第41章 楽園の崩壊(1)
中央管制室のメイン・コンピュータ・ルームに、ふたたびカルロス・グレンフォードは姿を現した。
意識を奪われた後に縛り上げられたその身体は、たしかにレオによって移送機に放りこまれたはずだった。それが、いったいどうやって拘束を解き、舞い戻ってきたというのか。
愕然とする青年の眼前で、我執に取り憑かれた男は、なおも〈神〉への切り札を狙って欲望を剥き出しにする。
目を血走らせ、興奮のあまり息を荒らげたカルロスは、不気味な笑みを顔中に張りつかせながらヴィセラスの遺体に近寄った。その眼差しの先にあるのは、彼の手に握られているデータ・ファイル。男はそれを、いっさいの遠慮も躊躇もなく、無造作に取り上げた。
「ハッ、ハハハハハ……ッ。あははははははっ! あーっはっはっはっは、ひっひ……っ、ひゃぁーっはっはははぁあっ!!」
ふたつの遺体が横たわり、赤黒い染みが濃淡を描いて一面に飛び散った凄惨な室内で、カルロスはイザベラのデータ・ファイルを握りしめたまま、狂ったように床を転げまわって笑い倒した。
のたうちまわり、何度もひきつけを起こしかけ、呼吸困難に陥りながら、それでもカルロスは笑いをおさめようとしない。恍惚とした表情で時折手にしたファイルを眺めては、満足そうに抱きしめてまた笑い転げ、のたうちまわった。
それは、真に身の毛もよだつ、醜悪このうえない光景だった。
吐き気を催すほどの不快な戦慄に心を支配されながら、シヴァはそれでも、躰中の勇気と気力を掻き集めて手もとの銃を握りしめた。
このままにしておくことはできない。
身の内から迫り上がってくる嫌悪と恐怖を懸命に鎮め、彼は銃を構えようとした。そのとき、
「困りますね、そんなことをされては」
青年のすぐ背後から、凛とした声が飛んだ。
カルロスの哄笑がぴたりと熄む。青年が振り返ったその先に、アドルフ・グレンフォードが立っていた。
「これはこれは、我が最愛の弟君にして、グレンフォード財閥新総裁閣下」
一瞬、殺意と憎悪を剥き出しにしたカルロスは、すぐに炯々たる眼差しを愛想笑いに換えてゆっくりと床から起き上がり、猫なで声で無粋な来訪者を迎えた。アドルフ・グレンフォードは、青年のわきを素通りして中央管制室からメイン・コンピュータ・ルームへと足を踏み入れた。
「グレンフォード家の人間が、卑しい泥棒猫のような真似をされるなど、あまり感心できることではありませんね」
「おやおや、これはとんだ濡れ衣だな。私は他人のものをこそ泥のように盗んだおぼえはないね。自分の力で苦労して手に入れたものを不当に奪われた。だからそれを取り戻しに来た。ただそれだけのこと。いわば、これは正当な権利なのだよ」
「それは貴方のものではない」
アドルフ・グレンフォードは冷ややかに言い放った。
「それは、私の元部下のものです。返していただきましょう」
「死人に、いまさらなにが要る」
カルロスはせせら笑った。
「下賤の血を引く輩に栄華は似つかわしくない。そうは思わないか、アドルフ。ならば、せめてもの手向けに、彼の貴い犠牲を最大限に活かしてやろうじゃないか。この中に保存されているものの真の価値を理解する者こそが、その役目を担うにもっとも相応しい!」
カルロスは得意然と演説する。勝者は自分だ。末弟を見上げるその目が、そう物語っていた。
なにかある。
ふたりの様子を窺っていたシヴァは、息を詰めてそのやりとりを見守った。
「アドルフ、ひとつ取引をしよう」
言って、カルロスはニヤリと笑い、立ち上がった。
メイン・コンピュータのコンソールのまえまで移動して、いくつかのパネルを操作し、やがて顔を上げる。そして、手にしていたデータ・ファイルを見せびらかすように翳してみせた。
「おまえがどうしても、と望むならば、このファイルを返してやってもいい。だが、そのかわりにおまえは、この文書の内容に同意して、いまこの場で手続きを完了させるんだ。すなわち、グレンフォード財閥の総裁を退任して、その地位と全権をカルロス・グレンフォードに譲渡する、と」
どうだ、できるか。
挑発的な態度でカルロスは末弟を見た。
アドルフ・グレンフォードは、ややあってからゆったりとした歩調で次兄に近づいた。青年の位置から、その表情を窺い知ることはできない。だが、アドルフは平静さを保った声ではっきりと答えた。
「いいでしょう。取引に応じます」
そして、無造作に画面に手を置いて指紋を読みこませると、表示された文書の文言に目を通すことさえせず、兄の要求するまま手続きを完了させてしまった。
あまりの呆気なさに、さすがのカルロスも一瞬唖然として画面の表示する電子文書に目を落とす。しかし、すぐに我に返るや、勝ち誇った笑みをその口許に浮かべた。
「なんともけなげな。おまえがそこまであの女を愛していたとはな! いいだろう。約束どおり、あの女をおまえの手に返してやろう。さあ、受け取るがいい!」
高らかに宣言して、カルロスは劇がかった手つきでデータ・ファイルを差し出した。アドルフがそれを受け取ろうとさらに近づいて手を伸ばす。カルロスの勝ち誇った表情の中に突如獰猛な光が宿って、その牙を剥いた。
「バカめ! くだらん情にほだされて、みずから罠に落ちたな。死ね、アドルフッ!」
叫びざま、カルロスは飛び退き、操作卓の角にある赤いスイッチを押した。瞬間、天井に取りつけられた複数のレーザー砲がいっせいに一点に向かって火を噴いた。
部屋中で炸裂した目映い閃光。
「ぎ、やーあ…ぁあぁぁぁー……っっ!!」
聞く者の心臓が握り潰されるような断末魔が、辺りの空気をまとめて切り裂いた。
そして――
数瞬の後に戻った光度と静寂。
青年が眩む目を凝らし、かろうじて確保した視界の中で、白煙と鼻を突く臭気を漂わせ、焼け爛れた黒焦げの物体が声もなくどさりと倒れた。その無惨な姿を淡然と見下ろす人影。
期せずして死への扉を押し開いたのは、狙われたはずのアドルフではなく、その暗殺を企てたカルロスのほうだった。
「私の生命を狙った瞬間に、その者はただちに賊と見做され、抹殺するものとす。
《Xanadu》のホスト・コンピュータには、そのような極秘プログラムが至上命令としてインプットされていたのですよ、カルロス兄さん」
アドルフ・グレンフォードは、ついいましがたまでカルロス・グレンフォードだった物体に謐かに語りかけながら、その焼け焦げた遺体がなおもしつこく握りしめるものを肉塊から引き剥がした。
穴が開き、一部が欠損したデータ・ファイル。
「3代目総裁カルロス・グレンフォードの死亡により、財閥の運営権は新総裁アドルフ・グレンフォードに委譲されるものとする」
あきらかに第三者に聞かせる意図をもって音声入力で電子文書を起こしたアドルフ・グレンフォードは、すみやかにコンピュータ処理による再手続を終了させると、破損したファイルを手に、別の亡骸へと歩み寄った。
横たわるその人物の傍らに膝をつき、胸の上で組んだ両の手の内にファイルを滑りこませる。
「今度こそイザベラはおまえのものだ。永遠に……。もう二度と、放してはいけないよ、マリン」
元部下だった青年の額にかかる髪をそっと掻き上げながら、男は穏やかに囁きかけた。そして、上衣の内ポケットから取り出したものを開いてしばし瞶める。やがて、それをもヴィセラスの頭の横に置くと、男は静かに立ち上がった。
アドルフ・グレンフォードは、去っていった。
――もう、二度と会うこともあるまい。
先刻の言葉に偽りはないことを証明するように、一部始終に立ち会っていた青年の存在を彼は完全に黙殺し、視線すら合わせることもなかった。
訪れた静寂の中、青年がヴィセラスの横に認めたもの――それは、グレンフォードの紋章が入った銀製のカードケースから浮かび上がる、聖母のように汚れなき微笑を湛えた、亡き母の像だった。




