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地上に眠る蒼穹~Celeste blue~  作者: ZAKI
第1部 スラム編
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第2章 フリーカメラマン(1)

 結局翼は、搬送先の病院で数日の入院を余儀なくされた。全身の打撲が、強打した背中以外にも、思いのほか広範に及んでいたためである。痛みに比して、左手首の怪我が捻挫程度で済んだのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。

 いずれにせよ、打ち身自体はさほど深刻なものではなかったが、思いもしなかった『地上の洗礼』により受けたであろう精神的ダメージを顧慮し、大事をとっての経過観察入院となった。


「本当に申し訳ないことをしてしまった。さっき秘書に連絡を入れたら、すべて私の責任だとこっぴどく叱られてしまったよ」


 検査後、病室に移された翼を見舞うなり、シュナウザーは心底面目なげに肩をすぼめた。彼の計らいにより、翼には瀟洒しょうしゃな特別室が用意されていた。


「とんでもない。僕の注意が足りなかったせいで、ご迷惑をおかけしてしまったのに」

「いやいや、時間どおりに迎えにいくという秘書の申し出を退しりぞけて、自分で出迎えると言い張ってしまったのは私だからね。あとのことは、入院手続も含めてすべてこちらで対応させてもらうから、君はなにも心配せず、ゆっくり躰を休めてくれたまえ」


 そう言って、シュナウザーは病院側にもあれこれとこまやかな指示を出すと、翼の体調を気遣って、早々に引き上げていった。


 ベッドに横になった翼は、投与された鎮静剤の効果もあって、ほどなく深い眠りへと落ちていった。しかし、薬の力をもってしても、空港の外に出たことで味わった一連の恐怖を、その心から拭い去ることはできなかった。

首都キャピタル》にも凶悪犯罪がないわけではない。不良少年のグループが対立して問題を起こすこともある。けれどあれは、そんな生易しいものなどでは、決してなかった。


 生死を賭けた、壮絶なるサバイバル・バトル。


『生』が『死』に取って代わった瞬間から、それはただの物体にすぎなくなるのだということを、はじめて実感した。

 人が、あんなにも呆気なく死んでゆく現場を、はじめて目の当たりにした。


 目の裏に焼きついて離れない血みどろの凄惨な光景。そして、青い、瞳――



『信じられないわっ。どうしてそんな危険な仕事を、よりによってあなたが引き受けなきゃならないのっ!?』


 取材旅行を命じられた日の夜、帰宅して事情を打ち明けた翼に、妻のジェーンは感情も露わに怒りをぶちまけ、翼を責め立てた。


『あんなところに行かされて、無事に帰って来れるはずがないじゃないっ。あなたは会社にいいように煽て上げられて、利用されてるのよ。それがわかっていて、なぜ引き受けるの? なぜ断らないの? ええ、もちろんわかってる。あなたのその性格じゃあ、とても断りきれないんだってことぐらい。でも、少しはあたしのことも考えて。あたしたちの大切な娘のことも考えてよっ!』


 やわらかな金髪ブロンドに明るく輝くグリーン・アイ。外見の華やかさに加え、明朗で社交的な性格のジェーンの周りには、学生時代、男女を問わず、つねに多くの友人たちが集まっていた。内向的で地味な性格の翼とはまるで正反対のタイプだったが、それでもふたりは惹かれ合い、大恋愛の末に結ばれた。大学院在籍中の学生結婚だった。

 その後、修士課程を修了した翼は、《首都》最大手の新聞社、ユニヴァーサル・タイムズの新米記者となった。順風満帆な日々の中で、ふたりのあいだには、入籍後半年を経ずして娘のシャロンも誕生した。幸せに充たされ、明日の平穏を信じて疑わなかった彼女にとって、夫に命ぜられた地上派遣の話は、青天の霹靂もいいところだったに違いない。


 けれど翼は、取り乱し、泣き崩れる彼女をそれでも説き伏せ、納得させた。社命に逆らうことができなかったからではない。ひとりのジャーナリストの立場から見て、やはり地上は、強く興味をかきたてられる特別な場所だったからだ。


 翼は、事前に調べ得るかぎりの情報を収集し、みずからの意志であらためて地上行きを決意した。覚悟と心構えは、その段階で充分にできているつもりだった。しかしながらその認識は、所詮、蓄えたデータ量を『知識』と誤認して、理解したつもりになっていただけにすぎなかった。

 無知ゆえの甘さと愚かさを、翼は地上に着いた早々に、身をもって思い知らされることとなる。


 俗世との関わりを嫌うスラム生活者が、行政や司法の目が行き届く場所に自分から進んで姿を現すようなことはない。その通説に、絶対などありはしなかったのだ。それを誤信したがゆえの惨事だった。

 いまならばわかる。今回の事態は、完全なる翼側の落ち度だったのだ。



 体中の痛みが、嫌というほどその事実をつきつける。車内でさんざんに振りまわされ、叩きつけられ、転がりまわっためまぐるしい感覚が、薬の力を借りてなお、眠りの中にまで押し寄せ、翼を苦しめた。


 夜になって上がりはじめた熱は、瞬く間に高熱となって、追い打ちをかけるように翼を悪夢の底へと引きずりこんだ。

 耳障りなエンジン音や雄叫びが頭の中に響きわたり、目を閉じてなお、平衡感覚を損なう激しい眩暈めまいが、強い吐き気を伴って翼を襲った。車に放りこまれた際に打ちつけた左手首も、熱の上昇とともに疼きを増し、悪夢の再生に拍車をかけた。

 騒乱の渦に呑まれたホログラムが、繰り返し翼の脳裡にフラッシュバックする。そして同時に甦るのは、凄まじい殺戮の場面以上の強烈さをもって翼の心をえぐった、美しくも凄絶な光を放つ、青紫スカイ・ブルーの瞳の持ち主――


 入り乱れた場面がめまぐるしく脳内を駆けめぐる中、次第に克明さを失っていく悪夢の断片とともに、ひとつの映像が深い闇へと墜ちていった。


 小型端末が最後に浮かび上がらせた映像は、そこに読みこませていた最新の記録。

 出発時に玄関先で自分を見送った妻と娘のホログラムは、視界から消失するそのときまで、幸福な微笑みを浮かべていた。

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