第38章 全能神(1)
「軍曹!」
「チッ、貴様……っ」
「おっと、動くなよ。手もとが狂ってズドンとやっちまっても、責任は取れねぇぞ」
揶揄たっぷりの口調に、少年は憤怒のあまり、どす黒く顔を染めた。が、不意に、その口許に邪悪な笑みを刷いた。
「やれるもんならやってみろよ。けど、そんときゃ、おまえの可愛いコちゃんも道連れだ。ああ、絶対に道連れにしてやる。それでもいいんだな?」
ヴィンチの握りしめている銃が、迷うことなくシヴァの眉間を狙った。瞬間、ザイアッドの表情が豹変した。
「図に乗るのも大概にしろよ、クソ餓鬼がッ」
低い、低い声が、男の怒りの凄まじさを物語っていた。そのあまりの迫力に、彼と慣れ親しんだ翼たちですらもが気圧されたほどであった。ヴィンチの顔に、はじめて恐怖が浮かんだ。屈辱を感じるより先に、少年はその怒気に呑まれ、完全に射竦められていた。
「オラァな、いま、ほんっ気でドタマきてんだよ。おまえを八つ裂きにしても全っ然足んねえぐれえになっ」
尋常ならざる殺気を後背から浴びせかけられて、少年は戦慄に顔を歪ませた。
「よっ、よせっ! 本気だぞ、本気で道連れにするぞっ」
「ほう、他人の生命は毛ほどに感じなくとも、自分の生命はそんなに大事か。好きにしろよ。ただし、やれるもんなら……なっ!」
言いきると同時に、男は少年の足を背後から大きく払った。そして――
「エリスッ!!」
叫んで、みずからの銃を抜群のコントロールで抛った。
「まだ殺すな!」
その意を受けて、青年がすばやく反応する。飛んできた銃を流れるような動作で掴むなり、シヴァは照準を合わせたかどうかも見ている者に判別がつかない速度で引き金を引いた。
「ぎやあぁあぁぁーっっ!!!」
聞く者の背筋に冷たい戦慄が走る絶叫を放ちながら、どさり、と重い音をたててヴィンチが床に倒れこんだ。その左足の太股から、大量の鮮血が溢れ出た。
冷ややかにそのさまを見下ろしたザイアッドの胸が、深紅に染まっていた。
「ラルフ……ッ!」
気づいたシヴァが、低い悲鳴をあげる。けれども、男は無言で戸口の向こうへと姿を消した。
ただならぬ様子に、呼び止めかけたシヴァは口を噤んだ。そこへ、男はふたたび現れ、今度はゆっくりとした足取りで部屋の中に入ってきた。その腕に、ある人物が抱きかかえられていた。
「刹っ!!」
室内に、たちまち驚愕の声があがった。
完全に血の気の失せた、蝋のように白い顔を仰のかせ、刹はぐったりと抱きかかえられたままピクリとも動かなかった。
「そんな……、まさか軍曹――」
翼の問いかけに、ザイアッドは今度もやはりなにも答えず、かわりにシヴァに向かって目顔で合図した。美貌の青年が遠慮がちに歩み寄ると、男はその手から銃を受け取った。
「刹、わかるか? 標的はそこだ。しっかりおとしまえをつけろ」
言って、ザイアッドは静かに刹の足を床に下ろした。その手に銃を握らせてやりながら、男はわきから抱え上げるように虚脱しきった全身を横から支える。
ピクリ、と瞼をふるわせた刹が、ゆっくりと目を開け、かすかに喘いだ。
「刹っ!」
額に細かい汗をびっしりと浮かび上がらせ、浅く、速く呼吸を繰り返す青年を、その場にいた全員が固唾を呑んで見守った。
刹は、焦点の定まらない目を懸命に懲らし、握った銃を構えようと歯をくいしばった。しかし、鉛のように重くなった腕は、もはや自分の力で持ち上げることさえかなわなくなっていた。
「い、いやだ……。死にたくない、まだ死にたくない…っ。助けて、助け……っ!」
大動脈を貫通した傷口から大量の血を溢れさせながら、ヴィンチがもがき、必死で出口に向かって這いずっていこうとする。なにかに取り縋ろうと伸ばした手が、ちょうどそこにあったもの――絶妙のタイミングで現れた、新たなる人物の足を掴んだ。
「引き金を引くのを、手伝ってやれ」
入り口で茫然と立ち尽くす少年に向かって、ザイアッドは言った。
「おまえが一緒にけじめをつけてやるんだ。狼」
その言葉に、男の腕の中で刹がわずかに身じろいだ。
気力をふり絞って目を向けた先に映った像は、やはりぼんやりと滲んで、ピントを合わせることができなかった。だが、刹にはそれで充分だった。
ああ、来てくれた――
相棒がいま、どんな表情で自分を見ているのか、その思いごと、痛いほどに伝わってきて、刹は申し訳なく思った。けれども、それでも満たした感情は、嬉しさのほうが大きかった。
やっぱり来てくれた。狼……。
「刹に、手を貸してやれ。狼」
静かな口調で重ねて促され、狼はなおも茫然としたままヴィンチの手を払いのけると、ふらふらとした足取りで部屋に入ってきた。
目の前に立った自分を、相棒の虚ろな瞳がぼんやりと見返す。焦点がまるで合っていない。自分の姿が少しも映っていない。
変わり果てたその姿を、いくら凝視しても、狼は現実のこととして受け止めることができなかった。
刹に、触れるのが怖い……。
触れてしまえば、それは嫌でも現実のこととして実感せざるを得なくなる。
躊躇う少年に、刹が、かすかにその口唇を動かして囁いた。
「ロ…、……」
言葉にならないその思いを受け止めた瞬間、狼は決然として相棒の腕を取った。刹の手を包みこむようにしっかりと自分の手を重ね、指に力をこめて銃を握りしめる。そして、その腕を支えながら刹に銃を構えさせると、照準を合わせ、引き金を強く絞った。
静寂の中、谺した1発の銃声。
刹には、なぜかその音が聞こえなかった。
だが、彼はその無音の中で、満ち足りた思いを味わっていた。
なぜ、いまのいままで気づかなかったのだろう。愛する者たちに囲まれ、自分の人生はこんなにも幸せだったというのに。
裏切り者に成り下がってまででも、それは守り抜きたいものだった。
自分の喜びも、そして幸せも、いつも隣で輝くように笑い、なにも言わなくとも理解してくれた親友とともに、たしかにあったのだ。
狼、おまえと出逢えて、本当によかった……。
鋭く反響していた音が周囲に拡散し、室内にふたたび静寂が訪れた。
頭部を後ろから撃ち抜かれたヴィンチは、瞬間、魚のように跳ね上がった。反動で激しく床に頭を打ちつけ、ビクビクと痙攣を繰り返す。そして、やがて動かなくなった。
息をついて狼は腕を下ろし、相棒の手を放した。その指から銃が滑り落ち、床の上で冷たい金属質の音を響かせた。
「せ――……」
よろめいて数歩下がった狼の背に、ドンッと壁が当たった。
だらりと下がった腕。力の抜けた膝。俯いたその顔には、なぜか穏やかな表情が浮かんでいた。
「かっ、かしら……っ!」
「嘘だ……。なんでこんなっ!」
「いやだっ! 目を開けてくれよっ。オレたちを置いてかないでくれ…っ! 頭ーァァァッ!!」
刹の躰をザイアッドが静かに横たえさせると、連れてきた《夜叉》のメンバーが次々に取り縋って号泣した。
自分がいま見ているこの光景は、いったいなんだ――
狼は、壁に体重を預けたまま、ぼんやりと思った。
なにをどうしたら、こんな展開になるのかがわからない。
『狼、あとのことをよろしく頼む』
そう言って別れたのは、つい先程のことだった。
あのとき、刹はいつもと変わらぬ様子で笑っていた。自分の心配を、ばかだなと、笑い飛ばしさえしたのだ。それからまだ、半時も経っていない。それがなぜ……。
ボスの亡骸に縋りつくメンバーたちのあいだから、相棒の安らかな死に顔が覗く。まるで、刹自身がそのことを受け容れた結果であるかのように。
「どうして、こんな……」
呟いた自分の声が、ひどく遠いところで聞こえた。
よく頑張った。刹の額を優しく撫で、そう労いの言葉をかけて立ち上がったザイアッドと、不意に目が合った。その服が、刹の流した血に染まっていた。
「な、んで……」
これまで、どんなときにも悠然と自分の視線を受け止めてきた相手。そのザイアッドが、はじめてみずから視線を逸らした。ひどく、つらそうに。苦しそうに。
「すまない」
ぽつり、と漏れた謝罪の言葉。
なぜ……。
自分に、謝られる理由などない。そして、男が謝る理由も。
だが、本当は解っていた。やり場のない自分の思いと憤りの捌け口を、男は、みずからが責を負うことで受け止めようとしてくれていた。解っていてなお、狼は感情の爆発を抑えることができなかった。
「きっさ…まぁー……っ!!」
「狼ッ!?」
凄まじい形相で飛びかかり、激情にまかせて振り下ろした拳を、男は避けなかった。
「なぜ刹を死なせたっ! なぜ助けなかった!? どうしてっ、なんだってこんな……、こんなっ――」
眩むような激烈な瞋恚に感情を支配され、胸倉を掴んで激しく揺さぶる狼の罵声を、ザイアッドは切れた口唇の端から伝い落ちる血を拭おうともせずに黙って受け止めた。制止しようとするシヴァや他の者たちを、男は無言で制し、下がらせた。
こみあげる苦しみ。怒り。やりきれない思い。絶望と後悔。
深い、悲しみ……。
ザイアッドの、口にはしない思いやりと度量のひろさが、ありがたかった。
刹――っ!!
握りしめた拳を、男のひろい胸に強く叩きつけ、顔を埋める。涙は、不思議と出てこなかった。だが、止めることのできない躰のふるえが、いつまでもつづいた。その背を、いたわるように受け止めるあたたかな手が、ゆっくりと、静かにさすりつづける。狼は、ふるえがおさまるまで、じっと動かずにいた。
《夜叉》の少年たちの、噎び泣く声と低い啜り泣きが次第に弱まっていく。やがて男から離れた狼は、悪かったと小さく漏らして踵を返した。その手に、男がなにかを握らせた。
「おまえが持っていてやれ」
渡された封筒の中身を、狼は無言であらためた。グレンフォード家の紋章入りの封書。狼は口唇を噛みしめると、同封されていたROMチップごと、それを握り潰した。
こんなもののために――
『ばかだな、狼……』
刹の笑顔が感情を掻き毟る。
なぜ、おまえはいつも笑う。なぜ、なにも言わない。
黙っていなくなられる俺の気持ちが、どうしてわからない。
ばかはおまえだ、刹。いつだってすべてを独りで抱えこんで、そうして抱えたまま、大切なものを遺して、逝ってしまう――
「――おい、いつまでも泣いてないで、そいつを運べ」
狼は、低い声で刹の配下たちに命じた。
「ボス……!」
無慈悲に聞こえるその命令に、《没法子》のメンバーが狼狽えた。だが、狼はかまわず背を向けた。こういうときの自分たちのボスに、なにを言っても無駄であることを知悉している彼らは、悲嘆に暮れる仲間の少年たちに慰めの言葉をかけ、刹を担架へと移した。
すべてから背を向け、狼は管制室を出ていこうとする。その足が、ぴたりと止まった。険しい表情が、入り口に向けられていた。つられて一同の視線が集まったその先に、ひとりの男が佇んでいた。
カルロス・グレンフォード。




