第12章 堕ちた光(1)
ここしばらく発熱がつづいたため、勉強会は中断したままになっていた。
こんな日が、もう何日もつづいている。退屈も限界に達したところへ、午後になっていくぶん気分がよくなった。そこでジャスパーは、隙を見て、こっそり病室となっている部屋を抜け出した。その日も午前中に微熱があった彼は、デリンジャーから終日静養するよう、きつく言い渡されていた。けれど、ベッドに縛りつけられる日々には、もう飽き飽きだった。
ほんのちょっとだけ抜け出して、バレないうちにまた戻れば大丈夫。
少年は、ふわふわとおぼつかない足取りで周囲に気を配りながら廊下を進み、ほどなく目的の部屋に潜りこんだ。
少しだけ、気晴らしがしたかっただけなのだ。だが、生憎と部屋の主は留守だった。がっかりして、それでもすぐに戻ってくることを期待して待っているあいだに、少年の目に、あるものが止まった。
『ほら、これが僕の奥さんと子供』
そう言って見せてくれた、彼の家族の画像。その画像が、少年はひどく気に入っていた。思い出して、何気なく手を伸ばせば、偶然にも端末の電源は入ったままだった。
少年の胸が期待に高鳴る。
それが、多機能の小型精密機器であることは、もちろんジャスパーも知っていた。でも、あの画像を出す操作は、それほど難しくないはずだった。他人の物を勝手にいじることはいけない。わかっていたけれど、ちょっとだけ見せてもらって、またすぐにもとに戻しておけば、きっと問題はないだろう。自分を納得させて、彼はボタンを押した。字はまだよく読めなかったが、何度かせがんで映像を切り替えてもらったことがあるので、押すキーの順番はしっかり憶えていた。
記憶にしたがって操作してみれば、思ったとおり、画面がほどなく切り替わる。そして、軽快な機械音とともに、なにかを確認する文章が現れた。ジャスパーは、しばし逡巡した後、『YES』のほうの緑のパネルを押した。すると、画面がふたたび切り替わって、今度こそそこに、いつも見ている金髪の女性の姿が現れた。
ジャスパーは喜々としてその画像を眺め、ふと違和感をおぼえて表情を曇らせた。
そこに映っている女性は、たしかに以前見た人物と同一である。だが、なにかがおかしい。なにかが違っている。いま、自分が見ている女性は、腕に赤ん坊を抱いていない。そして、幸福に輝いていたはずの眩しい笑顔は跡形もなく消え失せ、かわりに、悲愴と絶望とが表面を覆っていた。着ている服も黒く、顔色は死人のように蒼白く、なにより、別人のように窶れ果てていた。
すっかり面変わりしたその貌を、少年は息をすることさえ忘れて凝視した。と、次の瞬間、彼は飛び上がるほど仰天した。画像の女性が、身じろぎしたのだ。
生気をなくし、ひどく虚ろで焦点の定まらぬ瞳は、それでもまっすぐに少年に向けられていた。
「……だれ?」
女性が声を発した瞬間、少年は恐怖のあまり無造作に電源を切って、タブレットをベッドの上に放り出した。
心臓が激しく高鳴り、荒い呼吸がその口から漏れる。ガタガタと身を慄わせ、硬張った表情で暫時端末を視つめていた少年は、やがて自失状態から立ち直ると、あたふたとその場から逃げ出していった。
あとには、静寂のみが残った。
静けさの残滓が漂う部屋の入り口の陰で、不意に人影が揺らめいた。
人影は、無人の部屋の内部と少年の走り去った方角とを眺めると、ふわりと身を翻して反対の方角へと消えていった。
この顛末の一部始終を見られていたことなど、少年は知る由もない。
少年が画像データを呼び出すつもりで押したのは、通話機能を起動させるボタンであり、使用者がパスワードとして設定している認証コードであり、また、一時的に通信回線を繋ぐことに同意する旨を承認する回答パネルであった。
端末には、所有者のIDチップが取りこまれていた。




