやってくれ。あいつのほうが受けたダメージがでかい」
「いいわ。でも、それにはまず、あなたの怪我の状態を先に把握しておかなきゃ」
穏やかに諭されて、ルシファーは今度こそデリンジャーに主導権を任せた。
「なにがあったの?」
傷に触れぬよう慎重に手を動かしながら、デリンジャーはふたりに起こったことを確認した。かすかにふたりの躰から漂う、潮の香りが気にかかっていた。
ゲートの滅菌処理を受けてなお抜けることのない残り香。そんなことが、あるものだろうか……。
ルシファーは、気懈げに脱力した腕を目の上に乗せたまま、低く、掠れる声でそれに答えた。
「──海辺で話をしてるときに、ゾルフィンの手の奴らに襲われた。不意打ちで撃たれて、防ぎようがなかった。水ぎわにいた翼がはじめに撃たれて波に攫われた。すぐさま海に飛びこんで、翼を抱きかかえて逃げて、やっとの思いで追っ手をふりきった。どうやってドームの入り口までたどりついたのか憶えてない。あとは、オート・ドライブの無人タクシーをつかまえて、ここまで戻ってきた」
「いやだ、うそでしょう……」
想像以上の内容に、デリンジャーは口許を手で覆った。
「こんな状態で、海水にまで浸かってるですって? それであたしに治療しろって?」
これまで見せたこともないような絶望的な表情とその声色に、皆の緊張した視線が一手にデリンジャーへと集中した。
「おい、そいつはそんなにまずいことなのか?」
一同を代表してザイアッドが質問する。デリンジャーはそれに対し、ありのままの所見を述べた。
「正直、最新の医療設備が整ってる《首都》の総合病院でも、治療は難しいでしょうね。最高のスタッフをそろえたとしても、よ。それなのに、こんな応急手当が精一杯の道具しかそろってないとこで、あたしひとりになにができるっていうの? 薬品だって量も種類も足りないもいいとこじゃない。ひとりでももてあますのに、それがふたりよ! これだけの重傷負ってたら、ゲート通過時の滅菌処理なんて気休めにもならないわっ。エタノール1本で体内にまわった毒素が消せる? 市販薬程度の薬で菌が殺せる? 数本のメスとハサミとピンセット、たったそれだけの治療器具で、何時間もかかるような手術ができると思う? 手に負えるわけないじゃない! あたしは神様じゃないのよ? どうにかしてあげたくても限界があるのよっ」
苛立ちと焦燥が頂点に達して、デリンジャーはついに感情を爆発させた。その反応が、事態の深刻さをなによりも如実に物語っていた。
シヴァがかすかに口唇を顫わせ、ボスの傍らに膝をつく。そして、長椅子から滑り落ちたその手を取って、みずからの両の手でそっと包みこんだ。指先はすでに、氷のようだった。
「デル、俺のことはいい」
懇願するように、再度ルシファーは言った。
「俺のことなんかどうでもかまわない。足りなければ俺の生命そっくりくれてやる。だから頼む、なんとかして翼だけは助けてやってくれ。頼むから翼だけは……」
デリンジャーは目を閉じてぐっと奥歯を噛みしめると、やがて盛大に吐息を漏らして目を開けた。苛立ちと焦燥の気配は、そのひと息のうちに影をひそめていた。暫時の間に肚を据えた彼は、完全にいつもの冷静さを取り戻していた。そして、
「バカねっ、わかってるわよ、そんなこと!」
取り乱したことさえ錯覚であったかのごとく、デリンジャーは傲然と言い放った。
「それでもどうにかしろって言うんでしょ。なら、どうにかしてみせてやるわよっ。まったくやんなっちゃう、ムチャばっか言うんだから! ふたりとも、そう簡単には死なせてやらないわよ。あとでたっぷり厭味とお説教のミックスサンド御馳走して、一生、命救ってやったこと恩に着せて、奴隷のように扱き使ってやる」
「おっかねえな」
薄く笑ったボスに、デリンジャーはピシャリと言った。
「あたりまえよっ! そのくらいしなきゃ気がおさまらないわっ。これからどれだけあたしが苦労すると思ってんのよ! どうしてもっとスマートに新見ちゃん助けなかったのっ? いつものあなたなら、そんなこと造作もなかったでしょうに。それなのに、自分まで一緒になって撃たれて帰ってくるなんて信じられない。ほんと、間が抜けてるもいいとこだわ!」
傷の具合を確認する間にも、デリンジャーは容赦なくルシファーを糾弾する。緊張をゆるめず、意識を保たせておくための意図的な叱責だった。
「悪いけど、このまましばらく放置するわよ」
ひととおりの診断と輸血の手配を終えると、デリンジャーはルシファーに確認するように言った。その言葉に、シヴァが抗議の目を向けた。が、それを制してルシファーは頷いた。
「新見ちゃんのほうが容態は深刻よ。状況の厳しいほうを優先するわ」
「ああ、頼む」
「体内にまだ銃弾が残ってるわ。右脇腹と左腕、それとおなじく左側の鎖骨の下の3カ所。シヴァ、あたしが新見ちゃん診てるあいだにそれ取り出して、傷口の消毒をしておいてちょうだい」
「待ってくださいっ。まさか、このまま? 麻酔は!?」
「そんな上等なもの、いまから使えるわけないでしょ。薬にも限りがあるのよ、多少痛くても、我慢させてそのまま手当てして」
「そんなっ」
「どっちにしても厳しい状態だから、あたしがちゃんと治療に戻れるまで麻酔なんか使えないの。いまはできるだけ意識を保たせておかなきゃダメ。根性据えて、思いっきりやっちゃっていいわよ」
蒼褪めた青年の美貌は、その言葉でさらに不安を煽られ、顔色を失った。いつもの彼らしからず、助けを求めるように気弱い視線をデリンジャーへと向ける。けれども命じた側はとりあわず、さっさと席を立って奥へ行ってしまった。
途方に暮れて、シヴァは押しつけられた治療用具と目の前に横たわるボスとを見比べた。その躰を、軽く押しやる者があった。
「どいてな、俺がやる」
まえへ進み出たのは、なりゆきを見ていたザイアッドであった。
「お育ちのいいおまえさんにゃ、荒っぽい仕事は向かねえ。そこでおとなしく見てな」
「余計な口出しをするな! おまえなどになにができるっ」
シヴァは怒鳴りつけたが、ザイアッドは意に介さず、上着を脱いでシャツの袖をまくり上げながら可笑しそうに口の端を上げた。
「まあ、そうとんがるなって。おまえさんに比べりゃ、遙かにマシってもんよ。これでも軍人の端くれだからな、修羅場にゃ慣れっこだぜ。戦闘中にてめえの躰に穴開けた弾、火で炙ったジャック・ナイフで抉り出して、ポケット・ウィスキーぶっかけて応急処置するってなことも、そう珍しいことじゃねえ。そら、いい子だからそっちまわって、しっかり足押さえてな」
飄然と手袋を嵌める男をきつい眼差しで睨んでいたシヴァは、不服の色を浮かべながらも、言われるままに足もとのほうへまわった。
「さて、そんじゃ、さっそくとりかかるとするか。陛下、ちょいと痛ェかもしれねえが、しっかり堪えろよ」
そう声をかけると、ザイアッドは躊躇うことなく傷口にメスを入れた。瞬間、ルシファーの躰がビクッとふるえる。足を押さえていたシヴァは、見るに堪えず、顔を背けた。
「ルシイ……、ルシイ頑張って! 負けちゃダメ!」
激痛に耐えるルシファーの額に浮かぶ脂汗を、女が丁寧に拭いながら懸命に励ます。
「おい、ねえちゃん、泣いてる暇があったらタオルかなんか口につっこんで噛ましとけ。悲鳴ひとつあげねえのはさすがだが、いくら踏ん張るったって限度があらあ。口唇喰い破るか、舌噛み切るかしねえうちに、早くなんか押しこめ!」
険しい顔でザイアッドが女を叱咤した。あわてふためいたクローディアは、手にしていたハンカチでは小さすぎて用をなさないと判断すると、迷うまもなく自分の腕をルシファーの口許へ持っていった。
「ルシイ、ダメッ、それ以上歯喰いしばっちゃ!」
「ばかやろうっ、なにしてやがる! 腕なんぞ噛ましたら肉喰いちぎられるぞっ。早くひっこめろっ!」
「腕の1本や2本、どってことないわよっ。いいから早く治療しちゃってよっ。こんなに苦しんでるじゃない!」
悲鳴に近い声で怒鳴り返しながら、クローディアはなおもルシファーの口に自分の腕を押しつけた。その手を、ルシファーはやんわり押しのけた。
「ルシイ!?」
「ばかな真似はよせ。いいから、俺は大丈夫だから」
「なに言ってるのよ、ちっとも大丈夫じゃないじゃないっ。あたしの腕なんかどうだっていいのよ。早く元気になることだけ考えて、しっかり頑張って。絶対負けちゃダメ!」
これ以上はないほど真剣に愛人を励ます女のわきから、ぬっと白い布が突き出される。薬品棚から出したタオルを無言で差し出した相手を見たルシファーは、その心情を察して顔を歪めた。
「レオ、すまない……」
なにか答えようとして口を開きかけたレオは、結局、ひと言も発することができぬまま、硬張った表情で押し黙った。




