第12章 堕ちた光(2)
スラムでは、基本的に生活規範というものが存在しない。
各自が食べたいときに好きなものを食べ、寝たいときに眠り、したいことをしたいときにしたいようにする。他の迷惑や仲間内での紛争の火種になる事態を引き起こさないかぎり、行動の自由が認められていた。そして、それぞれがプライベートを過ごす空間についても、テリトリー内であれば、どこをどのように、どの程度の範囲で利用しようと、だれも気にしなかった。
彼らに求められる条件は、ボスから招集がかかった際に即座に呼応し、下された命令に迅速に対応できること。それだけであった。
ただし、奔放と自由が許容される環境の中にも、いくつかの例外は存在する。《セレスト・ブルー》でいうなら、ルシファー及び数名の幹部が私的領域とする場所がそれであった。
明確に一線が引かれ、許可なく立ち入ることが禁じられている最大の理由――むろん、あえて禁じられるまでもなく、自分から立ち入ろうとするような無謀な真似をする者は皆無だったが――は、プライバシーの問題以前に、彼らが扱う、さまざまな機密の漏洩防止を意図してのものであった。そのボスの私室の続き間をあてがわれるという一事が、如何に異例で特別な待遇であったかを、翼は日を追うごとに思い知ることとなる。
そのルシファーは、このところ私室に詰めて、籠もりっきりの状態がつづいていた。
いつ休み、いつ食事をしているのか、隣室からは絶えず灯りが漏れ、複数のコンピュータで作業をする気配やだれかが出入りする物音、低い話し声などがひっきりなしに聞こえていた。
なにをしているのか気になるところではあったが、特別待遇をいいことに様子を窺うのも憚られる。ジャスパーが体調を崩して勉強会が中断していることもあり、翼はここしばらく、自分に許された範囲でレオとともにセレストの拠点内を見てまわり、少年たちの生活の様子を記録する作業に取り組んでいた。そんな翼の許に、ひさしぶりにジャスパーが訪ねてきた。
「ジャスパー! 躰は大丈夫? もう起きていいの?」
「うん、へいき」
翼を見てはにかんだように笑う少年の顔色は、まだ蒼白く、優れなかった。もともと痩せぎすだった躰も、さらに骨張って、肉が薄くなった気がした。
「熱は下がった? 勉強のことなら無理しなくていいんだよ? それとも、僕が部屋に行こうか?」
「うううん。ほんとに、へいき。熱も、もうないから」
「そう?」
「うん」
頷いて、重そうに抱いていた仔犬を足もとに下ろすと、少年は翼を見上げてにっこりと笑った。
「翼、おれ、おなかへった」
ジャスパーに誘われるまま、翼はレオとともに食堂に移動した。遅い時間帯の昼食といったところだが、部屋ではなく、食堂に行きたいと主張したのは少年のほうだった。人見知りのひどい彼にしては珍しい要望だったが、ベッドに縛りつけられていたことがよほど堪えたのだろうと、翼は言われるまま、少年の希望を受け容れることにした。
食事が終わったら少し勉強がしたい。いつになくはしゃいだ様子でせがんだ少年は、廊下を移動するあいだも、寝こんでいるさなかに見たおかしな夢の話や、ずっと傍に付き添っていたクッキーのことなど、途切れることなく夢中になって喋りつづけた。
どことなく興奮した感じが不自然に思えて、翼は傍らのレオと視線を見交わす。
「ジャスパー、ほんとにどこも具合は悪くない?」
声をかけた翼は、手を伸ばして額に触れようとした。嬉しくてはしゃいでいるというより、熱に浮かされてテンションが高くなっているような気がしたからだ。だが、気づいたジャスパーは、途端に翼の手を振り払って、その場から飛び退いた。
「ジャスパー?」
過剰ともいえるその反応に、翼は思わず払いのけられた手を宙に浮かせたまま、目を瞠った。
「あ、ごめ……」
ジャスパーは、ひどく狼狽えたように翼を顧みた。
「ごめん。あの、ちょっと、びっくりして……。おれ、ほんとに元気、だから」
「そう?」
「うん。なんともない。熱も、ないから」
言って、翼の手を取ると、少年は申し訳なさそうに謝った。
「あの、ごめんね? 痛かった?」
「平気だよ、これくらい。僕こそ急にびっくりさせちゃって、ごめんね」
「うううん」
かぶりを振った少年は、弱々しく笑うと俯いた。その手を、翼はそっと握り返した。顔を上げると、少年の様子をじっと見ていたレオと目が合う。赤毛の女傑は、無言で肩を竦めた。
母親と、おそらくはそのときどきの恋人たちから酷い虐待を受けてきた彼は、自分に向かって伸びてくる他者の手に、過剰に反応し、身構える傾向があった。それでもここ最近、翼やレオに対しては、その反応も薄れ、だいぶ馴染んだような気がしていた。
病臥しているあいだに見た夢の中で、また、怖い思いをしたのだろうか。
精一杯明るく振る舞おうとする姿が、哀れでならなかった。




