第14章 深まりゆく溝(1)
ジャスパーの一件以降、翼は、ルシファーとのあいだに溝を感じていた。
一見したところ、簡単に飛び越えられそうな幅のその溝は、埋めることが不可能な深淵を覗かせて、翼を暗鬱たる気分にさせた。
ルシファーの翼に対する態度は、以前と少しも変わらない。顔を合わせればごく普通に言葉を交わし、タイミングが合えば、ともに食事をすることもあった。
年齢にそぐわぬ成熟した精神を持ち合わせる彼は、完璧なコントロールのもと、つねに抑制を利かせた理性的な態度をもって他者に接した。その姿勢は、翼に対するときも崩れることはなかった。
けれど、会話の流れの中で時折見せる笑顔に反し、その瞳は冷たく醒めていた。そして、それに応じる翼自身も、相手に調子を合わせてなにごともないふり、なかったふりをしていた。
お互い、無理をしている。
体裁を取り繕うだけの、中身を伴わないうわべだけの親しみが、ひどく虚しかった。
「翼、ポリスへ帰るかい?」
唐突に訊かれて、翼は驚いて相棒を見返した。気遣うような口調と眼差しが、ここ最近の自分を見かねての提案だったことを物語っていた。
相棒に、いらぬ心配をかけている。未熟な己に不甲斐なさをおぼえつつ、翼はきっぱりとかぶりを振った。
「ごめん。大丈夫」
「けど――」
「まだ、なんの成果も上がってない。取材も、軍やスラム内での抗争のことも、シュナウザー局長のことも。それから、ジャスパーのことも……。まだ全部、中途半端なままだ」
そうだ、いまのままでは、なにもかもが中途半端だった。
口にしたことで、翼はあらためて実感した。そして痛感した。これでは、なにも書けない、と。
「心配かけてごめんね、レオ。でも大丈夫。これからもここに残って、自分なりに真実と思うものをちゃんと見極めるから」
静かに、だが、断固たる決意をこめて答えると、レオはそれ以上、なにも言わなかった。
彼らの滞在先の変更が言い渡されるのは、それからまもなくのことである。
「……え?」
翼は、自分の耳にしたことが信じられず、思わず訊き返した。
「ここは危険だ。今日かぎり、刹のところへ移ってもらう」
「え、でも……」
「向こうは了承済みだ。もう迎えにきてる。早く支度しろ」
部屋の入り口に立ったルシファーは、苛立ったように口早に告げた。ルシファーの顔を黙って見つめていた翼は、やがて諦めて荷物をまとめはじめた。
荷物といっても、もともと身ひとつでルシファーの許へ転がりこんだ翼である。持ち物はわずかしかない。身支度は、すぐに整った。
がらんとした殺風景な部屋を一度見まわして、翼は待っていたルシファーに視線を移した。ルシファーは無表情のままその視線を受け止めると、無言で彼を促した。
荷物を片手にルシファーのあとをついてゆく翼を、見知った顔がいくつも黙って見送っていた。
翼たちを迎えにきていたのは、刹と狼のふたりだった。レオはすでに、ふたりと合流しており、ルシファーに伴われて到着した翼が最後となった。
「じゃあ、客人は間違いなく俺が預かったよ」
「ああ、頼んだ」
短すぎる挨拶を済ませて、ルシファーは翼のほうを見もせず引き返そうとする。その後ろ姿を見て、翼はたまらず呼び止めた。
「ルシファー!」
モデルのような九頭身が、その声に無言で振り向いた。
「あの、またここに、戻ってこられるかな?」
躊躇いがちに尋ねた翼の顔を、ルシファーはじっと見つめた。そして、肩を竦めてそっけなく言った。
「さあな。状況次第だろ」
「そう……」
今度こそルシファーは、完全に翼に背を向けた。翼は、いつまでもその後ろ姿を見つめていた。
ジャスパーの盛った薬がなんであったのか、翼はついに、知ることはなかった。




