第41章 楽園の崩壊(2)
「シヴァ!」
呼ばれて顔を上げた青年の目に、廊下の向こうから走ってくるルシファーたちの姿が映った。
走り寄ってきたルシファーが、軽く息を乱しながら大丈夫かと気遣わしげに訊く。シヴァは、穏やかに微笑んで頷いた。
「大丈夫です。ご心配おかけしました」
ルシファーは青年のその反応に、一瞬虚を突かれたような顔をした。けれども口にはしないなにかを感じとると、すぐさま納得したように頷きを返した。
「時間がない。とにかく外に出るぞ」
促されて、全員で来た道をふたたびとって返す。一族専用のエレベーターを使って特別区から一般にも開放された区域の階層まで降りたところで、別口から駆けつけてきたザイアッドとも合流した。
青年の無事を確認して安堵を浮かべた男は、しかし、すぐに表情を険しくしてルシファーを顧みた。
「ちょいと厄介なことが起こってる。重量オーバーでトレーラーに搭載したオート・ドライブ・システムがパンクしたらしい。軌道が逸れて、トレーラーの進路がずれてる。キムたちがいま、なんとかこれ以上狂わねえよう、くい止めながらもとの進路に引き戻そうとしてるが、状況はかなりきつい。このままだと、タワーから大きくはずれた建物につっこむことになりそうだ」
事態の危急を察して、翼たちは息を呑んだ。厳しい表情で手もとの時計を確認したルシファーは、すぐに結論を出して全員を促した。
「わかった、とにかく下に降りることが先決だ。行くぞ」
そう言って、すぐ先に見える中央エレベーターに向かおうとしたその矢先、集団の後方にいた少年が焦った様子でボスを呼び止めた。
「ストップ! ストーップッ!! 戻ってくださいっ。そっちはダメっす!」
苛立たしげに振り返ったルシファーに、ディックはあわてて理由を告げた。
「あの、あのですね、そっちのエレベーター、たぶん、ぶっ壊れてます」
「どういうことだ?」
「いや、あれってたぶん、さっきアニキがバズーカぶっ放して……」
「あ…っ!」
思い出したようにレオが声をあげた。
「悪い。なりゆき上つい……」
頭を掻く赤毛の女傑を見て、スラムの覇王は目を覆って嘆息した。
「しかたない。別ルートから降りるぞ」
「ここまできたら、別のエレベーター・ホールまで移動するより、じかに非常階段下りちまったほうがはえーぞ」
ザイアッドの進言をただちに受け容れ、ルシファーは非常口に向かった。そして、ルシファーにつづいて一行が非常階段にさしかかったところで、翼の横を走っていた青年が突然足を縺れさせ、階段を転げ落ちる寸前で手摺りにしがみついた。
「シヴァ!?」
翼の声に、先頭を走っていたルシファーが足を止めて振り返る。シヴァは、あわてて顔を上げるとボスを促した。
「先に行ってください。あとから追いかけます」
その様子を見て、ルシファーは事情を察した。
「そうか、おまえ足――」
ルシファーの言葉に、ザイアッドとレオがハッとした。
青年が単独で翼の救出に向かった際に負った怪我が、疵こそ塞がってはいるものの、階段を駆け下りる妨げとなったのだ。事情を知らない翼が不安げに皆の顔を見渡す。と、突然、
「翼、あんた、自分で走れるかい?」
病み上がりであることを気遣うように相棒に訊かれ、翼はわけもわからず戸惑いながら頷いた。
「う、うん。それは大丈夫だけど……」
答えを聞くなり、レオは子供を抱き上げるように青年を抱え上げた。
「レッ、レオ!」
動転したシヴァが上擦った声をあげる。
「なぁに、こんな華奢な躰、カメラの機材より軽いもんだ」
その青年を見上げて豪快に請け合おうとした女傑は、ふと笑みを消した。
「――シヴァ?」
彼は、レオに抱き上げられた姿勢のまま身を竦ませ、血の気の失せた顔を恐怖に凍りつかせて顫えていた。
それは、自分でもどうすることもできない、条件反射のようなものだった。
人に触れられることが、ずっと嫌だった。殊にそれが、自分より屈強な体格の持ち主であればなおさら、躰が竦んで動けなくなった。
レオは味方であり、なにより女性である。
わかっていてなお打ち消すことのできない、躰の芯に刷りこまれ、刻みつけられた痛みと恐怖。
幼いころに植えつけられた虐待の記憶が、頭を擡げる瞬間だった。
「す、すみません。大丈夫です」
心配そうに自分を見る赤毛の女傑に、シヴァは蒼褪めた顔のまま懸命に笑いかけようと努力した。だが、躰の顫えを止めることはどうしてもできなかった。その背を、ポンと叩く手があった。
「レオなら安心して任せられる。さっきも大丈夫だっただろ、ハニー?」
振り返った青年に、ザイアッドが意味深な含みを持たせて片目を閉じた。
管制室でカルロスから自分を護る位置に立ったとき、男はずっと、背後から自分を支えるように躰を抱いたまま、手を放さなかった。そのことを心のどこかで不自然に思いながらも、カルロスと対峙することに気をとられていたあのときのシヴァは、そこまで細かく注意を払っている余裕がなかった。
だが、あれは、男の意図的な行為だった。
――知っていた……。
驚きに瞠かれたプルシャン・ブルーの双瞳を、男の穏やかな眼差しが受け止める。そして、ゆっくりと瞬かせた。
そうだ。さっきもたしかに大丈夫だった。否、それ以前から、男に触れられることに、いつのまにか抵抗を感じなくなっていた。かつて、ただひとり、自分が恐怖せずに接することができた彼の人物のように――
そしてそれ以外でも、近ごろの自分は、人に触れられることがさほど苦ではなくなってきていた。
男の目が、無言で語っている。
もう、大丈夫だろう?
シヴァは、ゆっくりと息をつくと、全身の緊張を解いてレオに身を預けた。
「シヴァ……?」
「すみません。もう大丈夫です」
今度こそ信頼をこめて微笑した青年に、レオは安心したように笑みを返した。
「じゃあ、振り落とされないように、しっかり掴まってなよ」
「お願いします」
その場をまるくおさめた男が、とぼけた顔でチェッとぼやいてみせる。
「あーあ、俺のお株をレオに奪られちまったな」
「悔しかったら、胸の怪我、早く治すんだね」
美貌の青年を軽々と抱きかかえる赤毛の女傑に、見透かした態度ですかさず切り替えされて、男は本音の混じった顔を苦々しげに蹙めた。
「やっぱ見抜かれてたか」
「呼吸のしかた見れば、見当ぐらいつくさ。だろ、ルシファー?」
「あんまり虐めるな。見栄ぐらい張らせてやれ」
スラムの覇王は泰然と笑っている。「見当ぐらい」がまるでつかなかった翼とディックは、軽い疎外感を味わいながら当惑気味に顔を見合わせた。とはいえ、こうしてレオが自分から出張ったからには、一見、なんでもなさそうな様子を見せている男が、かなりの深手を負っていることは間違いないのだろう。心配そうに顧みる美貌の青年に、男はなおも調子よく「今回はレオに譲るが、抱かれる男は俺だけにしとけよ」などと軽口を叩いて、深刻さの欠片も見せようとはしない。そして、そんな飄々とした様子をしみじみ観察していた翼と目が合うと、ザイアッドは不真面目このうえない態度で片目を閉じて見せた。
「時間がない。急ぐぞ」
全員を促して、ルシファーはふたたび走りはじめた。青年を抱いてあとにつづくレオのスピードは、まるっきりハンデを感じさせない、流れるような足運びだった。
あんたを担いで逃げるくらい、どってことない。
はじめて会ったときに相棒はそう豪語したものだったが、それがこうして現実のこととなってみると、あんなスピードで階段を駆け下りられるスリリングな体験をするのが自分でなくて本当によかったと思わずにはいられない翼だった。
そのおなじころ――
中央塔からホテルへと引き返したアドルフ・グレンフォードは、ふたつの建物を繋ぐ連絡通路の先に、ひとりの人物をとらえて思わず足を止めた。
ホテルの入り口で、自分を待ち受ける女性。
彼女はすべてを理解し、受け容れるように、慈愛に溢れた微笑を湛えて婚約者を出迎えた。




