第12章 堕ちた光(5)
翼はその午後、罅割れたコンクリートが剥き出しになっている、狭い鍵つき部屋に監禁され、そのまま捨て置かれた。レオが幾度かルシファーに談判を持ちかけたものの、要請はいっさい受けつけられなかったという。
「すまないね、翼。もう少しだけ辛抱しておくれ。もうちょっとネバッて、掛け合ってみるからさ」
ドア越しにレオが申し訳なさそうに言うのを聞いても、翼は答えなかった。
絶望と、深い悲しみが心を支配する。
『ごめんね……』
囁いて、寂しげな笑みを浮かべた少年の顔が脳裡に焼きついて離れない。自分はなんと無力なのか。なぜ、むざむざ目の前であの少年を殺させてしまったのだろう。なぜ、もっと必死になって救おうとしなかったのだろうか。
自責の念とともに、彼は、信じた者たちに裏切られた気がしていた。
レオ、デリンジャー、ザイアッド、ビッグ・サム。
彼らは皆、あの場に居合わせながら、自分の懸命の命乞いに同調もせず、かよわい少年を見放し、見殺しにした。救いの手を差し伸べるそぶりすら、見せなかった。
引き金が引かれるその瞬間まで、翼は、シヴァですら、そこまで惨い真似は決してすまいと信じていた。
だが、翼は、そのだれにもまして、たったひとりを恕すことができなかった。
ルシファー……。
翼は彼に、全幅の信頼を寄せていた。出逢ってから今日まで、その人間性を疑ったことは一度もなかった。スラムの頂点に立つ存在が、恐怖や暴力のみで弱者を虐げ、支配するようなことはない。一点の曇りもなく、そう信じてきた。だが、揺るぎないその思いを、彼はみずから叩き壊し、踏みにじった。
自分を見つめた冷ややかな眼差しが、翼の心を深く抉る。
信じられない仕打ちが、翼の思いを引き裂く。
信じたくないと思う反面で、ルシファーに対する失望と怒りがこみあげてくる。
絶望に打ちのめされ、翼は孤独の闇の中で己の無力を呪った。
鍵が開けられ、食事が運ばれてきたのは、深夜に近い時刻になってからだった。
トレイを片手に、入り口に佇む人物の姿を見るなり、翼の悲哀が弾け飛んだ。
「悪いけど、いまは顔も見たくない。食事なんていらないから出てってくれない?」
部屋の隅に蹲り、瞋恚も露わに睨みつける翼を、シヴァは蔑如をこめて冷ややかに見下ろした。
「なにか勘違いしているようですけど、憎しみを向ける先が違うんじゃありませんか?」
「勘違い?」
「生命を救ってもらっておきながら、ボスを逆恨みすること自体が間違いだと言ってるんです。自分をどれほどお偉い存在だと思ってるのか知りませんが、増長もほどほどにするんですね」
その言葉に、翼はカッと逆上した。
「余計なお世話だっ! 君なんかに言われたくないよ、そんなことっ。いつも人を見下してる君にしてみれば、ジャスパーの生命なんて虫けら同然の価値しかなかったのかもしれないけどね、それでも僕に言わせれば、あの子のほうがずっとまっとうで、生きるに値する人間だった。あの子はいつだって一生懸命生きてた。君やルシファーなんかが勝手に奪っていい生命じゃなかった。
助けてやったんだからふてくされてないで感謝しろって!? 泣いて這い蹲ってありがたがれば、それで君は満足? 冗談じゃないっ、だれが感謝なんかするもんかっ! 助けてくれなんて頼んだおぼえは一度もないし、君らなんかに助けられるくらいなら死んだほうがマシだったよ! 君らは僕を助けたんじゃない。僕を利用したんじゃないか。そのくらい僕にだってわかる。それでも恩を売る? 助けてやったのは自分たちだなんて、よく平然と権高に言えるよ。
君もルシファーも気狂いとしか思えない。どうかしてる。とても正気の沙汰じゃない。こんなところで自分たちの世界に閉じ籠もって、自分たちの世界だけで自己完結してるからおかしくなってくるんだ。みんな狂ってる。みんなおかしい。僕は絶対に君たちの正しさを認めない。《ルシファー》なんて認めないっ!」
立ち上がって叫んだ翼の耳もとで風が唸りをあげ、すぐ背後で凄まじい破壊音が炸裂した。翼の科白に激昂したシヴァが、トレイを振り翳して皿ごと投げつけたのである。
美貌の青年は、慄える拳を握りしめて肩で息を繰り返し、射貫くような鋭い視線を翼に向けた。
「勝手に押しかけてきて居座っておきながら、勝手なことを……っ。おまえに私たちのなにがわかる。おまえにあの人のなにがわかるっ!? おまえなどが汚らわしいその口であの人を貶めることは恕さない、絶対にっ! 二度があると思うな。この次そんな口を利けば、必ずその場でその口、引き裂いてやるっ!」
憎悪の感情を剥き出しにして放言すると、シヴァは足音も荒くその場を立ち去っていった。
取り残された翼は、呆然と座りこんだ。
翼は、たしかに怒っていた。無情な命令を下したルシファーに対して。そしてそれを諌めもせず、命ぜられるまま実行したシヴァに対して。
だが、なぜなのだろう。あのとき、そのことについて感情の揺れさえ見せることのなかったシヴァのほうが、いま、遙かに少年の死に対して傷ついているように見えたのは。
まるで、そうすることのできない相手のために、かわって自分が怒り、苦しんでいるかのように――
「まったくしょうがないわねえ、あいつも」
苦笑まじりの声がして、開け放たれたドアの陰から黒い巨体が姿を現した。虚ろな瞳が、無意識にその姿をとらえる。放心する翼を見下ろして、デリンジャーは今度こそ本当に苦笑した。
「大人気ないし、見かけによらず気が短いのよ、うちの副将は。でも、どっちもどっちかしら。あんたも結構、言いたいこと言ってたものね」
翼は、目を伏せた。
「――僕の言ったこと、間違ってた?」
「シヴァに言ったこと? それともボスに向かって言ったこと?」
「……どっちも」
「それをあたしに訊いちゃうわけ?」
あんたも随分だわねと、怒っている様子でもなくぼやいて、デリンジャーは声もなく笑った。
「あたしにはわかんないわ、そんな難しいこと。人を殺めることは悪いこと。人を傷つけるのも悪いこと。事の善悪を判断するのは簡単かもしれないけど、果たしてそれが正しいか正しくないか、間違ってるか間違ってないかってことになると、物事はそう単純じゃないものね」
金髪の黒人は、そう言って小さく肩を竦めた。
「人がなにかの行動を起こすとき、そこにはそれを行う人間の意志とか思惑とか感情があって、複雑に周囲と絡み合ってるでしょう? たとえ傍から見て、『正義』っていう概念からかけ離れてたとしても、本人にとってはどうしてもしなければならないことの場合もあるわ。悪いことだとわかっていても選択しなきゃならないことなんて、人生いくらでもある。そうじゃない?」
「……そうかもしれない。でも、ジャスパーは――」
言いさして、結局翼は口を噤んだ。
少年が、自分に対してなぜあんな真似をしたのか、翼にはわからなかった。きっと、少年には少年なりの理由があったのだろう。彼のしたことは、ひとつ間違えれば大きな事故に繋がったかもしれない。だが、それでもその罪が死に値するなど、翼にはどうしても納得できなかった。
デリンジャーは、そんな翼を見て軽く息をついた。そして言った。
「あの子はどのみち、助からなかったわ」
ハッとして翼は顔を上げた。
「生まれつき、遺伝子異常っていう厄介事を抱えこんで生まれてきちゃった子なの。可哀想だけど、あれが限界だったのよ」
「……それは、専門家としての意見? ――ドクター……、ジョー・ハロルド」
須臾の間、デリンジャーは翼の顔を無言で見つめ、やがてきっぱりと頷いた。「そうよ、これは専門家としての意見」と。
翼が口にした名前は、遺伝子工学の権威として名高い、医学博士のものであった。
ドクター・ジョー・ハロルド。
史上最年少にして《メガロポリス》最高の医学賞を受賞し、数々の人民栄誉賞を総嘗めにして将来を嘱望された天才学者。
だれもが彼の蓋世の才を称えた。だれもが彼の研究成果に期待を寄せた。彼の未来は栄光に満ち、燦然と輝く幸運に彩られているかに見えた。
そしてそんなある日、世界でもっとも有名な若き天才学者は、忽然と《メガロポリス》から姿を消した。
国家機密に関わるような事件に巻きこまれて、何者かに拉致されたのかもしれない。才能を妬む者の逆恨みによって、未来を断たれてしまったのかもしれない。
世界的英雄の謎の失踪に、《メガロポリス》中が騒然と色めき立ち、懸命の捜索活動が展開された。だが結局、捜索隊の努力は報われず、謎は謎のままに迷宮入りとなって、いつしか人々の記憶からもその存在は忘れ去られつつあった。
もう、6年近くもまえの出来事である――
「もっと医療設備の整ったところで治療を受けられたなら、あの子はもう少し長く生きられたかもしれない」
デリンジャーは、なにごともなかったかのようにつづけた。
「でも、これはあくまで推測の話だし、救えると思うこと自体が傲慢甚だしい考えだわね。医学レベルなんて、人間が思っているほどには進歩してないもの。それに、あの子自身、そんなこと少しも望んじゃいなかった。
こんなことを言うのは、ほんとは反則かもしれない。でも、このままなにも知らずにいたら、あなたは苦しいでしょう? そして、きっと、ルシファーもつらいわ。だから言うけど、もし、この先生き延びることがかなったとしても、ジャスパーにはつらいばかりの毎日しか残されてなかった。ほんの束の間の小康状態を過ぎれば、あとは苦しい日々がつづくだけ。少しずつ躰が衰弱して、死んでゆくのをただ待つことしかできない。そういう状況だったの。それが、ビッグ・サムがセレストに留まっていた本当の理由」
「でも、それだったらどうしてもっと……」
「ジャスパーをかまってやらなかったのかって? そうね。でも、それがたぶん、あの男なりの優しさだったんでしょうよ。好きで手放したわけじゃないけど、それでもあの子がセレストの一員となった以上、あの子はここで、自分なりにうまくやっていかなきゃならない。突き放したふりをして見守って、いつも病状を気にかけてたわ。きっと、預けたあたしへの手前もあって、必要以上に関わることを躊躇ったんでしょうね。自分が急に態度を変えることで、ジャスパーがはっきりとした死期をさとってしまうことも怖れてた」
「――ジャスパーはこのことを?」
「あたしの口からはっきり言ったことはなかったわ。でも、たぶんわかってたんじゃないかしら。明敏な子だったから」
「ルシファーも、知ってたんだね」
「……ええ、知ってたわ」
デリンジャーは、腕を組んで壁に躰を凭せ掛けたままの姿勢で頷いた。
「そう……」
翼は目を伏せた。
「ジャスパーは、だからこそ恰好の見せしめだったの。ボスのしたことは、たしかに残酷だわね。それであんたがあの人を恕せないと思うなら、それもしかたのないことだとあたしは思うわ」
デリンジャーの言葉に、翼は答えられなかった。デリンジャーは、静謐な眼差しで青年を見つめた。そして、静かに口を開いた。
「ジャスパーと、最後のお別れをしてやって。きっと待ってるわ。あの子、あなたのことが大好きだったから。北側の、いちばん奥の階段を下りた、つきあたりの部屋」
促されて、翼は顔を上げた。
「ルシファーは?」
「いましがた、ひとりで出かけたわ。朝までには戻ってくるでしょう」
「そう」
翼はわずかに安堵の色を浮かべた。彼と顔を合わせずに済むことにほっとしたのか、それともすぐに戻ってくるということにほっとしたのかは、自分でもよくわからなかった。
青年は、ゆっくりと戸口に向かった。
その背に向かって、デリンジャーが問いかけた。
「いつから、気づいてたの?」
なんのことを訊かれたのかは、すぐに見当がついた。翼は、決まり悪げに俯いた。
「あの、わりとはじめのころに……。その金髪、生まれつきだって聞いて、それでなんとなく……」
「まー、勘のいいこと」
「いや、でも、先に気づいたのは僕じゃなくて、レオのほうなんだ。僕は、どっかで見た顔だな、ぐらいにしか思い出せなくて。でもレオは、以前になんだかの学会のレセプションに取材の関係で出席したことがあったとかで、どうもその席で見知ってたらしくって。指摘されて、はじめて僕のほうでもようやく合点がいったって感じ」
弁解というほどのものではないが、それでも多少、言い訳じみた口調になる。申し訳なさそうに説明する翼の様子を、片眉を上げて眺めていた金髪の黒人は、やれやれと言わんばかりに首を竦めた。そして、
「油断のならない人たちだわね」
呟いて、うっそりとした笑いを漏らした。




