エピローグ(1)
タラップを降りてゲートの外に出た翼は、思いっきり伸びをした。頬を撫でるさわやかな風が心地いい。
「あ、来た来た。新見ちゃーん!」
呼ばれて振り返ると、空港の到着ロビーに、懐かしい顔ぶれが並んで彼の到着を待ちかまえていた。
「あれぇ、わざわざ迎えに来てくれたんだ?」
翼の顔が、嬉しい驚きに輝いた。
「あたりまえよぉ、1年ぶりの再会ですもの」
翼が近づくと、その手から荷物を引き受けながら金髪の黒人が言った。
「そっか、もうそんな経つんだっけ。デリンジャーの結婚式以来だもんね」
「そーよぉ。あーっというまに新婚じゃなくなっちゃったわ」
「まだ早いよ。奥さんは元気?」
「げーんき、元気。殺しても死ぬようなタマじゃないもの」
デリンジャーは朗らかに笑った。
【私たち、本気で夫婦喧嘩をはじめることにしました】
翼をはじめとする仲間たちの許へ、デリンジャーとその恋人から連名でそのようなメッセージ・カードが届けられたのは、いまから1年前のことである。驚いた翼は、すぐさまメッセージの送り主に連絡を取ってことの真相を確認し、さらにはスラムの仲間たちとも連絡を取り合って、彼らのためのウェディング・パーティーを開いたのである。
企画者側は、『ささやかで心のこもった』というコンセプトのもとにさまざまな催しを起案したのだが、実際蓋を開けてみれば、出席した顔ぶれのそれぞれの破天荒ぶりがすべてを台なしにして乱痴気騒ぎに発展してしまったという、非常に笑える――主役ふたりにとっては迷惑このうえない――オチつきである。
その騒ぎをつい昨日のことのように懐かしく思い出しながら、翼はもうひとつの忘れられない出来事についても思いを馳せ、しみじみと述懐した。
「ってことは、あれからもう、3年になるんだね……」
独語めいた呟きに、いまひとり、金髪の美形のほうが穏やかに応じた。
「そうなるな。お互い多忙に過ごしてると、時間なんてあっというまだ」
「ほんとだよね。でも、相変わらず元気そうでよかった。研究所のほうはどう?」
「まあ、ぼちぼち軌道に乗ってきたな」
「へえ、すごい」
感心しかけた翼に、彼の手荷物を車のトランクにつめこみながら、デリンジャーがすかさず横槍を入れた。以前のど派手なクーペはすでに処分したのか、はたまた彼のボスに乗車を拒否されたのか、今日の送迎車はごく普通の、グレーのセダンが選ばれていた。
「うそうそ、軌道に乗ってきたどころの話じゃないわよ。近々《メガロポリス》中から、権威ある学者たちがそろってうちの研究所に移籍してくるって話」
「うそっ! なにそれ」
「まだ内密の話だから、記事にしちゃダメよお。でも、殆ど本決まりの内容だから、公になるのも時間の問題ってとこかしらね」
「そうなったら、またすごい騒ぎになるね」
「ほんとよお。2年前に研究所開設したときもすごかったけど、きっと今回も、連日マスコミが押しかけてきてインタビュー責め。ちっとも研究に専念できないわ」
《メガロポリス》随一を誇る天才医学博士は、憂鬱そうに嘆息を漏らした。
3年前のグレンフォードの事件をきっかけに、彼らは一躍、世界中の脚光を浴びる存在となった。突然の失踪の末、その安否すら不明とされていた天才医学博士。取材中の事故により死亡したはずの新聞記者と同行のカメラマン。そして、世界のグレンフォードをたった一夜にして壊滅せしめた謎の首謀者。
現在、ルシファーは、『ジル・カーティス』の名をもって《メガロポリス》における市民権を得、ひとりの有能な学者として確たる地位を築き上げている。しかし事件当初、その存在が人々の強い関心を的となったことは言うまでもない。彼の一挙手一投足に至るまで、悉くが好奇の対象となって話題を攫い、しばしば大きな注目を集めることとなった。
容姿、才能、経歴。
そのどれをとっても卓抜して、特異とさえ映る彼の存在は、本人の意向とは関係なしに、話題性充分な逸材として持て囃された。彼が『スター』の座へと押し上げられるまで、さほどの時間は要さなかった。
日を追うごとにヒートアップしていく狂乱とも言える騒ぎ。その只中に放りこまれ、巻きこまれていく中、ルシファーはそのような周囲の熱狂とマスコミの思惑に翻弄されることなく、終始冷静さを保ちつづけていた。それどころか、逆にそれらを巧みに利用して足場を固め、今後みずからが抱いている構想に必要な地位と相応の名声とをあっさり確立することさえしてのけた。それこそがまさに、彼が常人とは異なる才覚の持ち主と騒がれる所以なのだろう。
「でも、そうなってくると、今後ますますアカデミーの枢要は地上に移ってくることになるね。最近では《メガロポリス》・《旧世界》間の行き来も、かなり身近で一般的になってきてるし」
「所長の望むところだわよね」
運転席に乗りこみながら、一研究員を自称する天才博士は助手席に向かって同意を求めた。年下の上司は、笑ってそれを受け流した。
「でも、この人って、本当に学者とか研究者には向かないタイプだって、一緒に仕事するようになってからつくづく痛感させられたわ」
「へえ?」
車を走らせながら、デリンジャーは滔々と語りはじめた。
「基本的に興味の対象がひろすぎちゃって、全然ひとつのことに集中できないのよ。もう、すっごい浮気性なの」
「ひろい分野に興味を持つことは、悪いことじゃないだろう?」
「あのね、この際だからはっきり言わせていただきますけど、物事には限度ってものがあるんです!」
助手席のボスに向かって指を突きつけ、デリンジャーはきっぱりと言い放った。そして、後部座席の翼を振り返った。
「ほんと、メチャクチャもいいとこなのよ、この人。このあいだだって研究所のコンピュータ、4台も壊しちゃったんだから。それも全部、いちばん新しいヤツ。今年に入って、これでもう9台目!」
「え? だって最新の、すごい高性能のCPUとそれに合わせたシステム導入したって言ってなかったっけ? なんでそんなことになっちゃうの?」
「簡単に言っちゃうと、最新式の機械よりボスの頭の中身のほうが性能が上だったってわけ。もともといろんなことを同時進行で考える人だとは思ってたけど、研究所を開いてからはまさに水を得た魚。真骨頂ここにありって感じよ」
「ああ、でも、なんかそれってわかる気がするな」
「でしょ? ひとつのコンピュータで実験結果のデータ解析させてるその横で、大体の結論自分で先に出しちゃって、その概算の数字をさっさと打ちこんで次の予測段階に入っちゃうじゃない? で、それも結局、ほぼ完璧に近い状態で、たいていあとからボスの予想どおりの結果が出ちゃうんだけど、そういう処理を機械に命じてるそのおなじ頭で、自分がそのとき取り組んでる分野とは全然関係ない分野の立証されつつある仮説のことで疑問が浮かんでて、思いつくと同時に専門の研究員のところに確認しに行くでしょ? それで、そこでさんざんあれこれ議論して、自分の研究室に戻ってきたときには、次の学会で発表予定になってる論文が2、3本、頭の中でできあがっちゃってるって感じだもの。機械の処理が全然追いつかないのよ。それなのに無理やり次々にいろんなこと要求しちゃうから、いっぱいいっぱいになってパンクしちゃうの。狼なんて、せっかく大手のコンピュータ会社で技師として働きはじめたところなのに、そのたんびに駆り出されるもんだから、もうカンカン」
「デル、大袈裟に言うな」
「あら、こんなの全然大袈裟なんかじゃないわよ。だって、全部本当のことなんだから。むしろ控えめすぎるくらい。実際、生で見たら、もっとすごいのよ。つい昨日だって、研究員のひとりがボスの質問責めにあって、答えるそばから自分が正しいと信じてた説や考証の悉くを否定された挙げ句、完膚無きまでに、ほんとに容赦なく叩き壊されちゃったんで、仮説の再構築図るために泣きながら徹夜してたんだから。可哀想だと思わない?」
「俺は解らないことは解らない、おかしいと思ったことはおかしいと正直に言っただけだ。素人の俺に納得がいかないことでも、専門家にしてみれば他愛ない疑問だったりする可能性もあるだろう?」
「ボスの場合、普通の『素人』じゃないから始末が悪いのよ。なまじな専門家より知識が豊富だったりするし、その分野が多岐にわたりすぎてるんだもの。まともにやりあったって、専門バカの学者が勝てるわけないじゃない」
あんまり研究員を虐めないであげてちょうだい、と研究員の代表者は優秀すぎる所長に釘を刺した。旗色が悪くなったルシファーは、早々に話題転換をして逃げ道を作った。
「おまえのほうも順調そうだな」
強引な方向から話をふられて、翼は笑いながらそれに応じた。
「うん、おかげさまでね。フリーになったぶん、いろいろ大変なことも多いけど、自分で仕事を選べるからやりがいはあるよ。収入は不安定だけど」
「なに言ってるのよ、ベストセラーの作家先生が」
「あのときの事件の取材に協力してくれた、みんなのおかげだよ」
翼は照れたように笑った。




