第7章 ヒエラルキー(4)
《シリウス》のトップ、ビッグ・サムは、そのまま一時、《セレスト・ブルー》に留まることになったようだった。
翼より数歳年長である彼は、服装、立ち居振る舞い、言葉遣い、そのどれをとっても他のスラムの少年たちのそれとは異なって、翼の注意を喚起した。
彼がどのような過去をその背景にもつのか、翼は知る由もない。しかし、通常おもてに現わす一面を見るかぎり、彼は、スラム生活者にそぐわぬ健全さを備えているように思えた。
すべてにおいて他を凌駕する、一見完璧な存在であるかに見えるルシファーでさえもが時折垣間見せる危うさのようなものが、彼にはまったく見受けられなかった。その精神は、スラムにあって、奇異と映るほど安定していた。
彼が、社会に適応し得なかったはずはない。むしろ、普通の社会にあってこそ、その英邁な資質は際立って栄えるように感じた。
如何なる事情を抱えて、彼はこの地上へ逃れてこなければならなかったのか……。
けれども、翼が彼に対してもっとも関心を誘われたのは、その異質性以上に、ある人物との関係が特異に映ったからだった。容易に他人に膝を屈するとも思えぬ為人の青年は、その存在に対してのみ隷従し、かしずいて、過剰なまでの気遣いを見せた。
彼の奉仕をいったいどのように受け止めているのか、高貴なる存在は、ただなされるまま身の周りの世話を任せ、受動に徹している。ガラス細工のように硬質で、繊細な美貌を覆う冷たい表情に変化はない。みずからはなにもせず、指ひとつ動かすこともなく、しかもそれを、ごく当然のことと思っているらしかった。
「気になる? あのふたりの関係」
ほっそりとした白い指を差し出して爪を磨かせているシヴァと、黙って跪き、青年に奉仕するビッグ・サムの姿を離れた場所から唖然と眺めていた翼に、デリンジャーが思わせぶりに声をかけてきた。
「ちょっと意外、だったかも。だってシヴァ、普段ビッグ・サムがいないときは、自分のことは全部自分でしてるよね?」
「見たとおりよ。じつはあのふたり、デキてんの。禁断の愛よ、禁断の愛。でも、いやあね、あんなふうに臆面もなく見せつけちゃってさ」
言ってから、デリンジャーはチラリと翼の表情を観察し、直後に吹き出した。
「なんてね、ウ・ソ。もーっ、新見ちゃんたら、なんて顔してんのよ。ほんと素直なんだからっ」
「……へ? うそ?」
「ウソ、ウソ。冗談に決まってんでしょ。あのシヴァに、恋愛なんてできっこないじゃないの。言ったでしょう? 女子供が死ぬほど嫌いだって。ついでにあいつ、男も嫌いなの。ようするにね、人間嫌いなの。それも、ものすごい徹底した」
「冗談きついって、デリンジャー! 思いっきり信じちゃったじゃないかっ」
からかわれたことに気づいて翼が抗議の声をあげると、デリンジャーは愉しげにヒラヒラと手を振ってそらとぼけてみせた。
「あーら、だって思いっきり信じたってことは、それなりに信憑性があったってことでしょう? 文句だったら、あんなとこで怪しげな雰囲気出してる、あのふたりに仰いよ。もっとも、面と向かってそんなこと言ったら、新見ちゃん、あんた、シヴァの奴にソッコー殺されるわよ。あいつ、その手のジョーダン全然通じないから」
「ああいう場面目の当たりにして、そんなこと言われたら、だれだって信じるって。ったく、人が悪いんだから」
翼の言葉に、デリンジャーはなおも可笑しげに笑いを漏らした。
「でも、あんなふうに一緒にいるところを見ると、シヴァはルシファー以外にも、自分から心を開ける相手がちゃんといたんだね」
「さあ、それはどうかしら」
デリンジャーの受け答えには、否定のニュアンスが多分に含まれていた。
「あいつがだれにどの程度気を許してるのかなんて、あたしにはわかんないわ。ただ、ビッグ・サムに関して言うなら、過去の主従関係が継続してるってことだけはたしかだわね」
「過去の主従関係?」
「いまは別々のグループでそれぞれナンバー・ツーとアタマ張ってるけど、もとはあのふたり、一緒だったの。そのときの関係が、いまもああやってつづいてるってわけ」
「なぜ、ふたりは別れちゃったのかな?」
「《ルシファー》が現れたからでしょう。ボスの存在によってふたりの途はわかたれたけど、ビッグ・サムはいまでもシヴァの下僕ってわけ。だからああしてシヴァだけに忠誠を誓って、見てるほうが赤面したくなるような過保護っぷりで尽くしてるのよ。一目を置いていながらも、ルシファーの存在はあくまで、彼にとっては自分と対等なものでしかないわ。あの男が膝を折るのは、この世でただひとり、シヴァに対してだけよ。どーゆう関係かは本当のところよく知らないけど、なんともけなげな話だわねえ」
自分から話さないかぎり、余計な詮索をしない。それがスラムでのルール。換言するならそれは、彼らが容易に他人に話すことのできない秘密、守らねばならぬ秘密を持っているということだった。
「あの、シヴァってさ……」
「え?」
「あ、うううん。ごめん。なんでもない」
言いかけた言葉を、翼はあわてて呑みこみ、口を噤んだ。
重労働をしたことのない、美しい繊指。他人に奉仕されることに慣れきった高雅な態度。高等教育を受けた怜悧な知性。優美で洗練された物腰。
それでも、地上に逃れて来なければならなかった青年が、ここにたしかに存在する。
翼はふたたび、いまひとりの人物に目線を移した。
だから、なのだろうか……。
不意に足もとに、なにやらやわらかい、くすぐったい感触のものがどかんと当たって、翼は仰天して飛び上がった。
「クッキー!」
声とともに、ひとりの少年が駆けてきて、翼の足もとにあったものをすばやく拾い上げる。見れば、モコモコとした焦げ茶色の物体は、1匹の小さな仔犬であった。
「可愛いね、君の犬?」
表情をなごませて尋ねた翼に、少年はわずかに警戒の色を見せながらも無言で頷いた。その顔に、翼は見覚えがあった。ここ数日、シヴァとビッグ・サム、ふたりの様子をいつも物陰から窺っていた少年のものであった。
「クッキーっていう名前なの?」
「ボ、ボスが飼っても、いいって言った。おれ、な、なんにも悪いこと、してない」
怯えたように、しかし、それでも精一杯の虚勢を張って仔犬を庇う少年の頭を、デリンジャーの大きな手が乱暴に掻きまわした。小さな躰が、ピクリ、と緊張した。
「あんたもある意味、けなげだわねえ、ジャスパー。またシヴァに、ビッグ・サム奪られちゃったの?」
言われて、少年は口唇を噛みしめた。
「……しょーがない。だって、ダグは、シヴァのもん、だから」
「遠慮しないで少しはかまってもらったら? せっかくひさしぶりに会えたんだし」
デリンジャーの言葉に、少年はやはり無言で首を振ると、仔犬を抱きしめたまま走り去っていった。
「あの子……」
「ジャスパー? 一応セレストのメンバーだけど、もともとは浮浪児だったあの子を拾って、ビッグ・サムが面倒見てたのよ。ビッグ・サムを本当の親か兄貴みたいに慕ってるけど、いろいろあって、いまは彼と離れ離れになってるもんだから、ボスもあの子には、少し甘いところがあんのよね」
「ビッグ・サムのこと、『ダグ』って呼んでたね」
「それが本名かどうかは知らないけど、『ビッグ・サム』のほうはあきらかに偽名だわね。本名をそのまま名乗る人間なんて、ここじゃワンピース着た爺さんなみに稀少よ」
彼らしい表現ではあったが、たしかに内容としては説得力のある言葉であった。
「あの子、言葉遣いが少し変だったでしょう? 極度の神経症だったの。ビッグ・サムに拾われるちょっとまえまでは、母親とふたりで暮らしてたらしいんだけど、それがどうしようもないヤク浸け酒乱の男狂いで、さんざん虐待されてたのよ。その母親が死んで、ようやく暴力から解放されたものの、きちんとした教育なんて一度も受けたことがないから、生活能力もそれこそ野良犬か野良猫なみ。ビッグ・サムと出会って、ようやく生活水準が人間レベルにまで引き上げられたってわけ。
いまちょうど15歳だけど、外見も幼いし、一般の15歳男子の標準体型に比べると、ずっと小柄で痩せてるでしょう? 学力レベルも5、6歳児なみよ。読み書きがほんの少しできる程度。頭はいい子なんだけど、どうしても独りの殻に籠もりがちになって外へ出ていけないから、なかなか身につかないのよ」
「それで仔犬を?」
「ジャスパーが自分で見つけて、拾ってきたのよ。それでボスに許可を求めたの。あの子が自分からなにかをしたいって言い出すなんて、それがはじめてのことだったから、あっさりボスも許可して、それからずっと熱心に世話してるわ。まえよりも明るくなってきたわね」
「でも、それでもやっぱり、淋しいんじゃないかな」
「そりゃそうでしょうね。犬には包容力なんてないもの。近くに大好きな人間がいれば、少しでもそばにいて甘えたいと思うんじゃない? それをあんなふうに物陰からじっと見てるだけで我慢してるなんて、聞きわけがよすぎるのよ。ていうより、おそらく我儘を言って、相手に嫌われるのが怖いんでしょうね。そういうことには、ものすごく敏感で臆病な子だわ」
デリンジャーは、腕を組んで息をついた。
「あのバカも、シヴァにばっかかまけてないで、少しはジャスパーのことも気にかけてやりゃいいのよ。自分で拾って飼い馴らしといて、懐いたらほったらかしなんてサイテー。シヴァなんて、他人の厚意さえ邪険にして鬱陶しいとしか思わない傲慢な奴なんだから、あんなかいがいしく、なにからなにまで面倒見てやることなんてないのよ」
「ジャスパーのこと、それとなく彼に伝えてみたらどうかな?」
「知っててあれだから、余計に始末に負えないんでしょ」
もどかしげにも聞こえる声が、ピシャリと翼の提言を撥ね除けた。
「生憎、あのバカは死んでもなおんないわ。一生、シヴァひと筋よ。それに、あたしたちはお互いのことにやたらと干渉しないのがルールなの。正面から他人と関わりを持つなんて、まっぴらだわね」
デリンジャーはそっけない口調で言い放つと、飄々とその場を立ち去っていった。




