第14章 深まりゆく溝(2)
刹がとりまとめるグループ《夜叉》の拠点は、港湾南第7ブロックの西のはずれ、ミッドタウンから見て、南西の方角に位置した。スラム最深部に根城を構える《セレスト・ブルー》からは、バイクで10分弱の距離といったところか。殺伐とした雰囲気が濃厚な深奥部とは異なり、いくぶんゆるやかな雰囲気のもとで、バーやファストフード・ショップなどといった店――おそらくは無認可であろう――がいくつか営業していた。
「場所によって随分印象が変わるんだね」
バイクを降りたところで感心したようにあたりを見まわした翼に、刹は笑って応じた。
「まあね、おなじスラムといっても、結構広いから。ただ、セレストはまた、スラムでもちょっと特殊なんだけどね。ま、ここも、ほかと比べると少し開放的かな」
「そうなんだ」
「おいおい刹、少しじゃねえだろ。《夜叉》も、だいぶん変わってるぜ」
わずかに遅れて到着した狼が、バイクから飛び降りながら言った。それにつづいてエンジンを切ったレオが、バイクに跨ったまま、やはり興味深そうにあたりを眺める。刹のバイクに乗せてきてもらった翼とは反対に、レオたちはバイクの所有者である狼のほうがレオに運転を任せてきたらしい。
「そんなに変わってないだろ」
「いいや、変わってる。バイオレンスとは無縁の、妙な奴らばっか集まってんじゃんか」
狼が自信満々に断言すると、刹はそれを否定せずに苦笑した。そして、ま、とりあえず行こうかと皆を促した。
「このバイクはどうするんだい?」
路上に置き去りにされるバイクを案じてレオが尋ねると、刹も狼も異口同音に大丈夫だと請け合った。
「俺たちのもんだって、ここじゃみんな知ってるからな。だれも手は出さねえよ」
「うちのメンバーは躾が行き届いてるからね」
それぞれのボスの答えを聞いて納得すると、レオはフンと息をついてバイクから降り、抜きとったキーを狼に抛った。受け取った狼がニヤリと笑う。バイク好き同士、すぐにウマがあったようだった。
バイクを停めた場所から少し進んだ先の細い路地を抜け、4人は地上10階建て程度の細長い雑居ビルが建ち並ぶ一角へと足を運んだ。
先頭を行く刹につづいて、翼たちは建物のひとつに入る。促されたのは、やはり地下へとつづく階段。《セレスト・ブルー》同様に、ここもまた、生活の基盤を地下に置いているようだった。飲食店が経営できる程度にゆるやかな風潮の土地柄であっても、それはまた、別の話なのだろう。
だが、階層が下がれば下がるほど、深閑とした空気が濃厚さを増したこれまでとは異なり、階段の奥からは、なにやら雑然とした大勢の気配が漂ってくる。不思議に思いつつ階段を下りて、地下の空間に入ったところで翼は目をまるくした。広いスペースをまるごと使って、メンバーらしき少年たちが大宴会の真っ最中だったのである。
「ああ、やっぱり……」
刹が目を覆って天を仰いだ。
「あ、頭。おかえりなさい!」
「ご苦労様でーす」
「お客人、ようこそ~!」
刹の存在に気づいた少年たちが、口々に親しげな様子で声をかける。それは、《セレスト・ブルー》では決して見ることのなかった光景だった。
「なにやってんだ、おまえら」
「いや、それがですね」
ひとりの少年が、刹の質問に答えようとしたところで奥から声がかかった。
「おう、刹、戻ったか。待ちくたびれたぜ」
ガラガラとした豪快な声の主が、奥のカウンターから手を挙げて合図した。声に相応しい、立派な風体のふたり組みであった。
「なんだありゃ、ラフとジュールじゃねえか」
呆れたように呟いたのは狼である。わけがわからず翼が立ち尽くしていると、彼らはすぐに立ち上がって、向こうから翼たちのほうに近づいてきた。
「なんであんたらがこんなとこにいるんだ?」
「なんでだぁ? つれねえこと言うなよ。理由はおまえと一緒だ、狼。《夜叉》の頭が、ルシファーから大事な客人を預かると聞いて、ちょいと興味本位で様子を見にきたのよ」
「そうなんだ。どんな奴かと見てみたくてね」
最初に声をかけてきた人物の横で、もうひとりも鷹揚に頷く。それを見て、狼はやはり呆れ顔のまま肩を竦めた。
「あんたらも随分暇だな。物好きというか、なんというか」
「迎えにいった刹に、わざわざくっついてったおまえにゃ負けるぜ」
「物好きはお互いさまってね」
ふたり組みの巨漢は、交互に答えて豪快に笑った。翼は完全に圧倒されて、声もなく、そんなふたりを見上げていた。
「おう、これか、あの《ルシファー》の秘蔵っ子てのは」
「ほー、なんだかまた、えらく小ぶりで可愛いじゃないか。リスみたいだな」
興味津々の視線を真上から注がれて、翼は躰を硬直させた。海賊かレスラー崩れといった感じだが、どちらも悪い人間ではなさそうである。ひとりは、落ち着いてよく見れば育ちの良さそうな好青年で、なかなかの男ぶりともいえる。ただし、警戒を解くには、あまりにも迫力がありすぎるふたりだった。
「こらこら、いいかげんにしないかふたりとも。客人がすっかり怯えてるじゃないか」
刹が割って入ってふたりの注意が逸れ、翼はようやく安堵の溜息を漏らした。
あらためて刹を介して紹介をしてもらえば、ふたりはそれぞれ、ラフとジュールといい、《黒い羊》と《自由放任》というグループのボスなのだという。どうりで威圧感も半端ではなかったはずだと、翼は一気に脱力する思いだった。
「ところで、おたくらがいるのはともかくとして、この騒ぎはいったいなんなんだ?」
「いやあ、様子見に来たら、客人の歓迎会開くってんで、みんなで準備してたもんで、俺らも便乗しようと思ってよ。待ってるうちに手持ち無沙汰になってきたんで、先にちょっと盛り上がってるかって飲みはじめたら、あっというまにこのザマよ」
ラフが叱られた子供のように面目なげに頭を掻きながら、現状に至った経緯を説明した。見れば、『Welcome to YASHA!』などと書いた垂れ幕や派手な色合いのモールが、飾りかけの状態でそこかしこの壁に中途半端にぶら下がっている。刹は、やれやれと息をついた。
「悪かったね、刹」
「いや、べつにかまわないけど」
ジュールの謝罪に、刹は苦笑で応じた。
その間、翼はレオとともに巨頭たちの款談をおとなしく傍聴していたのだが、彼の注意は先程からラフに、いや、正確に言えば、ラフの抱いているものに注がれていた。レオもまた同様に気にかかっていたらしく、翼が目配せをすると、おどけたような表情を浮かべて首を捻った。
ふたりが関心を寄せたのは、ラフの腕の中でぐったりとしている小さな女の子であった。人形にしてはよく出来すぎている。規則正しく躰が揺れているところを見ると、どうやら本物の人間の幼女で、彼女はいま、昼寝の真っ最中であるらしかった。それはわかる。わかるのだが、なぜ、こんな小さな女の子がこんな場所で、《黒い羊》のボスの腕に抱かれて安心しきったように熟睡しているのかが、翼とレオにはいまいちよく理解できなかったのである。
不思議な物体でも眺めるようにふたりが熱い視線を注いでいると、彼女はほどなくラフの腕の中で身じろぎし、顔を蹙めて乱暴に目をこすった。
「お、お姫様のお目覚めだ」
ラフの言葉に、ほかのボスたちの視線も集中する。幼い少女は、まだ半分夢の中にいるようなトロンとした目つきで重たそうに二、三度瞬きをすると、欠伸とともにうーんと伸びをした。そして、
「あ、パパ」
不意に、ある人物の姿を認めると、破顔して嬉しそうに小さな両手を差し出した。翼とレオが我が目を疑ったことに、少女を抱きとめたのは、なんと刹であった。
「おかえりなさい」
「ただいま、沙羅。いい子にしてたか?」
「うん。さら、ちゃんといいこにおるすばんしてた。あのね、おぢちゃんたちといっぱいあそんだ。お空ビューンて」
「そうか、よかったな」
「うん」
少女は顔をクシャクシャにして笑う。そんな少女を、刹は穏やかな眼差しで見つめた。
「おい刹、娘相手にデレッと鼻の下伸ばしてねえで、ちゃんと翼たちにも紹介してやれよ。マメ鉄砲くらった鳩みてえなツラしてんぞ」
狼に肘でつつかれて、刹は、ああそうかと振り向いた。
「悪い。仲間内じゃ、わりとみんな知ってるもんだからうっかりしてた。これ、俺の娘の沙羅」
父親の腕の中で、幼い少女は、はじめてみるふたりの顔を物珍しげにじっと視つめた。
「こ、こんにちは!」
戸惑いながらも翼がなんとか笑顔で挨拶すると、少女は恥ずかしそうに父親の胸に顔を伏せてしまった。幼い少女の愛らしい仕種が、離れて暮らす我が娘を想起させる。少し見ぬまに、彼女もきっと随分成長していることだろう。
「びっくりした。子供がいるなんて思わなかった」
「だろうね、無理もない。こんな劣悪な環境で子供を育てようなんて、まともな人間ならまず考えない」
「そういうんじゃないんだけど、なんていうか、君だってまだ、充分若いんだろうにって思って」
「まあね、ルシファーとタメだからね。いま18。で、これは俺が15のときの子」
「すごいね」
「手が早いって?」
声も表情もにこやかだったが、刹の目は少しも笑っていなかった。それに気づいているのかいないのか、翼はあくまで屈託のない様子でそうじゃないよと否定した。
「親として、僕なんかよりずっと先輩だったんだなって、しみじみ納得しちゃったんだよ。どうりで落ち着いてるわけだと思ってさ」
翼の言葉に、刹の圭角がふっとやわらいだものになった。空気を読んだ狼が、安堵したように息をつく。そして、すかさず話をまぜっかえした。
「違うな、翼。こいつは落ち着いてるんじゃなくて、ハナっから爺むせえのよ。かわいげのなさは昔っからだぜ」
自信満々に断言すると、ラフとジュールがそろって「だれかさんもな」と冷やかした。
「君がひとりで育ててるの?」
「そう。生憎母親は、これを産んですぐ亡くなったもんでね」
「そうなんだ。やっぱりすごいね。男手ひとつで子供育てるって、なかなか簡単にできることじゃないだろうし。いろいろ大変じゃない?」
「べつにたいしたことはない。親が自分の子供を育てるなんて、当然のことだろ。俺は特別なことなんてなにもしてないよ。あたりまえのことをあたりまえにしてるだけ。感心されるようなことじゃない」
言って、刹は「ま、母親が生きてたら、俺もどうしてたかわからないけどね」と笑った。
「可愛いね。刹によく似てる。ね、僕にもちょっと抱かせて」
翼が手を差し出すと、刹はその手に幼い娘を預けようとした。しかし当の本人は、翼の顔をじっと見て、父親にしがみついてしまった。
「嫌われちゃったかなあ」
「いや、照れてるだけだろう」
ふたりのやりとりを聞いていたレオが、そこで会話に加わってきた。なにを思ったのか唐突に、
「どれ、あたしにも」
と手を差し伸べて、幼い少女の反応を見る。少女は、もう一度差し出された腕と相手の顔をまじまじと見て、今度は自分からレオに抱っこをねだった。
「なんでーっ!? 僕のときはあからさまに嫌がったのに!」
「小さい子供ってのは、基本的に男より女のほうが好きなものさ」
断然、納得のいかない声をあげた翼に、レオは得意そうに自慢してみせた。背後で、
「おい、やっぱ女じゃねえか」
などと小声で言い合う、ラフとジュールの声が聞こえる。
「えー、ずるいな。立場的にも、おなじ父親の僕のほうが絶対子供うけするはずなのに」
試しに翼はもう一度、少女に手を差し出してみたが、少女の反応はやはり変わらない。
「なんでだろう。なんか、すごい悔しい」
翼は唸ったが、少女があっというまにレオに懐いたその原因は、すぐに判明した。
「おぢちゃん」
彼女は可愛らしい声でレオをそう呼んだ。
レオの体格と雰囲気から、彼女はレオのことを、先刻自分と遊んでくれた『優しいおぢちゃんたち』の仲間だと思っていたのである。
「沙羅、ちがうちがう。『おぢちゃん』じゃなくて『おねえちゃん』。言ってごらん」
言われて、少女は不思議そうにレオの顔を視つめた。可愛い眉間に皺が寄る。そして、
「……おぢちゃん」
気まずい間が、一瞬あたりを支配する。
「『おねえちゃん』」
「――おぢちゃん」
レオは、がっくりと肩を落とした。




