第12章 堕ちた光(6)
薄暗い廊下の向こうに、うっすらとしたほの灯りが漏れている。あたりに人の気配はない。
シンと静まりかえった晦冥の中を、翼は、その薄明かりだけを道標に、ひそやかに進んだ。澱んだ、嫌な空気が肌に纏わりつくようで、自然、その足は早まった。
申し訳程度の照明が灯る一室。ドアのない、かたちばかりの入り口のまえまで来て、翼はふと、その足を止めた。無人だとばかり思っていた室内には、意外すぎる人物の姿があった。
艶やかな黒髪を美しく結い上げ、きらびやかな宝石と、深紅の豪奢なイブニングドレスに身を包んだ女。
床の上にじかに座るその膝の上に、身体をまるめて眠る、小さな生き物の姿があった。
「焼き菓子作りなんて乙女チックなことしたの、生まれてはじめてだったわ」
気配でそれと察したのだろう。女は顔も上げず、やわらかな毛皮の感触を楽しむように優しく仔犬を撫でながら、囁くような声で言った。
「きっと、最初で最後の貴重な体験。母親になんて、あたしはたぶん、一生なれない。いつだって自分がいちばんじゃなきゃ、イヤな女だから。それなのに、この子ったらあたしのこと、死んだ母親の生まれ変わりだって本気で信じてた。ばかみたい。母親が生きてたころにはあたし、もうとっくに生まれてたわよ。第一、あたしのほうがずっと美人に決まってるじゃないねえ? 一緒にするなっての。ほんと、迷惑もいいとこ。あたしにしたって、こんな大きな子供、産めやしないわよ。あたし、この子と十も離れてないのよ? お笑いよね。そんなわけないじゃないねえ? いくらなんでも、ちょっと考えればそのぐらいわかりそうなもんだわよ。それなのに、この子ったら頭っからそれ信じちゃってさ。完璧そうなんだって思いこんじゃってた。冗談じゃないわよ。あたし、そのころまだ、バリバリの処女だったわ。生理だってはじまってなかった。あたしだって、まだ子供だったのよ」
女の俯く角度が、より深くなる。
「――バカな子。自分のほうがよっぽどキレイな蝶に羽化できる要素持ってたのに、ちっとも気づかないで、あたしみたいな女に憧れて、女神か聖母みたいに思ってたなんて。こんなスレた聖母様なんて、いるわけないじゃない」
だが、それでも女の纏う衣装は、燃えるような紅でありつづけた。まるで、この世にその色ただ一色しか存在しないかのように――
少年の母親が、『お姫様』のように見えたというドレスの色。
彼女が身につける色は、いつだって鮮やかな、深い紅ただひとつだった。
「――もっと優しくしてあげればよかった、なんて、イイ人ぶったこと言わないわ。どうせあたしには、できっこないもの。鬱陶しいだけよ。……子供なんて嫌い」
言って、女は仔犬を抱き上げると立ち上がった。
きつい眼差しで前方を見据え、ツンと顎を反らして女王のように毅然と部屋を出ていく。
すれ違いざま、女はぽつり、と漏らした。
「もう、紅い服は着ないわ……」
女は消えた。
翼は、その気配が完全になくなるのを待って、ゆっくりと入室した。
女の座っていたその向こうに、薄い、使い古された毛布が敷きひろげられている。少年は、その上に横たえられていた。
近づいて、その顔が薄暗がりの中ではっきり見える位置まで来て、青年はハッとした。
かすかに笑みを湛えたような、安らかな顔。
女の仕業なのだろう。綺麗に死に化粧を施され、髪をなでつけられたその顔は、翼のよく見知っている、しかし、いまはじめてはっきりと認識した、別の――少女のものであった。
同世代の少年たちよりずっと華奢で小さかったジャスパー。同時にその身体は、同世代の少女たちと比べたとしても、やはり小柄で、遙かに未発達であった。
だが、こうしてあらためてみれば、その薄い胸にはかすかな膨らみが看て取れる。
母親に虐待され、その恋人たちに暴力をふるわれつづけた幼い日々。自分に向かって伸ばされる他人の手に、過剰なまでに怯え、身を竦ませたその意味が、いまさらのように胸に迫って、翼はグッと奥歯を噛みしめた。
わからなかった。少しも、気づいてやれなかった。
少女が、なにを思い、なにを見つめて独り、生きていたのか。
生前、将来なにになりたいかと何気なく尋ねたことがあった。ジャスパーは、躊躇うことなく答えた。翼のようになりたい、と。
ジャーナリストになりたいのかと訊き返した翼に、ジャスパーは笑ってそうではないと首を振った。幸せそうな奥さんがいて、可愛い赤ちゃんがいて、優しい、奥さんと子供を心から愛しているお父さんがいる。そういうことに憧れているのだ、と。
あたたかな、心やすらげる家庭を持って、愛する者たちに囲まれ、優しい夫、いい父親としてその家族を大切に守っていきたい。『少年』が望んでいるのは、そういうことなのだと翼は解釈した。
いつか君も、素敵な女の子と巡り逢えるよ。君の未来は、まだこれからだもの。
安易に請け合った翼の言葉に、一瞬、ジャスパーはキョトンとした顔をした。そして、その表情を翼が訝しむまもなく、にっこりと笑って頷いた。
「うん、そうだよね」
翼が勘違いをしていることを、ジャスパーはちゃんと理解していた。自分に、そのような未来が訪れることも、おそらくはないのだ、ということも――
翼は、なにも知らなかった。なにも、気づいてはいなかった。
『少年』が夢見ていた未来の中で、『彼』が、自分のどのような姿を思い描いていたのかということを。
ジャスパーが、ビッグ・サムに対して抱いていたひそやかな想いがなんだったのかを、翼はようやく知った。それは、兄に対するものではなく、ましてや、父親に対するようなものでもない。
少女の中で、想いはひっそりと、しかし、よりたしかなものとして育まれつつあったのだ。
『翼のようになりたい』
いつか見せた、妻と娘の写真が大のお気に入りだった。
おそらく少女は、そこに訪れることのない未来を映し、自分の姿を重ね合わせて、ささやかな幸福に浸ったのだろう。
愛する家族、可愛い子供、優しい夫、幸福な、妻―――
「おれ、翼みたいに、なりたいな……」
そう言って、はにかんだように笑ったジャスパーはもういない。
翼は、歔いた。




