第13章 グレンフォード一族(2)
「本当にあの子にも困ったものだこと」
苦々しさの中にも多少の愛情を滲ませながら、マグダレーナ・G・ポートマンは言った。ミドルネームのGは、むろん、グレンフォードである。
グレンフォード家の長女として誕生した彼女も、すでに40代後半にさしかかっており、成人したふたりの息子を持つ母の身である。ただし、彼女がいましがた発した言葉は、愛息のいずれかに対して向けたものではない。贅を尽くした自邸の客間に、彼女はちょうど、若い女性客を迎えたところであった。
「こんな可愛い婚約者をほったらかしにして、いつまでも野蛮な土地で役人稼業に精を出しているあの子の気が知れないわね。おまけに、名乗っているのは本名ではなくて母方の姓。貴女も少しはなにか言っておやりなさいな。文句を言っても、罰は当たらなくてよ」
見事な芳香を放つお茶を、手ずからカップに注いで女性客に勧めながら、マグダレーナはさらに言い募った。女性客は、温雅な微笑を浮かべながら、わずかに首をかしげた。
「文句だなんて、そんな。わたくし、不満なんて少しも抱いてませんわ」
「まあ、ベル、貴女優しすぎるわ。男をつけあがらせてはダメよ、すぐ調子に乗るのだから。つらい思いをするのは、いつだってわたしたち女なんですからね。貴女もいまのうちに、しっかり手綱を引き締めておおきなさい」
「それは、ご自身の経験からご忠告くださってるんですの、ポートマン夫人?」
「ええ、そのとおり。ポートマンと結婚したとき、わたしはまだ18だったのだもの。夫はすでに41。世間知らずの小娘が、世知に長けた四十男に、到底かなうはずもないでしょう? いいように言いくるめられて誤魔化されているうちに、夫はいつだって外で好き放題に振る舞ってたわ。おかげでこっちは、どれだけ辛酸を舐めたことか」
マグダレーナの言葉に、女性客、アナベル・シルヴァースタインはくすくすと笑った。
《メガロポリス》にあって、唯一グレンフォードを凌ぐと言われる来歴と権勢を誇る名家中の名家、シルヴァースタイン家。彼女はその、高貴なる血統を受け継ぐ一族の、傍流筋にあたる家柄の令嬢であった。
「あらあら、笑いごとではないことよ、ベル。貴女がそんなふうに甘い顔をしているから弟がつけあがるのだわ。ああ、でも、いちばんいけないのはやはり父だわね。あの子を溺愛するあまり、甘やかしすぎたのだと思うわ。いつまでたっても好き勝手なことばかりしていて、本当に困った子だこと」
マグダレーナは嘆息した。
「アナベル、貴女には心から申し訳なく思っていてよ。わたしの力でもう少しなんとかしてあげられたらよいのでしょうけど、なんせ当人が、いつまでたってもあの調子でしょう? 父にしても、いましばらくあれの好きにさせてやれと言うばかりで、わたしなどが少しくらいうるさく言ったところで全然ダメ。まるで聞く耳を持ってくれないのよ」
「わたくしなら大丈夫です」
アナベルは穏やかに言った。
「正直、結婚はそれほど急がなくてもいいと思ってますもの。アドルフ様はお優しい方ですわ。いつでもわたくしのような者にこまやかな心くばりをしてくださいます。わたくし、むしろ感謝してるんです」
彼女にはかつて、おなじシルヴァースタイン家の流れを汲む許婚の存在があった。娘の誕生と同時に、両家の親同士が勝手に取り交わした約束事ではあったが、アナベルは、それでも親の定めた結婚相手に充分満足していた。6歳年長の許婚をいつも追い慕い、彼の花嫁となれる日を指折り夢見ていた。
端整な容姿と洗練された落ち着きのある立ち居振る舞い。優秀で優しかった自慢の従兄。
彼女は少しも疑わなかった。自分を愛しんでくれたはずのその優しい許婚が、なにもかもを捨て去って、ある日突然、自分のまえから姿を消してしまうなど。
そんな馬鹿げたことは、あり得るはずがないと思っていた。
彼女は信じなかった。一族中がやがて彼を見放し、諦めたあとも。彼女だけは信じつづけた。いつの日か従兄は、自分の許へ戻ってくるに違いないと。
だれの言葉にも耳を貸さず、彼女は自分が慕う唯一の相手をひたすら想いつづけた。そして結局、彼女が事実を受け容れるまでに、6年という長い月日を要さなければならなかった。
アナベルがようやく気持ちの整理をつけ、持ち上がったアドルフ・グレンフォードとの縁談話に首を縦に振ったのは、つい半年ほどまえのことである。
「気にしてはダメよ、ベル。貴女はなにも悪くないのだから」
いたわるようなマグダレーナの眼差しに、アナベルは謐かに頷いた。
「もう、忘れることにします」
「そうね、それがいちばんだわ。貴女は本当に素敵な女性よ、ベル。できれば、うちの息子のお嫁さんに欲しいくらい」
「ありがとうございます。でも、わたくしみたいな年上の女では、御子息にお気の毒だと思いますわ」
「まあ、年上だなんて。貴女まだ27じゃないの、ベル。息子だって上はもうじき25ですもの。ひとつやふたつぐらい、年の差のうちに入らないわよ。第一、それだったら9つも上のおじさんと結婚しなきゃならない貴女のほうが、よほど気の毒だわ」
「まあ、マグダレーナ様ったら」
マグダレーナの言葉に、アナベルはかろやかな笑い声をあげた。
「アドルフ様は、まだ充分お若いですわ」
「そうね、年齢はともかく、あの子もまだまだ子供だわね。少しはわたしの苦労を理解して、手助けしてくれると助かるのだけれど」
女帝の風格を漂わせる女主人の顔に、ふと苦渋の色が滲んだ。
「ほんというとね、父もそろそろあの子に戻ってきてほしいのだと思うの。財閥名誉会長としてまだまだ覇気は失っていないけど、いくら矍鑠としているとはいえ、もう年も年でしょう? 口に出してはなにも言わないけれど、自分が元気でいるうちに、アドルフに総裁職を引き継がせて、早く安心したいのだと思うわ。わたしもね、できれば財閥のことは、よいかげんにあの子に任せたいというのが本音」
ウィンストン・グレンフォードの引退後、その意向を受け継いで組織を取り仕切り、中心となって財閥を護ってきたのは、父親の血をもっとも濃く引くと言われる長女マグダレーナである。前総裁を彷彿とさせる経営センスとその才幹、器量を惜しんで、ぜひマグダレーナを次期総裁にという声も少なくはない。しかし、財閥役員として上位に名を連ね、総裁次々候補に挙げられている彼女の最優先事項は、父ウィンストン同様、あくまで末弟の総裁就任にあった。
「所詮、女のすることですもの。限界がありますわ」
彼女はいつでもそう言って恬然と笑うばかりで、組織代表者代理に徹する姿勢を崩さなかった。
「でも、考えてみれば随分と勝手な話だわね」
マグダレーナは自嘲的に呟いた。
「父があの子を甘やかしすぎたせいだと言ったけれど、いけないのは父ばかりではないわね。わたしたちは皆、あの子に期待をかけすぎてしまったのかもしれないわ。あの子にしてみたら、上に13人も兄姉がそろっていながら、だれひとりとして父の期待に応えきれなかったのですもの。不甲斐ないことこのうえなかったでしょう。
皆で寄ってたかって押しつけた境遇を、あの子は静かに甘んじて受け容れた。そして、それに応えるための努力をするばかりで、不満ひとつ漏らすでもなかったけれど、皆の期待が大きかったぶん、重圧も計り知れないものがあったのだと思うわ。たったひとりでその重責に耐えて耐えて、その挙げ句に、あの子なりの精一杯の抵抗を試みたのでしょう」
「アドルフ様は、ご自分のお立場を充分理解しておいでだと思います」
「ええ、そうね。貴女の言うとおりよ、ベル。あの子は昔から聞きわけの良い子だったわ。そしていまも、それは変わらないまま。あの子は最初からちゃんと、なにもかもわかっていたのよ。もうじき、あの子は戻ってくるでしょう。言っても詮ないことだけれど、本当は、6年前のあの事故さえなければ、あの子はとうに戻ってきていたはずだったのだわ」
マグダレーナの言う『事故』が、ウィンストン・グレンフォードの二番目の妻、イザベラの死に繋がる一連の出来事を指していることは、アナベルにもすぐに察しがついた。
当代を誇ると謳われた美貌の持ち主であるイザベラ・グレンフォードの突然の非業の死は、一時、《メガロポリス》中の報道機関を大混乱に陥れるほどの大事件として脚光を浴びた。
死因は、事故そのものとは関連性のない、かねてからの心臓疾患に起因するものである。財閥スポークスマンを通じてそう正式発表がなされたものの、詳細に関して、一族はいっさい口を閉ざし、結局、それ以上のことが公にされることはなかった。
前妻のときとは異なり、ウィンストンはイザベラとのあいだにひとりの男児を儲けていた。グレンフォード家の末子とは、実際にはイザベラの生んだこの男児になるのだが、その息子も、じつはこの『事故』のおりに母と前後するかたちで『不慮の死』を遂げている。
継子たちとの不和や確執、一族同士の財産争い、他殺説などもひそかに囁かれたが、彼らはあくまで沈黙を守りとおし、真実は闇の中に秘匿された。
事件の真相は、いまなおグレンフォード一族の中でもごく限られた、一部の者たちの胸の裡にあるのみである。
「あれは、我が一族最大にして最悪の瑕瑾です」
マグダレーナは、厳然たる口調で述懐した。
真実を知らぬアナベルは、それについて返答のしようもない。事件とアドルフ・グレンフォードの関わりもさることながら、それによって、なぜアドルフの総裁就任が今日まで引き伸ばされつづけているのか、その理由すら聞かされていない。したがって、彼女としては沈黙する以外に術がなかったのだが、その沈黙をどう受け取ったのか、マグダレーナは不意に、表情をなごませて言葉を補った。
「もっとも、イザベラのことについては、わたしも心から気の毒に思っているのよ。一部では、彼女とわたしたちとが憎み合って、骨肉の争いを繰り広げていたように思われているようだけれど、実際、わたしたちは彼女とそれほどの接触はなかったのだもの。争いようもなかったわ」
「そうでしたの」
「ええ。彼女は殆ど本邸に籠もっておもてに出てくることはなかったし、わたしたちはすでに、お互いがそれぞれ仕事や家庭を持っていたでしょう? 信じられないでしょうけど、わたしたちが彼女と言葉を交わしたことなんて、彼女が父の後妻におさまってから十数年のあいだでほんの数回、数えるほどしかなかったわ。父の再婚には皆、猛反対したけれど、彼女のことを格別に憎むような人間はだれもいなかった。むろん、彼女の息子――まあ、わたしたちの弟ということになるのでしょうけど、彼についても同様だったわ。なぜって、あまり公言できることではないけれど、わたしたち兄弟そのものが、そもそも全員母親が違うのですもの。たとえ正妻の子供であろうと、いまさらもうひとり増えたところで、どうということはなかったのよ」
「その御子息も、グレンフォード夫人同様、あまりおもてには出ていらっしゃらなかったように記憶しておりますけれど」
「それは、母親が片時も手もとから放したがらなかったせい。本来なら、わたしたち同様に、財閥継承者のひとりとして、幼いころから徹底した英才教育を施されるはずだったのでしょう。でも、すでにアドルフがいたこともあって、父がイザベラの望みを聞き入れたために、専門の教育係をつけるにとどまったらしいわ。
『事故』のときは、まだたった14歳。母親譲りの、恐いくらいに美しい貌立ちをした少年だった。家に閉じこめられて、限られた教育しか受けられなかったことが惜しまれるほど、頭脳もずば抜けて明晰で優秀だったそうよ。関わりが希薄すぎたせいで、『弟』として愛情を感じることはないけれど、偽善でもなんでもなく、可哀想な子だったと思うわ……」
言って、マグダレーナは目を伏せた。
「マグダレーナ様」
ややあって、アナベルは口を開いた。
「わたくし、近いうちに一度、アドルフ様の許をお訪ねしてみようかと思ってますの」
「まあ、それはいいこと」
マグダレーナは一も二もなく彼女の提案に賛同した。
「ぜひ、そうなさいな。あの子も愛らしい婚約者の顔を見れば、少しは故郷が懐かしくなるでしょうよ。この際、うんと我儘を言って甘えておやりなさい」
華やいだ表情で言うマグダレーナに、アナベルは微笑で応えた。
彼女を地上へ呼び寄せるべく連絡をよこしたのが、ほかでもないアドルフ自身であることを、アナベルは口にしなかった。




