第11章 蠢く気配(4)
ルシファーの許を辞して廊下へ出た《没法子》と《夜叉》のボスは、戸を閉めるなり大きな吐息を漏らした。
「ふわーっ、やっぱおっかねえな、あの人に真っ向から意見すんのはよ。タマァ縮み上がったぜ」
「まったくだ。一瞬、背筋が凍ったな」
苦笑を浮かべた《夜叉》のボスの肩を、狼は勢いよくどやしつけた。
「よっくゆうぜ、涼しい顔して淡々と意見申し述べてやがったくせに。あれがビビりまくってる奴の態度かよ」
「いやいや、《没法子》のボスには負けるとも。俺にはあそこまで、あの《ルシファー》に喰ってかかる度胸はないからな」
「悪かったな。どうせ俺は、短気で抑えの利かねえガキだよ」
「そう腐りなさんな、べつに皮肉ったつもりはない。これでも真面目に褒めてるんだ」
刹はかろやかに笑った。
「にしても、こりゃなかなかハードな展開だな、刹。そうは思わねえか? グレンフォードに公安にゾルフィン。最終的に裏で手を引いてるのがグレンフォードだったとしても、表立った敵は三方向から向かってきてる。いや、政府の役人どもも加えりゃ四方向か。俺たちの報告を受けても平然としてたが、あの人には勝算があるのかね」
「不満分子の話にも動じなかったところをみると、おおかたの予測はついてたんだろう」
「あの軍人どもをおおっぴらに引きこんだのも、もしかしたらその辺が狙いだったのかもしれねえな。少しでも自分に逆らいそうな奴らをわざと焚きつけて、ある程度まとまって悪巧みをはじめたところで根こそぎ――」
狼はそこで自分の首に手を当て、刎ねる真似をした。
「ううっ、やっぱおっかねえ。なまじ容赦がねえだけに、敵にだけはまわしたくねえ存在だぜ」
《夜叉》のボスも、同感だと首を竦めた。
「……しかし、どうにも納得がいかねえ」
「件の新聞記者か?」
「なあ刹、おたく、ルシファーの言ってた『グレンフォードの機密』って見当つくか?」
「いいや、さっぱり」
「だよなあ。どう考えたって情報が少なすぎんだよ。さっぱりわからねえ。それもあの人が、あのブンヤを手もとに置いとくこととなんか関係あんのか?」
「さあ。あるのかもしれないし、あるいは違うのかもしれない。存外、さっきの指摘は痛いところをついてたかもしれないぞ」
刹の言葉に、狼は顔を蹙めた。
「よせよ。カッとなって思わず啖呵切ったはいいが、いまとなっちゃ冷や汗モンだぜ」
「あの《ルシファー》が飼い馴らされた、か。言い得て妙だな」
「マジでただの杞憂ならいんだけどな。シヴァの奴なんぞ、とくにいたたまれねえだろうよ」
「たしかに。《シリウス》の旦那は、どう思っておいでのことやら」
「どうも思っちゃねえだろ。あいつがいっとう大事なのは、お綺麗なご主人様ただひとりなんだからよ。ヘタすりゃ、テメエの配下さえそっちのけ。現にいまだって、グループ内のことは副将に任せっきりでセレストに居座ってんだろ? ラムゼイの奴に心底同情するぜ。文句ひとつ言わねえで、よく下っ端どもの手綱引き締めて留守まもってんよな。俺なら間違いなく、この隙にボスの座簒奪してるぜ」
「実直なあの忠義者には、そんなこと思いつきもしないんだろうよ。補佐に徹することに命懸けてるような奇特な男だ」
「せめて大将好みの繊弱な美人だったらよかったんだろうけどな」
「シヴァなみに、か?」
「ま、あそこまで超絶してなくとも、そこそこに」
言って、狼は人の悪い笑みを浮かべる。無骨で無愛想極まりない、容貌魁偉な隻眼の大男の姿を思い出して、刹も苦笑した。
「いずれにしても意味深な関係だ」
「ビッグ・サムとラムゼイがか?」
「ビッグ・サムとシヴァが、だ」
強調して訂正すると、狼はたちまち興味を失くして冷めた表情になった。
「どうだっていいさ、そんなこと。奴ら自身の問題だ。俺には関係ねえよ」
「あの記者についておまえが看過できないのは、やはり、《ルシファー》なればこそか」
「あったりめえだろ。奴があの人の弱点になるようなことにでもなってみろ。目も当てらんねえ結果になんのはわかりきってんじゃねえか。俺らの周りにゃ、敵がうじゃうじゃいやがるんだぞ。統領がカタギの素人1匹に気をとられて足もと掬われるなんざ、ぞっとしねえ話だ。《メサイア》の残党どもの尻尾ひっつかんじまって、俺らがどんだけ泡くったか、ちったあ酌んでほしいよな」
軍との交戦中、スラムのはずれで潜伏中のゾルフィンら一党を彼らが目撃したのは、偶然のなりゆきだった。
事態が混迷の一途をたどる状況下で、翼や軍人たち――手を結んだとはいえ、一度はたしかに干戈を交え、殺し合いをした間柄である――が、セレストのアジト内でメンバーたちと起居をともにしているという事実は、到底望ましいこととは言いがたかった。
いま、この時期だからこそ内部分裂といった事態だけは避けたいところである。だが、これでは現状に不服を抱く者さえ少なくはないだろう。仰慕と畏敬の的であり、唯一の存在と崇める《ルシファー》が、よりによって自分たち以外の余所者に好意を示し、特別待遇をしていたのでは、身内である彼らにしてみれば、おもしろかろうはずもない。狼も刹も、そのことを懸念して諫言したのである。そして結果は、先刻のとおりとなった。
「あれ、もう帰るの?」
不意に声をかけられ、狼はふたたび吐き出しかけた盛大な溜息をあわてて呑みこんだ。振り向けば、そこには溜息の元凶当人が、にこやかに立っていた。なにも知らぬげに無防備を絵にしたような顔で近づいてきた青年は、話題の中心が、よもや自分だったなどと夢にも思うまい。
「話し合い、済んだ?」
「あ、ああ、まあな」
無邪気に訊かれ、狼はいささか呵責をおぼえながら、決まり悪く返事を濁した。そんな相棒の様子を見て、刹が隣でそっと笑いを噛み殺す。当人をまえにすれば、結局狼もまた、毒気を抜かれて甘い態度になってしまうことが可笑しかったのだろう。
狼は、憮然と横の男を睨みつけた。つられて、翼の視線もそちらに移動する。《夜叉》のトップは、すかさず卒のない態度で愛想よく応じた。
「《夜叉》の刹。よろしく」
「あ、こちらこそ。はじめまして、新見翼です」
模範的な初対面の挨拶を見せつけられて、厭味なヤロウだと《没法子》のボスはひとり不快げに鼻を鳴らした。
「そういえば狼、あのあとザイアッド軍曹落ちこんでたよ。おじさん呼ばわりされたのが、よっぽどショックだったみたい」
「ほんとのことを言ったまでだ。いきなり小僧扱いしやがったあのヤロウのほうが悪い」
「しかたないよ、僕と間違えたんだから」
「なんだあんた、あいつに小僧呼ばわりされてんのか」
「悪気はないんだけどね。彼の中では、僕とジャスパーってひとからげみたい。ルシファーと違って、威厳も落ち着きもないからしょうがないんだけどね」
あっけらかんと笑う翼に、狼は溜息をついて首を振った。青年は気にしたふうでもなく、それじゃあと来た方向に戻っていく。狼は、ふと思い立ったようにそれを呼び止めた。
「そういやさっき、そのおっさんから預かり物してたの、うっかり忘れてた」
振り返った翼に、ポケットから取り出したものを抛る。受け取った翼は、不思議そうに手にしたものを見つめた。
「ルシファーに渡しといてくれ」
「軍曹からって言って渡せばいいの?」
「ああ。そう言やわかる」
「ふうん、わかった」
素直に頷いて、翼は今度こそ来た道を戻っていった。
しばしその後ろ姿を見送っていた刹が、視線を廊下の向こうに据えたまま低く呟いた。
「――また、やったな」
「なんのことだ?」
「とぼけても無駄だ。あの男から、なにをスリ盗った?」
「人聞きがワリイな。ちょいと拝借したまでよ。『小僧』なんぞと気安く呼ばれて、つい理性がぶっとんじまったもんでな。勝手にこの手が、おイタをしちまったのよ」
おどけてみせたが、刹はノッてこなかった。冷めた眼差しで圧をかけ、容赦なく答えを促す。狼は、しぶしぶ白状した。
「カフスボタンだよ」
「……カフスボタン?」
刹の眉が、意外そうに上がった。
「その辺に転がってるような、ありふれたヤツじゃ、もちろんないぜ」
「それはわかってる。第一、軍服には無用の物だ」
「袖に着いてたんじゃねえよ。だらしなく着崩してた上衣の内ポケットに入ってたのさ。めったにお目にかかれねえような超逸品。曰くありげな、ご大層な代物だったぜ」
「相変わらずたいした腕だ」
刹は感心半分に苦笑した。が、すぐに表情をあらためた。
「あの男には、そぐわないな。紋章入りかなにかか?」
「そう見えた。俺にはなんのことやらさっぱりだったが、ルシファーなら充分すぎる情報源になるだろう」
今度こそ刹も納得して頷く。そして、詳細は彼らのもっとも信頼する王に一任するという狼の意見に、全面的に賛意を表した。
時をほぼおなじくして、アドルフ・シュナウザーもまた、〈カシム・ザイアッド〉に関する調査報告を入手していた。
「やはり、思ったとおり、か……」
調査内容を見つめたまま、ひっそりと呟きを漏らして、シュナウザーは独り、かすかな笑みを口許に浮かべた。




