第14章 深まりゆく溝(3)
デスクを挟んで仁王立ちになっている人物に、ユニヴァーサル・タイムズ社会部編集長、バッティスタ・モラビアは、うんざりしたような視線を向けて仰々しい溜息をついた。
「ですからね、奥さん、そう言われても、こちらも困るんですよ。私としましても、今回のことは非常に残念だったと無念の思いでいっぱいです。新見くんは前途有望な、優秀な部下だった。正直言って、私だって悔しい。おつらい奥さんの立場やお気持ちも、充分お察ししておりますし、理解できるつもりです。ですが――」
「理解していただかなくて結構ですわ」
モラビアの言葉を遮って、新見ジェーンは毅然たる口調で言い放った。
「ただ、先程から何度も申し上げているとおり、夫が生きている以上、特別給付金も保険金もいただくわけにはまいりません。サインはいたしかねますので、受領手続の書類はすべて破棄してください。こちらはいままでどおり、月々の給与を振り込んでいただければ、それで充分ですから」
「しかしね、奥さん」
言いかけて、モラビアはこれ以上不毛な会話をつづけても無駄だと言いたげに首を左右に振った。
「頭のおかしな女だとお思いでしょうね。ですけどモラビア編集長、残念ながらわたしは正気ですわ。夫は死んでなんかいません。必ず生きています。少なくともわたしは、そう確信しています。でなければ、なぜ、あの人の遺体の一部すら見つからないなどという馬鹿げたことがありえるんでしょう? あの人に同行なさったというカメラマンの方、レオナ・イグレシアスさんにしても同様ですわ。ふたりがふたりとも、爆風ですべて粉々に吹き飛ばされてしまって、歯の1本、髪の毛ひと房すら遺らなかっただなんて説明されて、だれが信じます? 痕跡ひとつ見つけられないだなんて、現代科学では到底ありえないことですわ。それで死んだという事実だけを認めろと言われても、認められるはずがないじゃありませんか。そうじゃありません?」
「えーと、だからそれはですね、そういうことはこちらではなんとも――」
「こう申し上げてはなんですけれど、編集長ご自身は、一度でも直接事故現場を見にいらっしゃいまして? どういう状況で、夫やイグレシアスさんがどんなふうに事故に巻きこまれたのか、派遣を命じた上司として、ご自分の目で確認してくださいまして?」
「いや、それは……」
「ええ、わかってます。遺族ですら危険だからという理由で現地へ行くことは許されませんでしたから。報道内容も調査結果も、すべて現地の機関に任せているということは、わたしも承知しております。ですけど、それでは納得できないんです。大切な夫があんなことになっていながら、どうして間接的な報告だけで納得することができます? 証拠ひとつなしで、なにをどうやって真実と受け容れられます?
わたしは世迷いごとを言っているわけではありませんわ。夫の死が報じられたその数日後に、夫の端末からわたしの許へ通信が入りました」
「なんですと!?」
ジェーンの言葉に、モラビアは巨体を揺らして立ち上がりかけた。
「ええ、もちろん本人からのものではありませんでした。でも、わたしが受けた報告内容が事実なのだとしたら、なぜ、そんなことがありえるのでしょう。なにひとつ残らなかったはずのあの事故で、なぜ、あの人の端末だけが無事で、所有者の認証なしに正常に作動するなどということが起こり得るのでしょう? わたしには、あの人が無事で生きている証拠としか思えません」
「ご主人の端末を使ってコンタクトしてきたのは、だれだったんです?」
「わかりません。見知らぬ、小さな男の子でした。でも……っ!」
一度身を起こしかけたモラビアは、ふたたび疲れたように太った躰を椅子に沈めると、何度目かの溜息を深々と吐き出した。
「奥さん、お気持ちはわからなくはありませんがね、希望的観測による思いこみは如何なものかと思いますよ。ご主人の通信機はたしかに無事かもしれない。しかし、それでどうして、ご主人が無事だと言いきれます? ご主人が生きているのだとしたら、なぜ彼は、いまだにあなたになにも言ってこないんです?」
「それはっ! ですから、なにかそうできない深い事情があって……!」
「では、その回線が繋がった際のご主人の居場所は、IDの反応をたどってつきとめることはできましたか?」
「……いいえ。彼のIDでの測位信号は確認できませんでした。でも――」
「奥さん、目を背けたい気持ち、かすかな希望にも縋りたい気持ちはわかりますが、むしろ事故以前にその少年が、ご主人のものを盗んだと考えるほうが現実的なんじゃありませんかね。ちょうどロックがはずれていた状態のときに。IDチップはご主人が携行していて、その端末にはセットされていなかった。そう考えるのが妥当なんじゃありませんか? 警察には、もうそのことは届けられたんでしょう? なんと言ってました?」
「まるでとりあってもらえませんでした。いまとまったくおなじことを言われました。ですけど――」
「奥さん、こんなことを申し上げたくはありませんが、いま、しっかり現実を認めておかないと、あとがつらいですよ。あなたにはお子さんもおありなんだし、これからはあなたが、ご主人のぶんもしっかりしてかなきゃならない。違いますか?」
新見ジェーンは口を開きかけ、モラビアの憐れむような顔を見て結局口を閉ざした。
「……わかりました。もう、結構です。余計なお時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」
ジェーンはそれだけ言って、身を翻した。
「あ、奥さん、書類!」
「結構です、破棄してください。そんなもの、見たくもありません」
言い捨てて、振り返りもせずにジェーンは社会部のオフィスをあとにした。
夫は絶対に死んではいない。
ジェーンはきつい眼差しで前方を見据えたまま、風を切るようにして歩いた。瞬きをしたり、少しでも歩調をゆるめたりすれば、たちまち涙が零れ落ちて、その場で泣き崩れてしまいそうだった。
『ジェニー、ごめんね。心配しないで』
まるで未来を予測したかのような最後の言葉。
翼、いまどこにいるの? いったいどこへ行ってしまったの?
大声をあげて泣いてしまいたい衝動を必死に堪えながらビルを出たジェーンは、背後から自分を呼び止める声に気づいてその足を止めた。振り返れば、こちらに向かって走ってくる、ひとりの男がいる。見覚えのあるその顔を目にして、ジェーンは相手の名を口にした。
「ウェスリー……」




