第6章 幹部会議(1)
【我々が当然のごとく認知、受容し、定着させている『道徳』という社会通念が、彼らにとって意味をなさないからといって、彼らの世界が『無法』であると短絡的に結論づけることはできない。なぜなら彼らは、我々が遵守することを義務づけられている倫理基準などとは比較にならぬ厳格さで独自の法を守り、彼らなりの秩序を保っているからである。
ひとたび背けば、彼らは皆、例外なく制裁を加えられ、処断される。その態度はあくまで冷厳で透徹しており、そこに、曖昧、寛容という言葉の入りこむ余地を見いだすことはできない。そしてそれが、彼らにとっての不文律なのである。
結果、彼らを足下に屈従させる〈ボス〉の存在は、我々の想像を遙かに超えて、信仰にも近しい渇仰と忠誠、崇拝の対象となる。彼らにとってのボスとは、自分が従うべき唯一の絶対者であると同時に、みずからの存在理由の象徴として神聖なる領域に位置づけられる、不可侵の存在であるともいえる――】
自分のまとめた文章を読み返して、翼はフウッと息をついた。
修飾過剰で、感情に走り、偏った私見が色濃く出たこんな文章では、とても記事として通用しない。わかっていながら、それでも必要以上に文章を捏ねくりまわして無駄な時間を浪費したのには、それなりの理由があった。
「どう、少しは捗ってる?」
背後から声をかけられて振り向くと、マグカップを両手に、巨漢の黒人が立っていた。
《セレスト・ブルー》のナンバー・スリー、金髪のデリンジャー。
その呼び名のとおり、金褐色をした彼の短く刈られた頭髪は、染めたり色を抜いたりしているわけではなく、生来のものなのだという。
翼は差し出された片方のカップを受け取ると、あたたかなコーヒーをひと口啜って、もう一度吐息を漏らした。
「あんまり、っていうのが正直なとこ」
「無理ないわね、こんな状況じゃあ」
「――ルシファーは?」
青年の質問に、デリンジャーは無言で肩を竦めた。
翼が宿泊先のホテルから失踪したことになってから、すでに3日が過ぎていた。
突然部屋に現れたルシファーに、翼は条件を突きつけられ、決断を迫られた。考えた末に彼が出した結論は、ルシファーと行動をともにすること。即断した翼を、ルシファーはその場でホテルから連れ出した。しかも正面玄関から堂々と、である。
《旧世界》に赴任中のエリート官僚の奥方が、従僕を従えて外出する姿は、昼夜を問わず、セントラル・シティでは日常的によく見られる光景だった。ルシファーは、それを利用したのである。
盗聴器を取りはずした時点で、翼の返答を見越して従僕用の制服まで用意されていたのには、さすがの翼も絶句した。しかしそのおかげで、貴婦人とその後につづく若い男のふたり連れを不審に思う者は、だれもなかった。
ふたりを乗せた黒塗りのリムジンは、そのままいずれともなく去っていった。ハンドルを握る専属運転手は、髪を金髪に染めた大柄な黒人であったが、目立つはずのその存在にさえ、目を留める者はだれもいなかった。
終始俯き加減で控えめだった従僕の影が、個性の強い運転手以上に薄く、だれの印象にも残らなかったのは、ひとえに彼を引き連れていた『絶世の美女』の、圧倒的なまでの存在感ゆえだろう。
車内ですばやく着替えを済ませた彼らは、途中、車を降りてデリンジャーと別れた。そして、万一追っ手がかかった場合を想定して、あらかじめ周到に選ばれていた経路をたどり、さらに用心を重ねて、幾度かその順路さえも変更しながら現在の場所までたどりついた。
スラム最深部――港湾北第7ブロック。彼らの新しい拠点は、以前のホテル跡地よりさらに奥まった、北西寄りに位置する高層ビルの地下にあった。そこは、消息の掴めなくなったルシファーの行方を求めて周辺地区を日参した際、翼が幾度となく通りかかった場所でもあった。
ルシファーはテリトリー内での第三者の動向のすべてを把握している、とはディックの言であるが、蓋を開けてみればなるほどと思うばかりである。取材開始当初、あれほど難渋した港湾区北西部への進入はもちろんのこと、最深部である第7ブロックへの出入りまでが容易かったのは、すべて、ルシファーからの指示によるものだったのだ。
彼は、いっさいを承知したうえで、翼たちを泳がせていたのだろう。そして、最終的になにかが決め手となって、今回の行動を起こすに至った。つまりはそういうことだった。
翼の取材に応じるにあたり、ルシファーが出した条件は3つあった。
ひとつは取材期間中の滞在先を、用意されたホテルから《セレスト・ブルー》の拠点に移すこと。ふたつめは、取材内容及び対象範囲を拡張すること。そして3つ。すべてが片付くまでのあいだ、外部との接触をいっさい避け、消息を絶つこと。驚いたことに、IDチップに内蔵された測位システムが、パスワード認証ひとつで自在にオン・オフの切り替えができるようになっていた。
ID登録者の現在地確認、足取り追跡は、プライバシー保護のため、犯罪歴のない一般市民の場合、相応の手順を踏む規定が設けられている。しかし、なんらかの事件、事故に巻きこまれた場合を想定して、《メガロポリス》在住者のIDチップには測位システムの搭載が義務づけられており、所有者個人の都合で勝手に操作できない仕組みになっていた。その、通常では操作不能な測位システムのプログラムに手を加えることで、ルシファーは翼の消息を、見事に消してみせたのである。
退院直前、翼の手もとに戻ってきた通信端末は、IDチップも含め、事件捜査当局の手によって、悪質の有無を問わず、なんらかの手を加えられた形跡がないか精査され、安全が確認されたはずだった。
高度な技術力もさることながら、ここまで見通しを立てたうえでのルシファーの行動に、翼はいまさらながら驚嘆する思いだった。だが、ホテルを抜け出してからこの3日、事態は遅々としていっこうに進展する気配もなかった。
新しいアジトに戻って、翼を自分の賓客として迎え入れる旨の通達を配下に行き渡らせると、ルシファーは自室の隣の部屋を翼にあてがって、さっさと姿を消してしまった。そしてそれっきり、なんの音沙汰もないまま、現在まで放っておかれている。
ボスの客とはいえ、部外者に対する少年たちの反応はあくまで冷淡で、敵意に満ちていた。怪しげな余所者の存在に加え、ボスの不在。殺気立って神経過敏になっている彼らをあまり刺激するわけにもいかず、畢竟翼は、部屋に閉じ籠もって草案らしきものをいくつかまとめるなどして時間を潰すよりほかなかった。
「ごめんなさいねえ、誘拐のうえ拉致監禁、みたいな状況に追いこんじゃって。けど、そんなに長くはつづかないはずだから、もう少しだけ辛抱しててね」
「僕はべつにかまわないんだけど、レオのことが気になるかな。いきなりなんにも言わずに出て来ちゃったから、きっとすごく心配してる」
「そのことだったら大丈夫よ、ボスがちゃんと手配してるはずだから。準備が整い次第、彼女もこっちに迎え入れる約束でしょう? あの人、そういうとこは抜け目ないもの。その辺は信頼してて平気よ」
「彼、どこに行っちゃったのかな?」
「さあ、どこでなにしてることやら。あたしたちみたいな凡人には、想像もつかないわねえ」
凡人が聞いたら抗議のデモ行進でも起こしそうなセリフを吐いておいて、デリンジャーは可笑しそうに笑った。
「ルシファーって、いつもこうなの?」
「いつもこうなの」
「心配じゃない? そういうのって」
「さあ、どうかしら。いいかげん、もう慣れっこだわね。いちいち不安がったり心配してたんじゃ、こっちの身が保たないもの。あの人はね、ほっぽらかしといても大丈夫。たいていのことは自分で決めて、自分で片付けちゃうから。他人の助けをあまり必要としない人なの。実際にあたしたちに招集かけて命令を下すときには、実行するだけになってる場合が殆どよ。今回もやっぱりそう。ボスがなにを考えて、なにをするつもりなのか、いっさい聞かされてないから、ただこうして彼が戻ってくるまで待つしかないの。あなただけじゃなくって、あたしたちにもまだ、なんにもわかってないのよ」
「いくらボスでも、それって一方的すぎない? 大事なこと、なんにも話してもらえないで、決定事項だけ命令されるなんて」
「あまりにも完璧すぎて、ケチのつけようがない計画を立ててくれちゃうから、文句の言いようがないのよね。それ以上にいいアイデアなんて、こっちから出せっこないのはわかりきってるし。不甲斐なくってごめんなさいって感じかしら」
「でも、そんなのって、なんかちょっと……」
口籠もった翼の頭を、デリンジャーは軽く叩いた。
「だから言ったでしょう、凡人には遠く及ばない人だって。あんまり気にしないの、じき慣れるから」
慣れてしまえば、それでいいのだろうか。デリンジャーの言うことに、翼は納得できなかった。
一方的な意思の伝達しか成立しないのであれば、『仲間』である意味がない。もし自分が彼らの立場なら、少なくとも相手にとって、ただ都合がいいだけの、使い勝手のいい道具としか見做されない存在ではいたくはない。信奉する相手ならばなおのこと、自分の存在価値を評価したうえで信頼し、認めてほしい。自分ならば、きっとそう願わずにはいられない。あれほどまでに焦がれる〈彼〉に対して、彼ら自身は、そう望むことはないのだろうか。
翼がそこまで考えたとき、部屋のすぐ外で騒ぎが起こった。言い争う複数の喚声と、それにつづく凄まじい破壊音が鼓膜を刺激する。翼は思わずビクッと身を竦ませた。




