第13章 グレンフォード一族(4)
ジャスパーの一件以降、《セレスト・ブルー》におけるルシファーの存在は、ますますの畏怖をもって少年たちに絶対視されるようになった。
決して背くことは許されない。粟立つ戦慄とともに、彼らの胸裡には、いやというほどそのことが刻みつけられた。
緊迫した異様な空気は、数日ピリピリとたちこめ、少年たちは皆、一様に殺気立っていた。
そして、それを境にもうひとつ、ある噂がひそかに流れるようになっていた。
「なあ、キム、俺らいったい、いつまでこんなとこで燻ってなきゃならねえんだ?」
「さあてな、オレにそんなこと訊かれても答えようがねえな。どうしても知りたきゃ、テメエで直接軍曹に訊きな、グイド」
「訊けるもんならとっくに訊いてらあ。おっかなくって、そんな質問できっかよ。だいち、我らが隊長殿はいま、例の別嬪のケツ追っかけまわすのが忙しくて、とても俺らまでかまってる余裕はねえときたもんだ。まいったねえ。はじめのうちは、またいつものあの人の趣味の悪い冗談かと思って笑って見てたがよ、こうも毎日へらへらと嬉しそうにひっぱたかれてる姿見せつけられた日にゃ、情けなくて涙も出てこねえよ。いったいなにがどうしちまったってんだ。まさかあの軍曹が、本気であんな若僧に入れ揚げちまったってんじゃねえだろな? よせよ、冗談じゃねえぞ。俺はそんなのまっぴらごめんだ。ああ、やだやだ、俺はこんな物騒なとこ、とっととおさらばしてシャバに帰りてえ」
「なんだよグイド、いいトシこいた大の男がホームシックか? ママァ、おうちに帰りたいよぉ!ってか? よせよせ、みっともねえ」
「笑いごとじゃねえぞ、J.J.。俺ァマジでここのガキどもがおっかねえよ。奴ら、正気じゃねえ。てめえだってこのあいだ見ただろ。あんなチビ助1匹に、まるっきり容赦しねえでよ。隊長が追っかけまわしてるガキにしたって、顔色ひとつ変えやがらねえときた。ありゃ完璧イカレてるよ。まともな神経してたら、あんな真似、平然とできるわけがねえ」
「まあ、おめえの言いてえこた、わからんでもねえがな。どっちにしろ、奴らとは深く関わり合いにならねえのが上策ってもんだ。妙な噂も流れてることだしな」
「まったくだ」
同朋たちの言葉に、それまで無関心を装っていたキムが注意を向けた。
「なんだJ.J.、妙な噂ってのは?」
「知らねえのか、キム。このあいだのあの一件は、例の別嬪が画策したことだってよ、もっぱらの噂だぜ」
「なにバカ言ってんだ。なんだってあのクール・ビューティーが、んなマネしなきゃならねえ」
「だからよ、そこが問題なんじゃねえか。いいか、よく考えてみろ。いま、この状況下で、いちばん邪魔なのはだれだ? こういっちゃなんだが、連中にとって目障り極まりねえのは、あの新米記者じゃねえのか? 例の別嬪だって、あの坊主をやたら嫌ってたじゃねえか」
「そらま、たしかに」
「だろ? あの手のタイプは、邪魔者は絶対赦しちゃおかねえのよ」
「そおかあ? けど、だったらオレたちだって、相当に嫌われてんじゃねえのか? 軍曹筆頭によ」
「バカ、そこがおめえは浅はかなんだよ、キム。いいか、俺らとあの坊主じゃ、ここのボスの扱いが全然違うだろが。あんなひたむきにボスに尽くしてる人間にしてみりゃ、当然おもしろいわけがねえ」
「で、目障りだから消しちまおうってか?」
「そりゃ、あくまで建前よ」
「建前ェ? 建前って、いったいなんのよ?」
「いいか、キム、ここでひとつ、バカなおめえにでもわかる質問をするけどよ、あの別嬪に下僕のようにひっついてたのはだれだ?」
キムはムッとしたように相手を睨んで、ボソッと答えた。
「ビッグ・サムとかいう、ごついヤロウだろ」
「じゃあ、コトを起こしたのはだれだ? ジャスパーとかいうチビじゃなかったか?」
「……そうだ」
むっつりと頷いてから、キムは不意に眉を跳ね上げて身を乗り出した。
「ちょっと待て、たしかあのチビ助――」
「てめえにしちゃ上出来だ、キム。そういうこった。おまけにあのチビ、最後まで裏で手を引いてる主犯格の名を明かさなかったな。これがなにを意味してるか、皆まで言わなくてもわかるだろう。あの事件の直後に、奴はテメエのシマにさっさと帰っちまった。ついでに言うなら、チビ助にとどめを刺したのは、だれだ?」
キムは、ゴクリと息を呑みこんだ。その顔を見て、J.J.は満足げにつづけた。
「ボスの命令に従ったってのは、あくまで建前よ」
「なるほど、ボスのために邪魔者を排除しようとしたってわけか。でもって、口封じのために、しくじったチビどもを処刑と見せかけて始末した。如何にもあの綺麗な兄ちゃんのやりそうなこった」
「いや、そいつも全然あてはまらねえ」
「はあ? なんでだよ?」
「タコッ、アホ面さげてねえで、ちったあない脳みそ絞れよ。そのでけえ頭ん中は空洞か」
「でけえ頭だけ余計だよ。いいから勿体ぶらずに教えろ」
「チッ、ったく、しょうがねえな。いいか、耳の穴かっぽじって、よーく聞けよ。あれで、いっちばあん損をしたのはだれだ? ガキどもの動揺っぷり見りゃ、いっぱつでわかんだろが。いくら罪人崩れのクソガキどもの集団ったってよ、限度があらあな。どんだけご立派なボスだか知んねえが、あんな恐怖政治強いちまっちゃあ終ェだね。従うもんだってついてこなくならあ。でもってトップの座が危うくなりゃ、後釜狙うほうにしてみりゃ、あとはテメエの野心と実力次第でどうにでも料理できるってもんよ」
「……なんだそりゃ。はじめに言ってたけなげな腹心ってのと、話の辻褄が全然合わねえじゃねえか」
「んなの決まってんだろがよ。よーするに、『可愛さあまって』ってヤツだよ。三角関係にゃありがちな話じゃねえか。報われねえ想いに嫌気がさして、『だったらいっそのこと……』って思いつめちまったのよ。そんくれえ一途だったってこったろ」
まじまじと朋友の顔を見つめていたキムは、やがて鼻を鳴らして口唇を歪めた。
「ヘッ、なんの話かと思やバカバカしい。てめえの脳みそこそ腐ってんじゃねえのか。どこどう想像力働かせりゃ、そんなくだらねえ三文話が出てくるよ? 平和ボケして妄想の世界にトリップしたっきり、現実に戻ってこれなくなってんじゃねえのか?」
「ぬかせっ、平和ボケしてんのはてめえのほうだ、キム。余裕こいてへらへら笑ってられんのもいまのうちだよ。俺の情報はピカイチ、これっぽちも妄想なんかじゃねえ。奴ら自身が噂してんのを、この俺様がじかに小耳に挟んだんだからな」
「ほおお、そいつはたいした諜報力だ」
「いやあ、それほどでもねえけどよ。まあ、この俺がチラッと本気出しゃこんなも――」
得意げに言いかけたセリフが半ばで消え、顔中に張りついた笑顔がそのまま硬直した。
正面にいるキムはいま、口を開いていない。独特の皮肉と諧謔を含んだ声は、間違いなく真後ろから聞こえた。
おそるおそる振り返ったJ.J.は、
「ひえっ、ぐぐっ、ぐっ、ぐんそおぉぉぉッ!!」
ひっくりかえった悲鳴を放って、コアラのようにすぐわきにいたホセに飛びついた。
「随分愉しそうな話してたじゃねえか。俺もまぜろよ」
口の端に銜えていた煙草を指のあいだに移して、ザイアッドは危険な笑みを浮かべた。
「恐怖政治がなんだって? 俺の大事なハニーの噂話にしちゃ、ちょいと題目が物騒じゃねえか、え、J.J.?」
「い、いや、その……、へへへへ」
愛想笑いを浮かべたJ.J.の顔がひきつる。ザイアッドの口許から、すっと笑みが引いた。
「っの、うすらばかどもがっ! てめえら、いつから暇もてあました主婦に成り下がったっ!? こんなところでくだらねえ井戸端会議開いて、ピーチクパーチク囀ってる暇があったら、ちったあ躰のひとつも鍛えなおしとけっ!」
怒号されて、一同はヒッと首を竦めた。
彼らにとって、ザイアッドの恐さは訓練生時代の鬼教官などの比ではない。長年の付き合いで、その強さ、性情を知りつくしているだけに、彼らの部隊長の逆鱗に触れたときの恐怖もまたひとしおであった。
「ったく、情けねえ。どいつもこいつも、テメエの立場がまるっきりわかってねえときた。不用心にでけえ声で与太こいて、それがここの連中の耳にチラッとでも入ってみろ。どんな事態になるかぐれえ、貴様らのお粗末なおつむでも簡単に想像つくだろが。『いやあ、ごめんね、ちょっと小耳に挟んだもんだから』、で済むわきゃねえだろっ。一殺多戒を是とする奴らの流儀が、俺らにまで通用すると思うなよ。俺たちゃあくまでヨソモンよ。テメエの身をテメエで守んねえでどうするよ。だらけすぎだ、てめえら。緊張感がたんねえんだよ、緊張感が! それでもプロか、ボケカスがっ!」
毎日デレデレと男の尻を追いかけまわしている当人の所業が完全に棚上げにされていることは、たとえ気づいていてもだれも指摘できなかった。
ともあれ、荒くれぞろいの無骨な大男たちが、そろいもそろって借りてきた猫よろしく神妙に説教されている姿は、ある意味、壮観であったかもしれない。
ザイアッドは、直立不動の部下たちを傲然と睥睨した。
「生命が惜しかったら、今後、余計な無駄口はいっさいたたくんじゃねえぞ。いいなっ」
「イエッサッ!」
全員の最敬礼を受けて、ザイアッドは不快そうにフンと鼻を鳴らすと、手にしていた煙草を床に投げ捨てて軍靴で踏み潰した。そして、手近にいた部下の襟首を乱暴に掴んで引き寄せ、ごく至近で最後のとどめを刺した。
「てめえのその羽毛より軽い口、もういっぺんでも滑らしてみやがれ、二度と愉しい話ができねえように、顎の骨、こなごなに砕いてやるからな」
殺気の漲った低い恫喝に、気の毒な部下は全身から冷や汗を噴き出させながら夢中で頷いた。掴んだとき同様乱暴に突き放すと、ザイアッドは部下たちを残して姿を消した。
ザイアッドの気配が完全に消えると、一同は緊張を解いてへなへなとへたりこんだ。
「マジでぶっとばされるかと思った……」
突き飛ばされたまま腰を抜かしていたJ.J.が、息を喘がせて茫然と呟いた。
「今日は格別、機嫌悪かったな。なんかあったのか、隊長?」
「やっぱ、あの別嬪とうまくいってねえせえじゃねえか? なんたって、これまでが百戦錬磨だからよ、あの人」
骨身に染みている恐怖に、遠慮するような小声がこそこそとあがる。そんな仲間たちを見て、キムが呆れたように呟いた。
「おめえらがバカなんだよ」
「なんだキム、てめえだけ利口みてえな知ったふうな口利きやがって」
「べつにそんなつもりはねえよ。ただ、いまの話は軍曹の言い分が正しいと思うだけのこった。オレらはヨソモンだ。余計なことに首つっこんだり、妙なことに巻きこまれたりしねえよう、細心の注意は払うべきだな」
副隊長の落ち着いた声に説諭されて、隊員たちは一転、神妙に自分たちの軽率さを反省した。
ザイアッドの片腕は、やはりキムでなければ務まらない。皆があらためて自分たちの副隊長を見直したところでキムが口を開いた。
「ところでよ、『イッサツタカイ』ってなんだ?」
副隊長の質問に応えた者は、だれもいなかった。




