第7章 ヒエラルキー(3)
《シリウス》のトップ、ビッグ・サムが数日ぶりにルシファーを訪ねてきたとき、彼は、自身のほかに約1名、おまけを随伴していた。
「翼っ、アニキ! うわーっ、本物だ! 本物がいるっ。やっぱ生きてたんだあああっ!!」
翼たちの姿を認めるなり絶叫したその人物は、ショッキング・ピンクの頭髪を振り乱して猛然と突進してくると、ふたりの首筋にいっぺんにガバッと飛びついた。そして、そのまま勢いあまってバランスを崩すと、3人は飛びつかれたふたりが押し倒されるかたちで見事に床にひっくりかった。さすがのレオも、今回ばかりは不意打ちをくらって受け止めきれなかったようである。
「ディック!」
激しく噎せこみながら翼が加害者の名を呼ぶと、少年はなおもしっかりとふたりの首にしがみつきながら、最大級の喜びを躰中で表現した。
「うわーっ、うわーっ、すげーっ! ほんとに本物だーっ!! うわー、どーしよーっ、オレ、すげえ嬉しい! ムッチャクチャ嬉しい! 神様ありがとーって感じ。オレ……オレ、マジで心配してたんだぜ。ふたりともそう簡単に死ぬわけないって信じてたけど、でも、ふたりとも急に消えちまうし、なんかホテル、すげーことんなってるし、そんでオレ、オレ……」
感極まって、顔中涙と鼻水だらけにして再会を喜ぶディックに、いったいなにごとかとギャラリーが集まってくる。翼もレオもたじたじになりながら、唖然とした顔で自分たちを見下ろす観衆に誤魔化し笑いをするのが精一杯だった。
「まーた変なのが1匹増えちゃったみたい」
輪の外から騒ぎを見物していたデリンジャーが、げんなりと漏らす。
「……すまん」
とんだ台風の目を持ちこんでしまった《シリウス》のボスは、《セレスト・ブルー》の幹部に向かって心底面目なげに頭を下げた。
「で、ディック、なんだっておまえが《シリウス》の頭と一緒だったんだ?」
『感動』の再会から数分後、ふたりがかりでさんざんなだめすかして、ようやくディックを落ち着かせた翼とレオは、とりあえず少年を連れて翼の部屋に行き、3人だけで話ができる環境を整えた。
「なんでって、だってオレ――っつうか、《ブラッディー・サイクロン》て、《シリウス》直属じゃん?」
「え? 《セレスト・ブルー》の傘下じゃないの?」
「だからあ、ハジメんとき言ったじゃんか。オレらは下の下だって。トップにセレストがあって、その下位に《シリウス》なんかのまあまあ力のあるグループがついてるわけ。そんで、その次がオレらになると。もちろんその下にだって、いくらだって下っ端がついてんぜ?」
見事なヒエラルキーがそこに存在することを、ディックの言葉はごく当然のように物語った。
「でさ、今回サイクロンは、いつもどおり《シリウス》の下で動くわけだけど、戦闘に備えて小細工すんのにちょっと資料が必要だったから、ビッグ・サムの命令で、大将に従ってきたんだ。機密事項だから、あんま詳しいことは言えねえけどさ」
「そうだったんだ」
「うん。けど、いくら大将のお供とはいえ、ほんとはあんま気が進まなかったんだ。だって、やっぱ怖ェじゃん? セレストのタマリに直接足踏み入れるなんてさ。でも、やっぱ来てよかったよ。まさかこんなとこでアニキたちに会えるなんて、オレ、全然思ってなかったし」
少年は、スンと鼻を啜って、はにかんだように笑った。翼は、自分に弟がいたらこんなふうだろうかと思いながら、自分たちを気にかけてくれていた相手に、心配をかけたことを詫びた。
「ごめんね、ディック、黙っていなくなっちゃって」
「いいんだ、べつに。こうやってふたりの元気な顔見れたしさ。ただオレ、ほんと言うとちょっとだけ、もしかしたら、って思わないでもなかったんだ」
「なにを?」
「だって翼、ずっとルシファーのこと追っかけて、セレストのこと調べまわってたじゃん? だから、いきなりいなくなっちまったとき、ちょっとだけ思ったんだ。縁起悪くてほんとワリィんだけど、もしかしたら翼は、ルシファーに消されちまったのかも、って」
言った途端に大きな拳が飛んで、ゴンッと少年の頭に叩きつけられた。
「ってー! だってアニキ、オレ、冗談じゃなくってマジで……」
無言で威圧する舎兄に、ディックは頭を押さえながら弁解しようとした。そんなふたりのあいだに、翼は笑いながら割って入った。
「ディック、心配いらないって。ルシファーは僕たちに、とてもよくしてくれてるから」
「……翼、なんか知んないけど、随分ボスに気に入られたんだな」
「さあ、よくわからない。でも、彼、すごく優しいよ?」
優しい――
それはやはり、翼がなんらかの理由でルシファーから特別な待遇を受けているからなのだろうとディックは思った。彼の、そしてスラムを根城とする者たちの知る《ルシファー》ほど、翼の使用した形容詞と無縁である存在はいない。そのゆえにこそ、彼の存在は、他のなにものをも超えて彼らの頂点に君臨し、耀きつづけていられるのだ。
「翼、ちょっといいか?」
「え? うん、なに?」
ノックとともに、すらりとした長身が部屋の入り口に現れる。何気なくそちらに視線を泳がせたディックの躰に、瞬間セラミックス加工が施された。
訪ねてきたのは、たったいま話題にのぼっていた噂の人物だった。
呼ばれて席を立った翼を相手に、憧れ、仰慕してやまぬ絶対者――自分たちが唯一と崇める覇王が、低い声でなにか話をしている。直接言葉を交わすことはおろか、こんなに間近で彼を見たのも、じつのところ、少年にははじめてのことだった。
「すげ…、本物の《ルシファー》だ……」
「ディック、おまえさん、涎でてるぜ」
すぐ隣でレオが冷やかすように言ったが、そんな揶揄の言葉さえ、少年の耳にはまるで届いていないらしかった。
「本物だ……。生きて動いてる、本物の《ルシファー》だ……。アニキ、すげえなあ。翼の奴、《ルシファー》とあんな普通に、平気で喋ってんぜ。いいなあ、やっぱサイコー。なんであんなカッコよくって、あんなキレーなんだろう。あれがオレたちのボスなんだって、世界中の奴らに自慢してやりてえよ。マジ、サイコー。すげえよなあ、アニキ。もう全然たまんない。男だったら絶対ああなりたいって、やっぱ憧れるよな。アニキもそう思うだろ?」
「なんでそこでこっちに振る。あたしゃ女だって」
レオのあげた抗議の声は、しかし、少年の耳から脳に達するまえに、勝手に自動翻訳されていた。
「そうだよな……、そうなんだよ。アニキならわかってくれると思ったぜ。男の中の男だもんな。そうゆう奴も惚れさせる。《ルシファー》は、オレたちの〈神〉そのものなんだ」
――惚れてねえよ。
うっとりと熱に浮かされたように呟く少年を見て、彼の兄貴分は、ダメだこりゃと諦めの吐息を漏らした。
「レオ」
話が終わったのか、翼はルシファーになにごとかを承諾すると相棒を振り返った。
「取材の件なんだけど、しばらく状況が落ち着くまでのあいだは写真抜きのほうがいいって言うんだ。それでもかまわないかな?」
「こっちはべつにかまわないよ。そのほうが都合がいいってんならそうする」
「悪いな、レオ」
社交辞令的なものとはいえ、組織のトップに殊勝に頭を下げられて、「いや」とレオも応じた。
レオに向けられていた青紫の双眼が、流れるようにその隣へ移される。視線に気づいたディックが、文字どおり椅子から飛び上がって、金剛石なみに硬化した四肢で直立不動の姿勢をとった。
「おまえか、セレストで大騒ぎした台風小僧ってのは」
年齢でいうと、小僧扱いされたディックのほうが年長であるはずなのだが、威厳、落ち着きといった面で、少年はあきらかに年下のボスに数万歩及ばない。それゆえ、一同は違和感なくその言葉を受け容れてしまった。呼ばれた当人にしても、自分が相手になんと呼ばれたかより、『《ルシファー》にじきじきに声をかけてもらった』という事実のほうが遙かに重要で、重大なことだったようである。
「はっ、ははははっ、はいっっっ! 自分は《シリウス》直属配下、《ブラッディー・サイクロン》のディックでありますっ」
「元気があっていいな、小僧。その調子でしっかりやれ」
「ハイッ! 光栄でありますっっ。《ブラッディー・サイクロン》、ボスのお役に立てるよう、精一杯やらせていただきまっす!」
いまにも失神しそうな熱血小僧の宣誓を軽く受け流すと、ルシファーは邪魔したなと翼に声をかけて部屋を出ていった。
ほどなく部屋の中では、一部の不運な人々を巻きこむ狂喜の超大型台風が発生し、猛威をふるった。遭わなくてもいい災害に見舞われた不幸を鑑みると、起爆源自身に被害が及ばなかったことは、犠牲者たちにとって、まことに遺憾であったに違いない。




