第39章 崩れゆく黄金の玉座(1)
偉大なる父、ウィンストン・グレンフォードが築き上げてきたものが、ほんの数時間のうちに見る影もなく崩落してゆく。
栄光、名声、富、権力……。
暴かれる研究施設での数々の非道と、グレンフォードの実体。
父が、そして自分たちがこれまでしてきたこととは、いったいなんだったのだろう……。
子供が欲しい。優秀な後継者が欲しい。
ただ、それだけの目的だったはずではなかったか。それなのに、実際に流れている実験風景と殺人部隊として活躍する『試作品』たちの映像は、なんとおぞましく、目を覆いたくなるような光景であることか。
これが、グレンフォードが一族をあげて望んだことであり、パンドラの箱を開けてしまった愚かなる行為への結末であったというのだろうか。
知らなかった、そんなつもりではなかったで、到底済まされることではあるまい。そのつけが、次弟カルロスの暴走をも招いたのだから。
倨傲の果ての破滅。それはまるで、イカロスの翼――
こんなにも高処までのぼりつめていながら、なおも父が欲した《太陽》とは、なんだったのだろう……。
疲れきった表情で椅子に座りこんでいたマグダレーナは、約束されたはずの栄華が色を失って、汚泥に塗れていくさまを、ぼんやり眺めながら思った。
繁栄という名の黄金の玉座が、為す術もなく崩落していく。
宝玉に鏤められた黄金の塔は、あまりにも脆かった。
堅固な礎を築いたと思っていた。だが、気づかぬうちに塔は、あまりにも高く聳えすぎていた。否、自分は本当に気づかなかったのだろうか。そうではない。重心を失って塔が軋む音を、何度も耳にしていたはずだった。だが、修復すれば問題はないはずだと高を括っていた。ひょっとすると、そう思いこみたかっただけなのかもしれない。父は、彼女にとって神にも等しく、それゆえ、決して過ちなど為し得ない存在だった――
「姉上、どうなさるおつもりです?」
座りこんだまま、なんの対処もしようとしない姉を見咎めるように弟妹たちがそろってやってきて、口々に意見を求め、あるいは苦情を申し立てた。
「そうですわ。こんなところで悠長にお座りになっている場合ではありません。なんとかいたしませんと、このままではグレンフォードの破滅です」
「だから言わんことじゃない。アドルフなどに総裁が務まるはずなどなかったんだ! いまだって雲隠れしたきり、なにかしら手だてを講じる気配すらみせないじゃないですか。どうせ不測の事態に直面して、怖くなって逃げたに決まってますよ。新総裁が聞いて呆れる。とんだお飾りもあったものだ!」
「あたくしだって猛反対しましたわ。それをお聞き入れにならずに押しとおしてしまわれたからこんな……」
「たかが役人風情の仕事で、社会勉強になどなるものですか。お父様は、末っ子という理由だけであの子を甘やかしすぎたのよ。グレンフォードを束ねる力など、最初からあるわけもなかったのに。そうじゃありません?」
グレンフォードの実質的な権限を握る長姉は、冷ややかに彼らを見やった。
これが、世界に冠すると謳われた《グレンフォード一族》の『実体』なのだ。
情けなく思うと同時に、つくづく思い知らされる。そして、実感せざるを得なかった。お父様、あなたは間違っていた、と。
マグダレーナは、度を失うあまり浅はかさを露呈させる弟妹たちを一喝した。
「お黙りなさい、見苦しい! 主柱となって財閥を支えるべき人間が、そんなことでどうします。アドルフは若年ながら我がグレンフォードの事実上の当主。その総裁の命なくして勝手をするなど、このわたしが許しません。ましてこのような場で、こともあろうに一族の長に対する不服を申し立てるなど言語道断。おまえたち、恥を知りなさい!」
反駁を許さぬ厳しい口調で叱咤すると、グレンフォードの女帝は弟妹たちを下がらせた。
修繕不能な醜い亀裂が、ここにも数条――
なにもかも心得た様子で、だが、あえて遠目から自分を見守っている夫とわずかに視線が交わった。かすかに目線のみで頷いてみせるその表情から、夫がいつでも自分を支える心構えでいてくれることが窺える。そのことを、マグダレーナはなにより心強く感じた。
「こうしてみると、グレンフォードも馬鹿が多いな」
いつのまにか背後に控えていたグレンフォード家の長男が、皮肉げに嗤った。
「あの子の沈黙の意味が、わたしにもようやく解ったわ」
このような状況に置かれてみると、あらためてそれぞれの思惑や本心が、如実に言動にあらわれているのがわかる。欺瞞で塗り固められた建前は、全員が集まっているからこそなおさらに、取り繕っているつもりの当人の意に反してメッキが剥げ落ちていた。
「新総裁は、なかなかのキレ者らしい。親父の選択は、間違ってなかったってことさ」
「カルロスは、どうしたかしらね」
「真っ先に粛正された、と見るべきだろうな。マギー、『トロンプ・ルイユ』って知ってるか?」
唐突な話題転換に、マグダレーナは眉を顰めた。
「『だまし絵』が、いったいなんだっていうの?」
「反アドルフ体制派が、組織運営時に秘密裡に使用しているコードネームさ」
一族の様子を眺め渡したまま、バーナードは取り澄ました顔でさらりと言ってのけた。
「カルロス、ハワード、デューガン、スタニスラフ。とりあえずこの4人は、俺が調べた範囲で確実に黒だな。アルフォンソ、アメリアあたりは、かぎりなく黒に近い灰色ってとこか」
「ロデリックは、あなたにとって義理の父親じゃないの」
「そんなものにほだされてちゃ、弱肉強食の世界では生き残れまいよ」
バーナードは、さも愉しげに笑った。
「叩けば埃はいくらでも出る。ならば、そんなものはすべて払い落としてしまえばいい。むろん、その逆を見極めるにも、この場は恰好のシチュエーションになる。篩にかけて残った人間こそが本物の味方。それが、この茶番の狙いだろう」
「おまえは、最初から気づいていたのね」
「なにをもって、どこから『最初』と言うのかはわからんし、俺はそこらへん、すっかり親父の傀儡と化してたから、ピンとくるまでに間があったがね」
「わたしに黙っていたのはなぜ?」
「わかったとしても、姉貴はあいつを止めないだろうと思ったからさ。むしろ、喜んで片棒を担ぐと俺は思ったね。あんたなら、どうせすぐにあいつの意図を察する。俺たちふたりが話し合ったところで、なにも為すべきことがないなら、ただでさえお互い多忙の身だ。余分な時間を割く必要はないと思ってね。あいつのしたいようにさせておくのがいちばんさ」
バーナード・グレンフォードは、不敵な笑みを浮かべた。マグダレーナは深い溜息をついた。だが、異母弟の見解に、異論はないようだった。
「あいつから、たったいま連絡が入った」
室内を泰然と見渡していたバーナードが、不意に低く漏らした。マグダレーナは目を瞠って弟を顧みた。
「……なんと言ってきたの?」
「この《Xanadu》を、つい先刻、彼の御仁に売り渡したそうだ」
「なん、ですって……っ」
驚く長姉に男が目線で示す。その先に、パーティー会場とスラム地区、それぞれの様子を映す複数のモニターがあった。そのうちのひとつのまえで、先程から、ふたりの紳士が床に根が生えたように佇立したきり、微動だにしない。
そこに、ある人物が映し出されていた。
「――それで? それを聞いて、あなたはなんと答えたの?」
事態を理解したマグダレーナは、気難しげな表情を浮かべた。
「べつに」
バーナードは、いともあっさり告げて肩を竦めると、自分を凝視している姉に視線を戻した。
「いまさら、いやもおうもないだろう? あいつが決めたことなんだから。あいつのしたいようにすればいいさ」
「随分と寛大なのね」
マグダレーナの言葉には、あきかな皮肉が混じっていた。だが、男は声をたてずに笑うばかりだった。
「バーナード、本当にそれでかまわないの?」
「ああ、かまわない。あいつの気のすむようにすればいい。べつにものわかりのいい、優しい兄貴を気取るつもりはないが、俺はあいつに、大きな借りがあるからな。この程度の我儘くらい、笑って聞いてやらねばなるまいよ」
異母弟のいう『借り』の内容に、マグダレーナはすぐさま思いあたって眉根を寄せた。
「イザベラのことなら、あなたが悪いわけではないわ」
「別段、罪悪感に打ちひしがれたりはしちゃいないが、それでも責任はあるさ。それが『なに』に使われるか承知したうえで、子種を提供したことにかわりはないんだからな」
露骨な表現に、姉は眉を顰めた。だが、男は頓着しなかった。
「グレンフォードに生まれた者の宿業。はじめからそう割りきっていたから、嫌悪も罪の意識もとくに感じなかったし、いまもその意識は変わらない。それは他の連中も皆おなじだろう。だが、あいつは深く傷ついた。イザベラの存在を、徹底的に切り捨てずにはいられなかったほどに――」
「…………」
そのことで、アドルフが父や兄たちを非難したり、怒りを露わにしたことは一度もない。彼の態度は、事実が発覚した以降も一貫して、それ以前と変わることはなかった。
ただ、イザベラだけが我が子を、己の妄念の中に絡めとるように苦しみと絶望の淵に立たせ、かわりにみずからは、狂気の底へと堕ちていった――
「……アナベルは、彼に会ったのかしら」
須臾、押し黙ったマグダレーナは、やがてシルヴァースタイン家の兄弟が凝視しつづけるモニターの映像を眺めやりながら、ぽつりと言った。
失踪したはずのその人物は、モニターの中で、軍服に身を包んでいた。
「さあ。お膳立てはアドルフの奴がしたようだが、いずれにせよ、あのご令嬢には真実を見極める賢さがある。俺は、そこに賭けたいと思うがね」
兄弟たちから少し離れた場所で、アナベルの両親も一族の当主とともに、その映像を無言で視つめていた。その様子を見守りながら、グレンフォード家の長男は述懐した。
場内にひろがる不安と動揺は、虚飾に彩られた人々の邪念と打算とを含んだ気配となって、なおも澱んだ空気の中に充満し、怪しく蠢いている。
バーナードの口許に、皮肉を象った笑みが浮かんだ。
「出入り不可能な狭い空間に、こうして身内だけで閉じこめられてると、だれにどんな腹蔵があるのか一目瞭然だな。掃除のしがいもあるってものだ」
「ええ、たしかにそうね。玉座や塔の形は崩れて失くなっても、黄金そのものは、破片となってその素地の上に堆く積もっている。なにも、恐れることなどないのだわ」
「そういうこと」
バーナード・グレンフォードは、あくまで従容として頷いた。




