第12章 堕ちた光(4)
「……ジャスパー?」
翼は、思いがけない展開に茫然とした。
シンと静まりかえった室内に、仔犬を抱きかかえてボスを見下ろす少年の荒い息だけが大きく響いた。
ルシファーの瞳に驚きの色はない。一転して峻厳な、凍てつくような鋭い視線が、じっと眼前の少年を見据えていた。彼がずっと茶番を演じていたことを、翼はこのときになってようやく理解した。おそらくは、この食堂に入ってきたそのときから、ずっと……。
皆、いつのまに集まってきていたのだろう。気がつけば、ルシファーの周りには、シヴァのほかにも幹部たちがそろっており、部屋の入り口付近にも、セレストのメンバー、そしてザイアッドらがかたまってなりゆきを見守っていた。
ルシファーは、配下のひとりが用意した椅子にあらためて座りなおした。
「さて、話を聞かせてもらおうか」
低く、謐かな声。
すべてを戦慄させ、畏縮させずにはおかぬような冷ややかな威に圧され、少年は身を竦ませてわずかに後退った。
「あ……」
恐怖に咽喉を締めつけられて、少年は喘いだ。
なにが、起ころうとしているのか、翼はさとった。そして、なにが、起こりかけていたのかも。
「ルシファーッ!」
翼は小さく叫んだ。しかし、彼は翼に目を向けようともしなかった。
「――その器に、なにを入れた?」
「な、にも……」
「なにもなくて、おまえがそんなに血相を変える必要があるのか?」
「だっ…てっ、クッキー、はおれ、の、犬、だか、ら……」
「答えになってねえな、ジャスパー。それでこの俺が、納得すると思うか? 誤魔化すつもりなら、もう少しうまい言い訳を考えるんだな」
少年は口唇を噛みしめた。
「でもおれ、ほんと、に、なにも、入れてない」
「そうだよ! 僕らずっと一緒だったし、ジャスパーは自分の食事受け取って運んだだけで、それ以外なにもしてない。僕のお皿になにか入れるなんてこと、できるはずないよ」
翼は必死で少年を庇ったが、やはりルシファーは、彼のほうを見ようとはしなかった。
「なら、質問を変えよう。今日の配膳はだれだ、シヴァ?」
その質問に、少年はハッと身を硬張らせた。
「ヤツェクとダンが配膳を」
表情ひとつ動かさず、シヴァは即答した。集まってきていた集団の中で、ヒッと息を呑む声が聞こえる。揉み合った末、配膳を担当していた少年ふたりが、仲間たちによってまえへ押し出された。
ルシファーのまえに引き出されて、ふたりは縋るような視線を彼らのボスへ向けた。
「ボッ、ボス! オレたちなにも……っ!」
「しっ、知らねえ、なんもしてねえっ! ただ普通に当番こなしてただけで、余計なことなんてなんも――」
必死で弁解をしていた一方が、不意に凄まじい形相で振り返ると、勢いよくジャスパーに掴みかかった。
「っの、ガキィッ! なんのつもりだ、ひとに罪おっかぶせやがってっ」
「……っ」
「乱暴しちゃダメだっ。この子は具合が悪いんだから!」
翼はふたりのあいだに割って入った。逆上した少年は、その翼をも殴り飛ばした。
「翼っ!」
そのさまを見て、レオが腰を浮かせた。
激昂した少年は、よろめいた翼に掴みかかって乱暴に自分のほうへ引き戻した。
「てめえはすっこんでろよっ。関係ねえだろ。――いや、そうじゃねえ。もとは全部てめえが原因じゃねえか。ええっ!? ワリィのはみんなてめえだろが。なんでてめえのせいでオレらが迷惑こうむんなきゃなんねえんだよ! ただの一般人のくせしやがってっ。てめえなんかが調子っくれて、我が物顔でオレらのシマのさばってやがるからオレらがこんな…っ。
ちょっとボスに気に入られてっからって、いい気になりやがってよ! ほんとはこれもみんな、てめえが仕組んだことなんじゃねえのか。ええっ? そうすりゃ、ちったあおもしれえ記事が書けるかもしんねえもんなあっ。ジャスパーのヤロウは妙にてめえに懐いてやがったしよ、それ利用したんだか、ふたりで示し合わせたんだか、とにかくそーやって、わざと騒ぎ起こして、そんで内心じゃほくそ笑んで見物してやがんだろう。えっ? どうなんだよ、そうなんだろ!? このハイエナ野郎っ!
ボスにどんだけ特別扱いされてんだか知んねえけどよ、いーかげん出てけよっ。部外者のてめえの顔なんざ、もう見たくねえんだよっ。なんのつもりだか知らねえが、ここぞとばかりに善人ぶりやがってっ。てめえのそのツラ見てるだけでムカついてしょーがねえよ。ああそうだよ、できるもんなら、このオレがてめえぶっ殺してやりてえと思ってたよ。だからなんだよ。だからどーだってんだよ。ええっ、なんとか言えよ、このヤロウッ!」
胸倉を掴んで強く揺さぶられ、翼は息が詰まって顔を歪めた。あいだにすかさずレオが割って入り、青年を背後に庇って少年を鋭く牽制する。
緊迫した空気があたりに流れた。
殴られた頬が熱く、ズキズキと脈打っていたが、翼はそんなことに注意を払っていられなかった。
翼たちの滞在を、《ルシファー》が認めた。だから少年たちは、そのことについて沈黙せざるを得なかった。ボスの決定なればこそ、彼らは、幹部たちでさえ容認したことについて、異議を唱えることができなかったのだ。
起居をともにするうちに、親しくとまではいかなくとも、言葉や挨拶を交わすようになった少年たちもいる。しかし、それでも彼らは完全に打ち解け、気を許したわけではなかった。いま、翼に掴みかかって怒りをぶちまけた少年などは、これまで一度たりとも翼たちに近づいてきたことすらなかった。
おそらくは、これが彼らの本音。いままでずっと吐露することができずに胸のうちに抱えこんできた、偽りのない憤懣。
彼らは、ずっと堪えてきたのだ。それが、《ルシファー》の下した決定であったがゆえに。
「ダン、そのくらいにしておけ」
静かな抑止の声に、激していた少年の躰がビクンと反応した。
「ボ、ボス……」
「だれがここで暴れろと言った。いいからもう下がれ」
「けっ、けどボスッ」
「下がれと言っている」
高圧的な響きの冷ややかな命令に、ダンと呼ばれた少年は悄然と翼から離れ、仲間たちの中へ戻っていった。ルシファーのまえに引き出された、もうひとりの少年も黙ってそれにつづく。
ルシファーは、ふたたび立ち竦むジャスパーに目線を戻した。
「皿の中に、なにを入れた?」
「し、知らな……」
「知らなくて、あんなふうに血相を変えられるものなのか? 混入物については、隠したところで調べればすぐにわかることだ。だが、おまえはそれを、どこで手に入れた?」
少年は、さらに激しくかぶりを振った。
「――なぜ、翼を消そうとした?」
直截な質問に翼は息を呑み、ジャスパーは瞠目してボスを見返した。
「ちっ、ちが……っ! お…れ、そんなこと、しない。翼、殺す気なんて、ない。あれ、ただの痺れ薬、って……。でも、クッキー、まだ子供。だ、から、きっとクッキーなら、死んじゃう。そう、思って……」
「痺れ薬だと言って、おまえに薬を仕込ませたのはだれだ?」
容赦なく核心に触れていこうとする尋問に、少年はふたたび力なく首を振った。腕の中で、仔犬が不安そうに主人の顔を見上げ、キューンと鳴いた。
「おまえの裏で、糸を引いているのはだれだ?」
「知らない」
俯いたまま、仔犬を強く抱きしめて、少年は頑なに答えを拒否した。
ルシファーの双眸が、わずかに細められる。翼はその表情に、心底悚然とした。
「ジャスパー、この俺に楯突いて、このままで済むとは思っていまいな?」
「おれ、なんにも知らないっ!」
「――よく、わかった」
冷気が、部屋中にたちこめた。居合わせた者すべてにそう思わせるに足る、酷薄というタイトルの音律が紡ぎ出した声音だった。
翼のまえでは、これまで一度たりとも見せることのなかった、《ルシファー》のもうひとつの顔。
信じたくはなかった。だがルシファーが、この騒ぎの結末に、どう裁断を下すつもりでいるのかわかるような気がした。
「ルシファー……」
翼は慄える声でその名を呼ぶ。ルシファーは応えなかった。
「ルシファーッ!」
翼は、悲痛な思いで叫んだ。
「いいから。もう、いいから! ジャスパーは具合が悪いんだよ。もう休ませてあげよう、これ以上は可哀想だ。休ませてあげよう、ね? お願いだから」
翼は、少年を背後に庇って懇願した。その顔を、青紫の瞳が無感動に見つめる。進み出たふたりの少年が強引に翼を押さえこみ、わきへ引きずっていった。レオがそれを制止しようとしたが、ルシファーはその行為を許さなかった。
「ルシファーッ、僕はいいんだったらっ! ほんとにもういいから、だからジャスパーを恕してあげてよっ。ジャスパーを恕してあげてっ!」
押さえつけられながら、翼はなんとかそこから逃れようと暴れ、絶叫した。その翼を、少年がいまにも泣きそうな顔で瞶めた。
「翼……、もう、いいんだよ」
吐息に慄える、囁くような細い声が、その口唇から漏れた。
「ジャスパー!?」
「いいんだよ、ほんとに」
諦観の色が窺える顔で呟いて、ジャスパーはボスを顧みた。
「クッキーは、助けてくれる?」
「ああ」
美しく、冷酷な魔王は、言葉少なに少年の最後の望みを受け容れた。少年は、かすかに安堵の笑みを浮かべた。
抱きかかえていた仔犬を足もとに降ろすと、彼は、透明な微笑を浮かべて翼を瞶めた。
「ごめんね……」
呟いた少年の胸を、一条の光が貫く。少年の躰が反動で跳ね上がり、わずかに喘いで鮮血の滲む胸を、小さな手で押さえた。同時に、最前列でこれを見ていた数名の少年たちが、恐怖に耐えかねたように悲鳴を発して人垣を掻き分け、逃げ出そうとした。閃光は彼らをも容赦なく貫いていた。
少年たちは昏倒し、その場で絶息した。そして、ジャスパーもまた、数瞬の間を置いて、力尽きたように床にくずおれた。
翼は、少年の名を絶叫する自分の声を、どこか遠くに聞いた気がした。
ルシファーの傍らに立つ、刑の執行人が、構えていた銃を下ろす。氷のような冷酷さを湛えた、銀糸の髪の美しい青年。
弾は、いずれも正確に心臓の中心を撃ち抜いていた。
ジャスパーは倒れる瞬間、その背後に立ち尽くす、ひとりの人物を視覚にとらえた。
大好きな……、だれより大切で、傍にいて欲しかった人――
彼の姿をとらえた瞬間、少年は、えもいわれぬ幸福な微笑みを浮かべた。
光が、堕ちた―――
悪夢のような一瞬。悪夢のような出来事。
翼の目には、永い永い時が流れたように思えた。
茫然と、目の前で絶命した少年を翼は視つめ、その少年の傍でクンクンと鼻をならして鳴く仔犬を視つめ、折り重なるようにして転がる主犯格と思われる少年たちの遺体――それは、先刻ルシファーのまえに引き出されたふたりの少年のものではなく、騒ぎより先に、食堂にいた顔ぶれの中にあった、幾人かのものであった――を視つめた。そして、一瞬にしてこれだけの生命を奪ってなお、一片の感情すら覗かせることのない死刑執行人の冷たい無表情を視つめ、最後に、いたいけな少年に無慈悲に死の宣告を下した《ルシファー》その人を視つめた。
部屋中に充満する、眩むような血の臭い。
「ひ、どいよ……」
翼の口から呟きが漏れ、同時に、その瞳から涙が溢れ出た。
「酷いよ、ルシファーッ! どうしてこんな……っ」
翼は、自分を押さえつける腕を振り払って、ルシファーに喰ってかかった。
「君に人の生命を奪う権利なんかないのにっ。君なんかがあの子の未来を勝手に摘みとっていいわけがないのにっ。あんまりだよっ、こんなのってない! 酷いよ……、酷いよルシファーッ!」
青紫の両眼は、自分を詰る青年の姿を冷ややかに見つめた。怒りと悲しみの感情を爆発させ、さらに詰め寄ろうとした翼の腕が、ふたたび両側から乱暴に押さえつけられる。
「頭が冷えるまで、奥に閉じこめておけ」
煩わしげに手をひと振りすると、少年たちは無言でその命令に従った。
「ルシファーッ!」
もがきながら引き立てられていく翼の絶叫が、虚しく部屋に響く。ルシファーは、シヴァたちになにごとかを命じると、いっさいから関心を失ったように席を立った。




