第39章 崩れゆく黄金の玉座(2)
女は、男を膝に抱きかかえたまま、途切れ途切れに漏れるかすかな声で歌を歌っていた。少し離れた場所には、もう1体の遺体が転がっており、臭気漂う室内のいたるところに、凄惨な赤黒い染みが散っていた。
デリンジャーが無言で女の背後に立つと、歌声は途切れた。彼に背を向けたまま、クローディアはひっそりと言った。
「たったいま、息を引き取ったわ」
「そう」
「最期まで、孤独なまま逝ってしまった。可哀想な人……」
「でも、あなたが看取ってあげたでしょう」
「そうね。あたしが自己満足しただけで、この人にしてみたら、どうでもいいことだったでしょうけど」
言って、クローディアは自嘲的に笑った。
「いいの、本当のことだから。そのぐらい、ちゃんとわかってるわ。だから、慰めも同情もいらない。あたしは彼にとって、使い勝手のいい、都合のいい女だったってだけの話で、彼に愛されてたわけじゃない。ちゃんとわかってるのよ、そんなこと。でも、だったらおあいこかしらって思うの。あたしも、彼を愛してたわけじゃなかったから……」
クローディアは、腕の中の男の髪を優しく撫でつづけた。
出逢った当初から、その関係は冷めていた。好きだったのかと訊かれれば、彼女はそれについて、己の中に明確な答えを見いだすことができなかった。
出逢って、差し出された手がそこにあったから握った。ただそれだけ――
離すことはいつでも容易にできたはずだった。けれど、彼女にはそれができなかった。
人は変われる。
諜報役として潜りこんだスラムで、ルシファーやその仲間たちと過ごすうち、彼女は身をもってそのことを知った。いつのまにか、彼らの持つ雰囲気が肌に馴染んで居心地のよさをおぼえ、心の底から彼らとの日々を楽しんで笑っている自分がいた。
愛人と称しながら、そのじつ、彼女の心が変化しはじめたころからルシファーは彼女に触れなくなっていた。
見守るように、ただ穏やかに、彼女が振り返ると彼はいつもそこにいた。
彼女の中で芽生えたものは、信頼と、友愛の情。
もう、愛人には戻れない。告げた彼女に、ルシファーは言った。ひと言、それでいい、と。
彼女は安息を手に入れ、そしてそれゆえ、マリンの絶望の深さを思い知った。
自分が彼の手を掴んでいても、彼は決して握り返さない。だから一度離れてしまえば、もう二度と彼を捕らえることができなくなる。
自分の手から滑り落ちて、マリンが冥に沈んでしまうことが怖かった。
「彼といると、いつも苦しかった。彼はいつだって、自分の心の深淵にひそむ冥しか視ていなかった。彼は、あたしのことなんて少しも必要としてない。ただ利用されてただけ。わかってたけど、どうしても離れられなかった。彼は孤独。そしてあたしも独り。おなじ寂しさを、あたしたちは抱えてるような気がしたから」
――あなたは間違っている。
翼のように、自分にもそう言ってやることができたなら……。
彼女がマリンに願ったことは、ただひとつ。
「彼に愛されたいと思ったことはないわ。でも、彼が心から笑ってくれたらいいのにって、ずっとずっと願ってた。そしたらあたしも、救われるような気がしたから。あたしはただ、彼に微笑ってほしかっただけなのよ」
「そういうのをね、『愛情』って呼ぶのよ」
クローディアは黙って俯いた。
「いらっしゃい。少なくとも、いまのあなたは孤独じゃない。一緒に闘った仲間が、ちゃんといるでしょう?」
女は、かつての愛人をそっと床に横たわらせると立ち上がった。
「あたしは、非道い人間だわね。本当は、彼にとどめを刺したくて、ここに来たの」
「終わらない苦しみから、解放してあげたかったからでしょう? あんた自身も、もう自由に生きていいと、あたしは思うわよ」
「そう、かもね……」
クローディアは未練を断ち切るように愛人から視線をはずすと、自分を迎えにきた仲間の許へ歩み寄った。金髪の黒人は、そんな彼女を促して、血腥い管制室をあとにした。おとなしくそれにしたがいながら、女はひろい背中に向かって言った。
「あんたが妙に優しいと、気持ち悪いわ」
彼女の天敵は、それを聞いて肩越しにチラリと振り返った。
「あーら、あたしはたんに、ケンカ仲間が落ちこんでると拍子抜けしちゃうから、しかたなく爪をひっこめてるだけよ」
飄然とした憎まれ口に、クローディアは相手のたしかな思いやりを感じて、泣き笑いのような表情を浮かべた。




