第16章 告白(2)
《夜叉》に移ってからの翼の日常は、比較的安穏に過ぎていった。
グループの少年たちが、翼とレオの存在に寛容で、なおかつ好意的に受け容れてくれたことが大きいだろう。ここでは皆、のんびりと構え、《セレスト・ブルー》にいたときのようなピンと張りつめた、緊迫した空気を感じることはなかった。
ボスの刹にしても、配下に対する態度は鷹揚で、よほどのことがないかぎり、彼みずからが出ていって裁断を下すことはなかった。配下の少年たちの言動に口を出すことがないのはルシファーも同様だったが、セレストでは皆、絶えずボスの様子に気を配り、神経を研ぎ澄ませているようなところがあった。
《夜叉》のメンバーは、自分たちのボスを慕ってはいたが、畏れてはいなかった。翼たちは、その刹の友人として厚く遇されていた。
公安や《メサイア》の残党を相手に激しい攻防戦が始まっていることは、おおまかではあるが、刹から聞かされていた。それらの戦局の詳細が、気にならなかったといえば嘘になる。だが、あまり首をつっこんで内情に深入りしすぎることを、翼はひそかに恐れるようになっていた。
スラムにはスラムの掟がある。
ルシファーの庇護下に置かれ、彼と身近に接するうちに、翼は自分の立場を忘れて最大の禁を犯した。すなわち、配下の少年たちのまえで、彼らが神とも崇める唯一至高の存在を罵倒し、彼の施した冷厳な措置について、激しく批判したのである。
果たしてそれは、正しいことだったのだろうか。
あのとき、自分はただ、表層に見えていた断片のみから事態を判断し、無責任に悲憤をぶつけたにすぎない。
彼の下した裁断を、翼はいまでも正しいとは思っていない。だが、それでも彼は、大局を見極め、あの時点でもっとも犠牲が少なくて済むと思われる最善の策を択ったに違いないのだ。
彼は、決して残忍な人間ではなかった。血を好み、争いに悦楽を求めるような性情の人間でもない。それでもなお、麾下数百の少年たちを統制し、組織の秩序を守るために、冷酷に徹して情を殺さなければならない場合もあるのだ。
彼のとる言動のひとつひとつが、つねに先々を見通し、計算しつくされている。自分の、彼らに対する影響力の大きさを、彼は充分に熟知していた。
刹の許へ移されたとき、翼は、ルシファーとの関係に亀裂が生じたがゆえに、彼が自分を遠ざけたのだと思った。だが、そうではなかった。冷静に考えればすぐにわかることである。彼は、決して私情を交えたわけではなかった。翼とレオの安全を最優先事項として、適確な処置を下したにすぎなかったのだ。
衆目の中、翼がルシファーを難詰したことで、おそらく事態は、より複雑で難しい状況に追いこまれたに違いない。《セレスト・ブルー》が激戦区の真っ只中に置かれることを抜きにしても、ルシファーは、翼を自分の手もとに留めておくわけにはいかなかったのだろう。そして彼が選んだのが、刹の許だった。
翼とレオが、もっとも寛容に受け容れられ、気兼ねなく安全に過ごせる場所。彼は間違いなく、そこまでを考慮に入れて、自分たちの落ち着く先を決定したことは疑いなかった。
考えれば考えるほど、己の甘さ、至らなさに忸怩たる思いが湧き上がる。
これ以上、彼の重荷となることだけは避けたかった。そしてなにより、心ない言葉で彼を傷つけたくはなかった。
なにも知らないくせに。そう、シヴァに面罵されたところで、到底腹を立てる筋合いではなかったのだ。
こんなふうに離れてみると、はじめて見えてくることが多くある。自分が如何に、ルシファーによって安全な場所で護られてきたか。非情で残酷に見える世界で、どれほどの冷徹な判断と適確な対応がなされているのか。そしてその判断と対応の数のぶんだけ、未然に処理された危険が存在していたのか。
翼はここしばらく、スラムというひとつの枠組みを持った社会を、歪みのない角度から考察しなおす作業に取り組んでいた。
受け容れてもらえたからといって、お客様気分のまま、ただともに過ごし、スラムに身を置く者たちの生活するさまを眺めているだけでは意味がない。それではいったい、なんのためにルシファーが自分を懐の内側へと招き入れてくれたのか、わからなくなってしまう。
これはもはや、ただの『反社会的集団の逸脱性』にテーマを置く取材ではなくなっていた。
強大な敵に立ち向かおうとしているルシファーが、新聞記者である自分に見いだした価値はなんだったのか。自分にできる、どんなことがあるのか。自分の立ち位置をきちんと見定めておかなければ、今後果たすべき役割すら把握することができなかった。
その翼の許に、ひとつの重大な情報がもたらされた。
送信者の識別コードには厳重なロックがかけられていたため、特定情報を割り出すことはできなかった。したがって、その意図もいっそう不明である。だが、攪乱を目的としたデマとするには、そこに記された内容はあまりに克明で重く、真実味を帯びていた。
情報提供者がルシファー本人であるはずはない。そうであるなら、なにも匿名を装う必要はないのだ。そしてなにより、こんなやりかたは、誇り高い彼の友人の性情にそぐわなかった。
自分の生存を知り得た送り手からの深意が、まるで見えない。
その意図するところは、スラムの覇権を握る《ルシファー》の失脚か。それとも――
いつもと変わらぬ昼食を済ませた午後、沙羅の遊び相手をしながらぼんやりと考えに沈んでいた翼は、不意にざわついた、異様な空気に気がついて我に返った。
そばで副頭のヴィンチと打ち合わせをしていた刹も、すぐに異変に気づいて顔を上げた。
「なんの騒ぎだ?」
「頭、そ、それが……」
戸口から外の様子を窺っていた少年が、やけに緊張した面持ちで振り返る。そのただならぬ様子に、刹がなにごとかと腰を浮かしかけたとき、入り口に、ある人物が姿を現した。
「ルシファー……!」
驚きの声をあげた刹に、ルシファーは軽く手を上げて挨拶した。そして、泰然と部屋を見渡すと、ほどなく一点に目を留め、室内に足を踏み入れた。
瞠目したまま声もなく突然の訪問者を視つめていた翼は、
「少し、話がしたい。いま、出られるか?」
目の前に立つ相手にそう問われ、わずかに動揺しながらもこっくりと頷いた。
「う、うん……」
返答を聞いて、ルシファーは刹を振り返る。
「というわけで、悪いな、刹。しばらく借りてくぞ」
「どうぞ、お好きに」
ルシファーの一方的とも思える振る舞いを、《夜叉》のボスは鷹揚に笑って甘受した。




