第15章 もたらされた機密(3)
グラスが、派手な音をたてて砕け散った。
ゾルフィンは思うように好転しない戦況に苛立ちを募らせ、やり場のない感情をもてあましていた。
このままでは、《メサイア》殲滅後、ようやくここまでまとめあげた勢力が無駄に削ぎ落とされてしまう。戦力が縮小しつづければ、指揮系統もろとも打撃をこうむることは目に見えていた。まともに戦力をぶつけたのでは、一方的に叩き潰されるのみ。メンバーのあいだに、敵に対する決定的な恐怖が浸透すれば、雑魚の寄せ集めにすぎない連中は、たちまち戦闘要員としての役目を果たさなくなるだろう。
なにか、別の手を打たなければ。
かつて属したグループも含め、すべての邪魔な要素は片っ端から排除し、利用できるものはとことん利用しつくしてきた。結果、自分はあの《セレスト・ブルー》に拮抗し得るだけの現勢力を手に入れた――
現在、ゾルフィンとその一党は、《旧世界》北東のある地区を拠点に活動していた。反セレスト派を募って集まったその数は、およそ160。通常、大規模なグループでも50名程度であることを考えると、かなりの大人数である。しかし、《セレスト・ブルー》の傘下におさまって、ルシファーが手足として動員できる各グループの戦闘員の総数を考えると、その規模は6分の1程度にすぎなかった。
《セレスト・ブルー》の正規メンバーは、70名強。そこに、温存したこちらの戦力を一点集中して投入することさえできれば、いくら精鋭集団とはいえ、ひとたまりもないだろう。要さえ叩き潰してしまえば、下部組織の連携は容易に崩せる。そう、《ルシファー》さえ潰すことができたなら……。
せっかくここまで這い上がったのだ。絶対に、このままで終わらせはしない。自分にとってもっとも目障りな障害物を、必ず排除してやるのだ。
勝算は充分望める。あとは、好機を狙うばかり。そのためには、最高の舞台を用意しなくてはならなかった。その素地をどう造り上げ、如何に演出していくかが当面の問題だった。
――見てるがいい、ルシファー。
剣呑な光を帯びた眼差しで中空を睨み据え、ゾルフィンは口の中でぶつぶつと物騒な言葉を紡いだ。配下の者たちは皆、彼に近づくことを恐れ、遠巻きにその様子を見守っている。煩わしいそれらの視線にさらに苛立ちを募らせながら、ゾルフィンはボトルに直接口をつけてアルコールをあおった。そこへ、ひとりの少年が近づいてきた。
「ゾルフィン、耳に入れておきたいことが」
顎を伝い落ちるアルコールを乱暴に手の甲で拭いながら、ゾルフィンは無言で相手を睨めつけた。
「例のセレストの件だ。調べがついた」
少年は、臆せず兇悪な視線を受け止めると、隣のスツールに腰掛けた。
「意外におもしろいネタが挙がった」
「使えるんだろうな?」
「場合によっては充分利用できるはずだ」
ゾルフィンは、たいして関心がなさそうにボトルを弄んだ。
「例のブンヤが絡んだ薬物混入騒ぎの一件、裏で手を引いてたのは、どうもセレストに出入りしている女のようだ」
「女ァ?」
「ああ、しかもルシファーのコレらしい」
言って、少年は思わせぶりに小指を立ててみせた。ゾルフィンの顔つきが、一瞬にして変わった。
「……ガセじゃねえだろうな?」
「いや、そいつはまずないね。現にその女、いまもセレストに居座ってるって話だ」
「根拠はなんだ? 部外者が奴の周辺をうろついてるってだけで、その女に的を絞ったわけじゃねえだろ。なんか怪しい動きでもあったか?」
「いや、いちいち探るまでもない。顔見りゃ一発だ。あんな派手な女、見誤りようもないね。あれは間違いなく、俺たちのスポンサーが連れてた女と同一人物だ」
ゾルフィンの両眼が、思いがけない言葉を聞いたかのように瞠かれた。
「随分まえから出入りしてたようだよ。おそらくは、俺たちが『奴』と手を結ぶ以前から」
少年の言葉に、ゾルフィンは唐突に狂ったような高笑いをはじめた。
周囲の少年たちが、ギョッとしてカウンターのふたりを顧みる。ゾルフィンはおかまいなしにテーブルを叩いてのたうちまわり、やがて、笑いはじめたとき同様、ぴたりとその笑いをおさめた。
不気味な静寂があたりを支配する。その口許には、残忍極まりない笑みがひろがっていた。
「そりゃあいい。最高に笑える冗談だ」
低く呟いて、空になったボトルの先端をカウンターに叩きつけた。ガラスの砕けるとがった音に、数名がビクッと首を竦めた。
「酒っ!」
鋭く命じられ、近くにいた者があわてて新しいボトルとグラスを運んでくる。ボスのまえにそれらを置いて下がろうとした下っ端の少年は、不意に強い力で腕を掴まれてヒッと咽喉を鳴らした。その少年に向かって、ゾルフィンはぞっとするほど優しい顔で笑いかけた。もう一方の手で、かろうじて飲み口部分のみボトルの形状を残すガラス片を弄びつづけていた。
「俺は、他人を利用するのは好きでも、他人に利用されるのは我慢がならねえ質でよ。なあ、これって我儘だと思うか?」
「いっ、いえっ、全然。そんなことは……」
「そうか。おまえは俺の気持ち、わかってくれるか。そうだな、そうだよな。どんな理由でも、他人を騙すような真似はしちゃいけねえよなあ。とくに俺みたいにナイーブでデリケートな人間には、そんなひでえ真似、するもんじゃねえって思うだろ? だって、騙されたほうは、思いっきり傷ついちゃうもん……、なあっ!」
ゾルフィンのセリフの語尾に、耳をつんざく絶叫が重なった。少年の手の甲に、割れたボトルの切っ先が深々と突き刺さり、カウンターに縫いつけられていた。
恐怖が、少年たちの背筋を冷たい汗となって滑り落ちる。ヒーヒーと泣き喚く少年を除いて、だれも、声ひとつあげることができなかった。
真っ赤な血溜まりが、カウンターの上で徐々に輪をひろげていく。そのさまをしばらく凝視していたゾルフィンは、やがて関心が失せたかのようにボトルを引き抜いた。痛みに耐えかねて、解放された少年が呻きながらその場に蹲り、転がりまわる。ゾルフィンは、その側頭部を血が滴っている凶器で思いきり殴りつけると、容赦なく後方へと蹴り飛ばした。
血泡を吹き、鼻血を溢れさせた少年の躰が床に叩きつけられ、ヒクヒクと痙攣した。ゾルフィンは、興を殺がれたように苦い顔で不快げにツバを吐き捨てた。
「さて、どうしてくれよう」
「あ……」
ねっとりと絡みつく視線を据えられ、諜報係の少年はわずかに息を喘がせた。
「これまでおとなしく『奴』の言いなりになってきたのも、すべては互いの利害が一致すればこそ。一方的に利用されるとなれば、話は別だ。軍資金もそれなりに貯まったところだし、そろそろ手を切る潮時か」
「人質の件は?」
「空港で《メサイア》を嗾けて襲わせたことといい、女を遣った件といい、『奴』があの記者に利用価値を見いだしてることはたしかのようだな。なら、むざむざそれを見逃す手はなかろうよ」
新しいボトルの中身を、ゾルフィンは高い位置からゆっくりとグラスに注いだ。
「――おい、ルシファーは女の存在に気づいてるのか?」
「いや、それについてはまだなんとも。ただ、いまのところは自由に出入りさせているようだ」
「色香に惑わされて、まともな判断力が鈍ってやがるか――いや、奴にかぎって、それはありえねえな。たかが女と軽視してるか、それとも泳がせて様子を見ているのか……」
わずかな沈思の末に、ゾルフィンはひとり頷いた。
「まあいい、いずれにしても使えそうなネタだ。この俺を謀ったからには、当然、|『奴』にも相応の報いは受けてもらおう」
「あんたはおっかないね、ゾルフィン。荷担する相手を見誤らないでよかったと、つくづく思うよ」
自分に向けられた陋劣な愛想笑いを一瞥したのみで、ゾルフィンはそれに応えようとはしなかった。




