第41章 楽園の崩壊(5)
自分の首を締め上げる、恐ろしいまでの怪力から逃れようとルシファーは懸命に足掻いた。
軽く掠る程度にでも麻酔弾をくらっているのか、人間の四肢を簡単に引きちぎる膂力を有する改造種にしては、力も弱く動きも鈍い。だが、それもあくまで通常の個体レベルに比しての話であり、腕力も殺傷力も、充分生身の人間以上のものを有していた。
遠のきかける意識を必死で保ち、ルシファーは咽喉を締めつける圧倒的な力を少しでもゆるめようと筋肉の塊のような腕に爪を立てる。首にくいこむ指を引き剥がそうと、夢中でもがきつづけた。だが、遺伝子改良によって肉体の能力を限界まで引き上げられた怪物の膂力は、強力な麻酔の効果でパワーダウンしてなお、ルシファーの全力の抵抗にもビクともしなかった。
次第にすべての感覚が麻痺して、視界がスパークしはじめる。瞼の裏に明滅した星は、そのまま面積をひろげて白く霞んでいった。
限界か――
諦めの境地にさしかかりながら、ルシファーはなおも弱く指を掻いた。その耳に、イヤホンを通じてザイアッドの声がはっきり聞こえてきた。
「ルシファー、俺だ。わかるか? いいか、よく聞け。いまからその怪物の脳天を麻酔弾でぶち抜く。間違いなく仕留めるから、おまえはしっかり目を開けて、バイクに飛び移るんだ。できるな?」
念を押すように訊かれて、ルシファーは返事がわりに、かろうじて数本の指をゆるゆると挙げた。
それが合図であったかのように、空を切る感覚が鼻先を掠り抜ける。直後、さして固くはない物体に、なにかがめりこんだような鈍い音が頭上で起こった。臭気を帯びた粘りけのある液体が、生暖かい感触を伴って顔にかかる。喉もとで堰き止められていた空気が、途端に一気に肺の中に入りこんできた。
堰き止められていた躰中の血液という血液がすべて逆流し、ひきつけを起こしそうになる全身を、ルシファーはヒクリと痙攣させた。
奔流のように体内を暴れ狂う苦しさに悶えかけたその視野の角が、自分に向かって倒れこんでくる巨体をとらえる。本能で危険を察知した瞬間、彼は反射的に身を躱し、すんでのところで下敷きになるのを免れた。
ただでさえ猛スピードで暴走するトレーラーの天井で、いつもの俊敏さを完全に失っていたルシファーは大きくバランスを崩す。全身にかかる重力と猛烈な風圧で、そのまま路面に放り出されそうになった。だが、絶体絶命の窮地から脱した瞬間に彼の意識は覚醒し、鋭敏な判断力を取り戻していた。
咄嗟に腕を伸ばした先にあった乗降口の取っ手を掴み、しがみつく。そして、いまだ霞む目を凝らし、激しく咳きこみながらも背後を顧みた。その眼が、トレーラーわきの青い色彩をとらえる。瞬間、彼は強く車体を蹴って、迷うことなくそちらへと飛び移っていた。
目測を誤ることはもちろん、バランスを崩すこともなければ転倒もせず、ハンドル操作を誤ってトレーラーに激突もしなかったことは奇蹟以外のなにものでもなかっただろう。
徐々に視界が鮮明になるルシファーの眼前に、ものすごい速度で迫りくる中央塔の壁が映った。
視認するや、ルシファーは驚嘆に値する神業的な技術でもって速度を調節しなおし、ハンドルを切った。瞬間、路面を穿つ勢いで摩擦が生じ、タイヤが鋭い悲鳴を放つ。横倒しに近い角度まで傾斜した青い車体は、一瞬のうちに見事な反転を決めていた。
「ルシファーッ! ラスト5秒だっ!!」
ラフの喚声が耳の奥でハウリングすると同時に、彼はマシンの加速機能を全開にした。
風が、耳もとで唸りをあげる。全身を押し潰すようなその風圧に耐えながら、ルシファーは掠れてうまく音をなさない言葉を咽喉の底から搾り出し、声のかぎりに、ありったけの願いをこめて叫んだ。
「つば…さ―――……っ!!!」
――ルシファー……ッ――――――――!!
永遠とも思えるような永い空白が、訪れた気がした。
刹那――
ルシファーの背後で、轟音とともに眩むような閃光が弾けた。
すべてが爆風の中に吸いこまれ、世界は―――――無音と化した。
完敗だ……。
小型モニターの映す先で、バイクから投げ出され、路上に転がってなおも激しく咳きこむ金髪の少年に、彼の右腕らしき青年とカシム・ザイアッドとが走り寄る姿がとらえられる。
その状景を、軍の後方にあって、崩れゆく眼前のタワーの姿と対比しながら眺めていたクライスト・ロイスダールは、爆風に髪を嬲られながら、いっそ清々しい気持ちでそう思った。
そして――
眩むような光、吹き荒れる烈風、凄まじい振動と地響き。
優美な外観をした《楽園》の象徴は、目映い閃光を放った直後、砂の城が崩れ落ちてゆくように周辺施設を巻きこみながら翼の視界から消えていった。
起爆スイッチを押してくれ――!
ルシファーの思いは、たしかに翼に伝わり、彼は、迷うことなくその願いに自分の思いを添わせ、手もとのボタンにすべてを托した。
結果、訪れた終幕――
おなじ光景を、アドルフ・グレンフォードとアナベルは被害を免れたホテルの一室から、そして、別の貴賓室では、マグダレーナをはじめとする一族が、それぞれの思いを胸に、スクリーンをとおして瞶めていた。
それは、幻想の果てに見た夢と欲望が、現の狭間へと消えた瞬間――――
『翼、俺ね、生命が秘める神秘と奇蹟の可能性を、とことんまで追究してみたい。だから研究者になったんだ。
この大地は、なんてすばらしい生命力に満ち溢れてるんだろう。
ねえ、そう思わないか? 翼――』
かつてないほど鮮明に、懐かしい声が甦る。
研究者であることを生涯の喜びとし、誇りとした、幼馴染み。
『そのときは翼、おまえも一緒に行こう。行って、そして天空に果てなくひろがる至高の耀きを、ふたりで見るんだ。
翼、本物の空を、一緒に見にいこう――』
彼が夢にまで見た世界。
焦がれ、その生命のかぎりに求めつづけた無限の奇蹟――
『いつか、地上へ行ってみたいな……』
――ケイン……。
翼の頬を、ひと筋の涙が伝った。
風は、なおも吹きすさぶ。
《楽園》の消滅は、翼の記憶と網膜にいつまでも鮮やかに焼きつき、生涯、忘れることのできない光景のひとつとなった―――




