第8章 軍の侵入(2)
文章をまとめているあいだに、いつのまにか転寝をしてしまったのが悪かった。
「翼、今日はじめてシャロンが『ママ』って言ったのよ」
どんな内容だったのかはまったく憶えていない。けれど、浅い眠りに落ちて見た夢の中で、愛する妻が、そう言って幸せそうに笑ったことだけは鮮明に憶えていた。
実際、生後半年にも満たぬ娘が、喋ることなどありえなかった。わかっていながら、それでも翼の気分は落ちこんだ。
現状を選んだことに悔いはないが、爆破事故で生存が絶望視されているという報せを受けた家族はいま、どんな気持ちでいるだろうと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
乳飲み子を抱えた妻は、両親は、職場の人々や友人たちは。そしてレオの身内や親しい人々は。
割りきらなければならないことだとわかっていても、無事を伝えることのできないもどかしさに、やりきれなさをおぼえた。
手首からはずしていた小型端末に手を伸ばし、側面のパネルに手を添える。たちまち浮かび上がった妻と娘のホログラムを見つめて、翼はこっそり溜息をついた。その足に、あたたかくてやわらかなものが触れた。見ると、いつかの仔犬がこちらを見上げて忙しく尻尾を振っていた。
翼は思わず微笑んで、その小さな躰を抱き上げた。
「やあ、君はたしか、クッキーだったね。こんなところでなにしてるんだい? 今日はご主人は、一緒じゃないの?」
話しかけると、仔犬は嬉しそうに尻尾を振り立てて、元気にワンと返事をした。
焦げ茶色のやわらかな毛が、触れる肌に心地いい。そっと抱きしめると、そのぬくもりの中に、かすかに赤ん坊のミルクの香りがした。愛しさに、翼は毛皮の中へと顔を埋める。その視界の隅で、なにかがチラリと動いた。
翼の口許に、たちまち笑みがひろがった。彼は、さりげない口調で言った。
「クッキーがね、ミルクを飲みたいって言ってるんだけど、少しだけならあげてもかまわないかな? ジャスパー」
顔を上げて、開けたままになっているドアの入り口に視線を向けると、ドアの陰からゆっくりと、用心と躊躇いが半々に混じった動きで小さな人影が現れた。
「クッキーに、ミルクをあげてもいい?」
もう一度尋ねると、少年は硬い表情のまま小さく頷いた。
翼はそれ以上余計なことは言わずに、受け皿がわりになりそうな平たい容器を探した。そして、朝食のパンの載っていた紙皿を見つけると、やはり朝食の残りであるミルクをほんの少し、垂らす程度に注いだ。床から仔犬が、期待に満ちた眼差しで自分を見上げている。そのまえに、ゆっくりと紙皿を置いた。
仔犬はたちどころに旺盛な食欲を見せて、白い液体を平らげにかかった。
美味しそうな音をたてて、一心に紙皿に顔をつっこんでいる小さな生き物を、翼はしゃがみこんで見つめた。目の端に、いつのまにかおなじように仔犬を覗きこんでいる少年の姿が映っていた。
やがて食事を終えた仔犬が、満足げに口のまわりを舐めながら頭を上げた。その正面に飼い主の姿を見つけると、茶色い毛玉は矢庭に弾丸のような勢いで飛びついていった。
「こらっ。ちゃんと、ごちそうさまと、ありがとう、言わなきゃダメだろ」
少年が抱き上げると、仔犬は嬉しくてしかたないように少年の顔中を舐めまわす。そして、ようやく気がすむと、今度はちぎれんばかりに尻尾を振って翼を振り返り、ワンと挨拶をした。
「どういたしまして。えらいね、ちゃんとお礼が言えるなんて」
翼は手を伸ばしてその頭を撫でた。仔犬はやはり、嬉しそうにその手も舐めた。
「頭がいいね、クッキーは」
「うん。こいつ、に、人間の言うこと、ちゃんとわかるんだ」
褒められた仔犬以上に嬉しそうに少年が言った。その目が翼と合う。途端にはにかんだような、邪気のない笑みが顔中にひろがった。
「それに、いい奴と、悪い奴も、ちゃんと見分けられる。つ、翼は、いい奴って、クッキーが言ってる」
「本当? じゃあ、僕もクッキーと友達になれるかな?」
「うん、もう友達だよ」
「ジャスパーとも?」
「うん。クッキーの友達は、おれの友達、だから」
眩しいほどに純粋な笑顔。幸福とは決して言えない境遇の中で、それでも彼が失わずにいた、澄みきった心が胸に痛かった。
「……クッキーって、可愛い名前だね。お菓子のクッキー?」
「そう。かっ、かあちゃんが、まえに1回だけ、作ってくれたこと、あるんだ。そんときの色がね、クッキーと、おんなじだったんだ。かあちゃん、もっ、もう、死んじゃったんだけどね」
「お母さんが焼いてくれたクッキーは、美味しかった?」
「うん、すごく。ちょっと焦げてたし、なか、生で、砂糖の塊とか、卵の殻、とかもときどき、入ってたけど、でも、いままでで、いちばん美味しかった」
「お母さんのこと、大好きだったんだね」
「うん、大好きだよ。お、おれ、バッ、バカだから、いっつも怒られてばっかだったけど、でも、ほんとはかあちゃん、すごく優しかったんだ。それに、とっても綺麗だったんだよ。赤い色の服着るとね、本物のお姫様みたいで、おれ、その服着たかあちゃん、すごく好きだった」
答えて、少年は仔犬を抱きしめ、軽い咳をした。
「そう……」
母親が、ほんの気まぐれで作っただろう、クッキーとはとてもいえない、ひどい代物。それでも彼にとって、母親の作ってくれた『クッキー』は、いつまでも忘れることのできない、世界でいちばん美味しい食べ物だったのだ。叩かれて、蹴られて殴られて、怒鳴られ、ときにはひどい言葉で罵られて、虐待されつづけていたにもかかわわらず、それでも彼にとって母親とは、無条件で慕える、大切な存在だったのだ。
好きだったかと訊かれて、彼は大好きだと即答する。その答えは、ごくあたりまえのように現在形を成していた。
母親からひどい扱いを受けたのは自分のせい。すべて自分が悪かったから。
愛に飢えた、小さな少年……。
そっと栗色の頭に手を置くと、少年は一瞬身を硬くし、しかし、すぐに翼を見上げて信頼しきった笑顔を浮かべた。
「ね、ジャスパー、今度、一緒にクッキー焼いてみようか?」
「つ、翼、クッキー作れる、の?」
「うーん、作れるっていうか、作るのを手伝ったことが何回かあるだけ、かな。僕の奥さんがね、そういうの作るの、すごく上手なんだ」
翼の言葉に、少年はますます驚いたように目を瞠った。薄茶の瞳が光を反射して輝く。
「翼、ケッコンしてるの?」
「うん。子供もね、いるんだよ。シャロンていう名前の女の子。このあいだ生まれたばっかりなんだ」
言って、彼は小型端末のホログラムを浮かび上がらせて少年に見せた。
「ほら、これが僕の奥さんと娘のシャロン」
少年がもっとよく映像を見ようと翼から端末を受け取ると、IDチップに登録された個体情報を認証しなくなったホログラムは、たちまち像を崩して消えてしまう。がっかりする少年に、翼は笑ってタブレット型の別の端末を取り出し、そこにIDチップを差し替えて、おなじ画像を表示させたものを少年に差し出した。
少年はまじまじとその画像に見入ったあとで、感心したように口を開いた。
「すごいね。じゃあ、翼、おとーさん、なんだ」
「そうだね。あんまりすごくもないんだけど」
「赤ちゃん、可愛いね。それに奥さんも、美人だ。――会いたい?」
「うん、そうだね。でも、いまはまだ、いろいろしなきゃならないことがあるから、もうしばらくはここにいるつもり」
少年は、もう一度しげしげと画像を眺めると、丁寧な仕種でタブレットの向きを変え、翼に返却した。いつのまにかクッキーは、少年の腕の中で気持ちよさそうに寝入っていた。
「ジャスパーのお母さんほど美味しくはできないかもしれないけど、今度、ふたりでクッキー焼いてみる?」
「うん」
「じゃあ、そのうちだれかに頼んで、材料そろえてもらうね」
「うん」
もう一度頷いて、少年はまた咳きこんだ。
「風邪、ひいてるの?」
「うううん、違う。ときどきこうなる。いつものこと、だから、心配ない」
「そう?」
「うん、平気」
少年はふと口を噤んで、なにか言いたそうな顔で翼を見つめた。
「どうかした?」
「――ダグに、聞いたんだけど、翼、字、書ける?」
「うん、書けるよ」
「あ、あの……、おれ、バ、バカ、だから、ぜんぜん勉強、できないんだ。でも、本とか読んだり、字、書いたりしたくて、そんで、だれかに習いたかったんだけど、なんかちょっと、そーゆうの苦手で。そしたらダグが、翼に教えてもらうと、いいって……。そんで、おれ……」
必死に言葉を選びながら、少年は自分が翼を訪ねてきた本当の目的を告げた。
字を教えてもらいたい。それだけを言うために、この子にはどれだけの勇気が必要だったのだろう。そう思うと、翼はやるせない思いになった。
頭が悪いのではない。教育を受けることが、この子にはいままでできなかったのだ。そして、そんな自分を、彼はひそかに恥じている。なにひとつ、彼が悪いわけではないのに。
「僕でよかったら、いくらでも教えてあげるよ」
自己評価の低さゆえに感じている周囲への引け目を、少しでも取り除く手伝いをしてやりたい。そんな思いから、翼は快く応じた。
「一緒に勉強しよう、ジャスパー。教え慣れてないから、うまく説明できないかもしれないけど、それでもいいかな?」
少年の瞳が瞠かれ、たちまち相好を崩した。それは、泣き笑いのような表情だった。
「お、おれ、うんと頑張る。すごく頑張って、勉強する。そしたら、字、書けるようになるかな」
「うん、きっとすぐだよ」
「本も、いっぱい読めるように、なる?」
「なるよ。好きなだけ、いくらでも読めるようになる」
「お菓子のクッキーも、きっと作る?」
「きっと作る。男同士の約束だもんね」
翼の言葉に満足すると、ジャスパーは幼い子供のように手放しで喜びを現して、何度もうんうんと頷いた。
「おれ、ダグに言ってくる。翼と勉強、するって。またあとで、来るね」
少年は晴れやかな表情でそう言って、身を翻した。
「あ、ジャスパー!」
呼び止められて、少年はクルリと振り返った。
「あの、ビッグ・サムのこと、好き?」
質問を理解すると、少年はにっこり笑って力強く首を振った。
「うん、大好きだよ。かあちゃんと、おなじくらい」
「ちゃんと、かまってもらえてる?」
「……ちょっとだけ。でも、いいんだ。おれ、ダグが大好きだから。そんでいまは、それとおんなじくらい、翼のことも好き」
偽りのない思いを、飾らぬ言葉で少年は口にする。
これ以上、深く傷つかぬよう守ってやりたい。そう思わずにはいられない無垢な心が、そこにあった。




