第10章 嵐のまえの平穏(4)
そうこうしているうちに、いよいよオーブンの中身も焼き上がった。プレートを取り出して、こんがり狐色に仕上がったクッキーを皿に移す。プレーン、チョコチップ、セサミ、紅茶風味と、パットの機転により種類も豊富になったその出来栄えは、出だしの惨憺たる状況を思えば、上出来すぎる仕上がりであった。
「ふーん、結構まともっぽいじゃないの」
期待に満ちた一同の注目の中、大皿に盛ったクッキーの山を、パットはジャスパーに差し出した。少年は、わずかに逡巡した後、おずおずと手を伸ばして形のいいものを数枚選びとり、それを小皿に分けてボスに献上した。ひと目で少年の作とわかる、おぼえたての、歪んだ形のアルファベット。
ルシファーは無言でそれを受け取る。そして、焼きたてのそれを口に運ぶと、緊張の面持ちでじっと自分を視つめている少年に笑いかけた。
「美味いな、ジャスパー。よく焼けてる。自分でも食ってみろ」
少年の顔に、パアッと輝くような笑顔がひろがった。
「ビッグ・サムにも、あとで持ってってやれ」
少年はさらに嬉しそうに何度も頷き、自分もひとかけ齧って「おいしい!」と歓声をあげた。
参加者たちとしては、自分たちの苦労が報われたとあっては、その功労を称え合わぬ手はない。パットと翼とで紅茶を入れ、皆で大皿を囲んで、その場は一気にティー・パーティーへとなだれて盛り上がった。
「なんだあ、すげえ美味そうな匂いしてんな。にぎやかにみんなして、なにやってんだ?」
ちょうどそこへ、甘い香りに誘われて、ふらふらと厨房にやってきた男がいた。
「あら、ザイアッド軍曹。いま、みんなでクッキー焼いて、ティー・パーティーとシャレこんでたとこよ。よかったら、ご一緒にいかが?」
デリンジャーの誘いに、男は「お、いいねえ」と応じて入ってくると、大皿に遠慮なく手を伸ばして鷲掴み、数枚をまとめて口に放り込んだ。
「ザイアッド、たしかおまえ、酒好きの辛党じゃなかったか?」
「おっと、だれかと思や陛下じゃねえか。あんたこそ珍しいな、こんな優雅なパーティーに参加してるなんてよ。生憎俺は、酒好きの辛党ってだけじゃなくて、甘いもんにも目がねえんだがよ、もしかしてこの少女チックな趣向は、あんたの趣味か?」
手渡された紅茶のカップを受け取りながら、ザイアッドはさらに狐色の山に手を伸ばした。ずけずけとした物言いを気にするふうもなく、ルシファーは直答を避けて笑っている。そして、膝の上の仔犬に、専用に焼かれた薄味の菓子を与えながら、相手の浅黒い、精悍な貌をチラリと見やって言った。
「懲りない男だな。またシヴァのやつ追っかけまわして張りとばされたか」
クッキーを口に入れかけた手が止まって、男は渋面を作る。それへ向かって、ルシファーはすました顔で自分の左頬を指でとんとんとつついた。ザイアッドのそこに、よくよく注視すると、うっすらと赤い手形が浮き出ていることを指摘したのである。
「あんたの眼は誤魔化せねえな」
ザイアッドはチェッと舌打ちしてカップをテーブルに置くと、空いている椅子を引っ張ってきて、背凭れを抱えこむように、逆向きに腰を下ろした。
「まいったぜ、綺麗な貌してきついきつい。もう何遍ひっぱたかれたことか。ボスのあんたからも、ちっとは言ってやってくれよ」
「ごめんだな。そんなもんに嘴つっこむ気はねえし、いくら俺でも、そこまでの権限はねえよ」
「なんだよ、つめてえな。一途な男の純情ってやつに、ちっとは同情してくれよ」
「なにが純情よお。毎日毎日男の尻追いかけまわして、なにがそんなに愉しいんだか。目の前にこんな美女がいるってのに、この軍人たら全然見向きもしないのよ。こいつのバカ話に耳貸すことなんてないわよ、ルシイ」
不満顔で口を挟んだのは、ボスの情人であるクローディアである。ルシファー自身はそんな彼女の訴えにとくに反応するでなく、腕を組んだまま軽く眉を上げただけであったが、あわてたのは妙な方向に話を展開させられそうになった男のほうである。
「おいおい、ちょっと待てよ。いくら俺だって、世話んなってる組織の頭のオンナに手ェ出すほど節操なしじゃねえぞ。第一、俺は男が好きなんじゃなくて、あいつひとりが気に入ってるだけなんだよ。たしかにあんたは美女かもしれねえが、お高くとまった俺のハニーは、そりゃもうハンパなく手ごわい。となると、俄然俺としては、男のプライドにかけて絶対落としてみせるって闘志がふつふつと湧いてきて、腕が鳴りまくるってもんだぜ」
「ばっかみたい。そんで毎日シヴァにひっぱたかれて、それでも懲りずに言い寄ってるなんて、あんたマゾなんじゃないの」
「かもなあ。ハニーと出逢うまで、たしかに俺はSだった。けど、ここんとこ、あいつにひっぱたかれねえとどうも調子が出なくってよ。いまのいままで俺の心の奥深くに眠っていた邪淫の本性が、とうとう目醒めたんだな。これぞ運命の出逢い。運命の相手。やっぱこうなりゃ、なんとしてでもモノにするっきゃねえ。な、そう思うだろ?」
「はいはい、好きにすれば。でもあんた、彼モノにするまえに、絶対ビッグ・サムに殺されるわよ」
「んなこた、かまわねえ。いまや俺は愛の奴隷。恋の虜。あいつのためなら生命だって惜しくねえぜ。ああん、ハニー、とっても素敵。もっとぶって、もっとぶってぇん♡」
うっとりと身をくねらせる男に、レオやクローディアは、おえっという顔をした。ルシファーが、唖然とした顔で話に聞き入っている翼とジャスパーを見て苦笑する。
「真に受けるな。シヴァの反応がおもしろくてからかってるだけだ」
言われて、ようやく「あ、なんだ」と安堵したふたりに、男はニヤリと笑いかけた。
「けど、俺のおふざけは正真正銘、命懸け。めいっぱい躰張ってるんだぜ」
「ばっかみたい、自慢にもなんないわね」
デリンジャーが呆れたように言うと、レオたちがそろってまったくだと頷いた。
「おいおい、どいつもこいつもシャレのわかんねえ奴らだな。そんなだからおまえら、碌なオトナになれねえんだぜ。やだねえ、そろいもそろってよ。おい、小僧ども、こんな奴ら見習って成長すんじゃねえぞ」
『小僧ども』の中に自分も含まれていることに気がついて、翼は目をぱちくりさせた。しかし、訂正を加えるまえに抗議の声があがって、翼の発言する機会はあっというまに奪われてしまった。
「ちょっと、なにそれ、失礼ね。あんたに言われたかないわよ。あんたなんか見習ったら、ますます碌なオトナになんないじゃないさっ」
「そうよ、変態! 女の魅力ひとつわかんないくせに、偉そうなこと言わないでよね。あんたのはシャレじゃなくて、ただの悪趣味じゃない。そっちこそ純粋な子供に教育上悪い影響与えないでよ!」
「な、なんだおまえら、普段寄ると触ると喧嘩ばっかしてやがるくせに、こんなときだけ徒党組んで攻撃するなんてよ。汚ねえぞ」
「んま、ねえ、ちょっと聞いたクローディア。自分のことは棚に上げて、あたしたちのこと汚いとか言ってるわよ、この男」
「どうせあたしたちは汚いオトナよねえ。そうよ汚いわよ、どーせケガレてるわよ、だからなによ、この腐れ男」
「そうよそうよ、病原菌男。ボス、みんなに変態が感染しないうちに、こんな奴さっさと隔離しちゃったほうがいいわよ」
にぎやかなやりとりを翼はくすくすと笑いながら聞いていた。その横で、ジャスパーもまた、愉しそうに笑っている。そんな少年の顔を何気なく見やった翼の顔から、たちまち笑みがひっこんだ。
「……ジャスパー?」
そっと声をかけると、少年は「え?」と振り向いた。その瞳から、幾筋もの涙が頬を伝って零れ落ちていた。
気づいた少年自身が、驚いたように涙を拭う。
「あれ? あれ? 変だな。なんで涙、なんて出てくんだろ? おれ、ぜんぜん悲しくなんて、ない、のに……」
ジャスパーは困惑したようにゴシゴシと顔をこする。その小さな頭を、デリンジャーがくしゃっと掻きまわした。
「きっと、笑いすぎたのよ。人間はね、ジャスパー、楽しくて幸せで、笑いすぎても涙腺がゆるんじゃう、そういう生き物なの」
打って変わった優しい声が、言い諭すように少年にかけられる。少年は、泣き笑いの表情のまま、照れたように足もとに寄ってきた仔犬を抱き上げてこっくりと頷いた。
幸せすぎて涙を流した小さな少年。
彼は俯いたまま、消え入るような声でぽつりと言った。
「ありがとう……」




