第10章 嵐のまえの平穏(2)
《セレスト・ブルー》の拠点では、ザイアッドを中心とする公安特殊部隊隊員9名が新たに加わったことで、人口密度、平均年齢、ガラの悪さが一気に跳ね上がり、翼を驚かせた。
ただし、偶然にも副隊長であるキム・ビョルン伍長と相棒のカメラマン、レオナ・イグレシアスが旧知の間柄であったため、翼が懸念したような物騒な事態に至ることなく、しぶしぶながらも彼らの存在は少年たちに容認されることとなった。
レオとキムは、一時期、《首都》で通っていたキックボクシング・ジムのジム仲間だったことがあるという。
なんだよ、どっかで見た顔だと思やあレオじゃねえか、奇遇なところで会うもんだ。そっちこそ、とんと見ないうちに戦争屋になってたとは知らなかったぜキム、元気そうでなによりだ。ということで久闊を叙し合い、親交が復活したところで相互の不信感が薄れ、スラム側、公安側ともに険悪な雰囲気も弱まる運びとなった。
レオがそこまでの緩衝材になりえた理由はといえば、冗談のような話ではあるが、このキックボクシングが深く関係していた。ルシファーからの打診により、当面のあいだ本職のほうが手すきとなったレオは、一時的なものであれ、無聊をもてあますこととなった。そこで、ためしにキックボクシングを含めた格闘技全般のインストラクターを申し出て勇士を募ったところ、これが思いのほか盛況を博す結果となったのである。
もともと姐御肌で気っ風のいいレオは、たちまち少年たちの人気者となり、いまやその存在は、すっかり彼らのあいだで一目を置かれるまでになっていた。
《ルシファー》の下した決定事項であるとはいえ、これほど大量の部外者が拠点内に入りこんで受け容れられた例は、これまでなかったに違いない。ところがそのセレストに、いつのまにやら現れて、そのままちゃっかり腰を据えてしまった人物がもうひとり。
「ちょーっと、なんだってあたしがお菓子作りなんか手伝わなきゃいけないのよ!」
艶やかな深紅のチャイナ・ドレスに身を包んだモデルばりの黒髪の美女が、不平満々に口唇をとがらせた。
「あぁら、クローディア。あんた、まがりなりにも女なんだから、それくらいやってみせなさいよ。ただでさえ、あんたってば役立たずのタダ飯食らいなんだから、多少女らしいとこでも見せて、ボスを見直させたら?」
「うるさいわね、このオカマブス。あたしが役立たずですって? 冗談じゃないわ、ルシイひとりのためだけに充分お役立ちだわよ。そりゃあもう、毎晩、最高にイカした素敵な夢を彼に見させてあげてるんだから」
「ちょっと、よしなさいよ子供のまえで。あんたって、どうしてそう品性に欠けるのかしら。まったく最低だわね。羞恥心の欠片もない女なんて、女以前に人間として間違ってるわ」
「あーら、あんたほどじゃないわよ、デリンジャー。だって、もしあたしがあんたみたいに不細工だったら、絶対恥ずかしくって生きてらんないもの」
「んまあ、なにそれ! 聞き捨てならないわね。生まれつきの造作について、よくそんな非道いことが言えるもんだわ。あたしを生んでくれた親に対して、申し訳ないって気になんないわけ? 信じらんない神経だわよっ」
「あんたこそ、そのご両親とやらに懴悔する気はないわけ? せっかく男として生まれついたくせに、その性別無視してオカマになるわ、人の道外してこんなとこで燻ってるわじゃ、親御さんもさぞ浮かばれないでしょうね。草葉の陰できっと泣いてらっしゃるわよ」
「失礼ねっ。勝手に殺さないでよ! まだふたりとも生きてるわよっ!」
「まぁあ! それはますますお気の毒!」
「なんですって、このメギツネッ。口の減らない女ね」
「なによっ、そーいうあんたこそどーなのよっ」
助っ人を頼んだつもりが、このふたりの場合、どうやら手よりも先に口を動かすほうが忙しいようである。翼とジャスパーは無言で視線を交わして肩を竦め合った。
「あんまりあてにならなそうだね。僕たちだけで作っちゃおうか」
「うん」
少年を促して、さて作業を開始したまではいいのだが、
「翼、このあと、どうすんの?」
「えっと、ちょっと待って。あれ? あれ? ちょっ、ちょっと待ってね。……えーっと、たしかここで砂糖を入れて。それで卵を……、あれ? 違った? 逆だっけ?」
いくらもしないうちに手順がわからなくなって、そこで立ち往生となった。
「レオ、わかる?」
行き詰まった末におそるおそる尋ねると、にわかお料理教室になりゆき上、なんとなく参加することになってしまった相棒は、すました顔でさらりと言ったものである。
「悪者の調理のしかたなら得意中の得意だし、手取り足取り、いくらでも伝授してやれるんだけどね」
これはダメだ、訊いた相手が間違っていたとすぐさまさとって質問を取り消し、翼はふたたび、少年とともに、ああでもないこうでもないと、頼りにならない記憶をもとに作業を進めてみることにした。一応、レシピも調べて調理台の上に表示し、その手順にもしたがっているつもりなのだが、展開はなぜか、やればやるほど絶望的になっていく。どうしたものかと悩んでいるところへ、頼りがいのありそうな美形が廊下からひょっこり顔を覗かせた。
「なんだ、おまえら。今度はいったいなんの騒ぎだ?」
「ああん、ルシイ。ちょっと聞いてよ! このオカマったらひどいのよ。あたしがルシイと仲良しだからってやっかんで、いじめるのよお」
「ちょっと待ちなさいよ、バカ女。だれがやっかんでるのよ、人聞きの悪い。ボスの顔見た途端に鼻にかかった甘ったるい声なんて出しちゃって、いやらしい。だいたい、さっきからいじめられてるのは、あんたじゃなくてこっちのほうじゃないさ」
「いやあ、怖ーい。ほらね、こんなふうにいじめるのよお」
自分を挟んで喧嘩を続行するふたりを、「ああ、わかった、わかった」と煩そうにあしらって、ルシファーは調理場に入ってきた。
「うわっ、なんだこりゃ」
「クッキー作ってるんだけど、そんなにひどいかな?」
「ひどいかなって、おまえら……」
本人たちを含めて、あたりは一面、真っ白の粉だらけ。あまりの惨状に、豪気なはずのスラムの覇王も舌を巻いて絶句した。
「なんかね、ちっともうまくいかないんだけど、ルシファー、作りかた知ってる?」
「そこに書いてあるとおりにやればいいんじゃないのか?」
「やってるつもりなんだけどね。どこがいけないのかな」
「俺に訊くほうがどうかしてるぜ。まったくの専門外だ」
答えを聞いて、翼とジャスパーはがっくりと肩を落とした。
進退窮まった状態で一同当惑しているところへ、さらにもう1名、なにも知らずに顔を出した人物がいた。
「翼って人いる? あのさ、アニキ、どこにいるか知らねえ?」
調理場に顔を覗かせて、ルシファーがいることに気がついた強面の少年は、あわてて背筋を伸ばしてボスに頭を下げた。その横で、彼の捜し人であるレオが「おう、ここにいるぜ」と手を挙げる。
少年たちのあいだでは、どういったものか、レオは「アニキ」の呼称で定着していた。剽軽者の一の子分が巻き起こした騒動が、思ったよりも印象深かったようである。
「くそー、ディックのヤロウのおかげで妙な呼び名が定着しちまった」
呼ばれる当人は当初苦々しげであったが、周囲の「結構似合ってるんじゃない?」という意見に納得させられるかたちで、そのまま落ち着いてしまったらしい。
「パット、おまえ、料理が得意だったな。菓子作りなんてしたことあるか?」
ボスの唐突な質問に、パットと呼ばれた額に傷のある少年は、「は?」と面くらったような顔をした。
「あの、簡単なもんでしたら、作れますけど……」
「クッキーなんてどうだ?」
「はあ、まあ。それくらいなら、なんとか……」
答えるうちに、状況がだんだん読めてきたようである。あまり気乗りしない様子で、それでもしぶしぶ調理場に入ってきた少年は、その惨状を間近に見て「うっ」と声を詰まらせた。
「――なに、やってんスか?」
「だから菓子作りだってよ。クッキー焼くつもりで奮闘中なんだそうだ。いっとくけど、こんなにしたのは俺じゃねえからな」
自分の潔白を明言するルシファーの横で、翼とジャスパーがえへへと誤魔化し笑いを浮かべる。その足もとで、アッシュ・ブラウンに染まった仔犬が得意げにワン!と尻尾を振り立てた。
「急ぎの用事じゃねえんなら、作りかた教えてやれ」
命じた当人は、手近の椅子を調理台わきまで引いてきて、どっかりと腰を下ろした。手伝う気はさらさらないが、おもしろそうなので、そのまま居座って見物を決めこむことにしたらしい。
少年は、もう一度破滅的なまでにメチャクチャになった調理場を見まわして、がっくりと肩を落とした。




